2.

 同じ年の閏十一月一日(一七九四年十二月二十二日)、歌舞伎の顔見世興行が始まった。喜乃が待ち侘びていた初日に、木挽町の河原崎座で大芝居を楽しんだ。

 帰り道に耕書堂に寄り、二人は懐かしい部屋で時を過ごしていた。


「今日も門之助は格好良かったなぁ。これからまた一年の間、門之助の芝居が観られると思うと、とても楽しみだなぁ」


 喜乃が胸に手を当て、感慨に耽る。二代目市川門之助は、喜乃の気に入りの役者だ。和事、荒事、武道事、舞踊を得意とし、女形の役で所作事も演じる。歳は五十を数えるが、若さ漲る人気役者だった。


(お喜乃は年上を好く向きがあるなぁ。周りに大人ばかりが、いたからかな。門之助は歳より若い外見だが……。外見で決めている訳でもなさそうだよなぁ……)


 自分が写した門之助の絵を嬉しそうになぞる喜乃を眺める。懸命に役者を捉えて絵を描く姿は、乙女ではなく、絵師だった。


(どねぃな男が好みなんだか。とんでもねぇ男を連れてきたら、十郎兵衛様に何と言い訳したもんか)


 喜乃の将来を案じていると、重三郎が部屋に入ってきた。


「よぅ、わざわざ寄ってもらって、悪かったな。お喜乃、久しいなぁ。元気にしているかぃ」

「蔦重さん、お久しぶりです。なかなかご挨拶にも来られなくて、ごめんなさい」


 ぺこりと下げた喜乃の頭を、重三郎が撫でる。


「構わねぇよ。お喜乃の事情は俺も心得ていんだ。吾柳庵に籠りっきりってぇのは、むしろ詰まらねぇだろ。時々にぁ、長喜に遊びに連れて行ってもらえよ」


 喜乃は一人での外出を制限されている。竹林より外に出る時は必ず誰かと共に――が、市井で暮らす条件だった。


「今日は長喜兄さんに芝居に連れて行ってもらったのよ。河原崎屋の顔見世に行ってきたの! 門之助がね、格好良くって見惚れちゃった。絵もたくさん描いてきたし、とても楽しかったよ!」


 激揚気味に写した絵を差し出す。重三郎が、何気なく絵を受け取った。


「絵を描いたってぇ? 長喜、桟敷にでも席を取ったのけぇ? 愛娘のために、ずいぶんと張り込んだなぁ」


 重三郎が、にやりと長喜を見やる。


「俺の稼ぎで桟敷に座れるかよ。土間から観ていたんだ。あんまりにも見上げているから、お喜乃の首が捥げるかと思ったぜ」

「捥げたら大事だ。次は桟敷に座らせてやれよ。どれどれ、お喜乃の絵は上達したか……」


 喜乃の絵に目を落とした重三郎が、言葉を失った。

 数枚の役者絵を何度も見比べている。


「これぁ、お喜乃が描いたのけぇ。お前ぇ、いつの間に、こねぇに描けるようになったんだ」


 絵からは目を離さず、重三郎が呟いた。


「驚いたろ。画工も顔負けの出来栄えだ。近頃、似絵で人気の歌川豊国にも負けていねぇと、俺は思うね」


 長喜が鼻高に自慢する。重三郎が素直に頷いた。


「ああ、長喜の言う通りだ。負けていねぇ。いや、豊国とは違う、人間としての味のある顔だ。手も良いな。顔の大胆さに反した手の繊細あえかが絵を引き立てていやがる」


 重三郎が本気で褒めるので、長喜は驚きのあまり言葉が出なかった。


「蔦重さんに褒めてもらえるなんて、思わなかった。ありがとうございます」


 喜乃が深々と頭を下げる。


「絵を描き続けてきて、良かったぁ。江戸一番の板元の旦那さんに褒めてもらえるなんて、とても贅沢だもの。嬉しいな」


 喜乃が目を薄らと潤ませて笑む。長喜も自分事のように嬉しかった。だが、それ以上に、重三郎の本気の目に驚きが隠せなかった。


(蔦重さんが手放しで褒めるなんざ、伝蔵以来だ。確かに、お喜乃の絵は一端のもんだが、まさか蔦重さんを、ここまで唸らせるたぁな)


 重三郎が、ようやく絵から顔を上げた。


「お喜乃、もっと描け。どんどん描け。描き続けりゃぁ、お前ぇは、きっと本物になる。描いたら、また、俺に見せに来い。約束だ、いいな」


 重三郎の顔には凄味が滲んでいる。

 背中が、ぞわりと寒くなった。


「約束、します。これからも、精進します。必ず、また見せに来ます」


 喜乃が頷きながら、攣縮した声を絞り出す。

 重三郎が満足そうに頷いた。


「そういや、長喜。下絵を持ってきたんだろ。預かるぜ。お前ぇ、他の板元の仕事は受けていんのか?」


 重三郎の纏う気が、がらりと変わった。

 長喜の伸びていた背から力が抜けた。


「あ、あぁ。持ってきているぜ。いっつも馬琴に取りに来させたんじゃぁ、悪ぃからよ。今は耕書堂と仙鶴堂の仕事しか、受けちゃぁいねぇぜ。元々、俺ぁ、兄ぃみてぇに数多描く絵師じゃぁねぇしよ」


 下絵の入った筒を重三郎に手渡す。


「そうかぃ。だったら歌麿みてぇに、たくさんの板元の仕事を受けておきな。お前ぇなら、あねぇな悪ぃ噂も立たねぇだろ。お前ぇは伝蔵と同じで、鼻も伸びねぇし、人付き合いが上手いからな」


 重三郎が筒を鼻に宛て、天狗の真似をする。


「兄ぃは確かに天狗になっていんのかもしれねぇがよ。蔦重さんを裏切ったりしねぇよ。他の誰でもねぇ、蔦重さんと兄ぃだ。二人の縁の深さを、他の奴らは知らねぇんだ」


 重三郎が大声で笑う。


「まったくだぜ。人気絵師に仕事が集まるなぁ、自然だ。大物になると妬心もでかくならぁ。その点においちゃぁ、勇記は躱すのが上手ぇからよ。案じてもいねぇや」

「ここんとこ、兄ぃが日を空けずに庵に来るぜ。人気絵師の歌麿先生は、お喜乃と絵を描いて遊んでいられるほど、暇じゃぁねぇだろうによ。躱すのは上手くても、気に病んじゃぁ、いるんだろうぜ」

「へぇ、お喜乃は歌麿大先生と一緒に絵ぇを描いていんのか。だから、こねぇに巧くなったんだなぁ。これからも、じっくり歌麿の絵を盗めよ」


 喜乃が眉を下げて首を傾げた。


「歌麿兄さんと絵を描くのは楽しいけど、何にも教わっていないわ。いっつも私の絵を怒るの。もっと男前に描け、とか。本物より美しく描け、とか。私は描きたいように描きますって、喧嘩するのよ」


 重三郎が、これまた楽しそうに大笑いした。


「そいつぁ、見物みものだな。美人の絵に掛けちゃぁ今や押しも押されもせぬ歌麿先生が、娘っ子に振られるたぁ。こいつぁ、形無しだ」


 腹を抱えて笑う重三郎に、長喜は問いを投げた。


「なぁ、蔦重さんよ。まさか兄ぃにも、他の板元の仕事を受けろって話をしたのかぇ? そねぇな話は、しちゃぁいねぇよな」

「話したぜ。他の板元の仕事をどんどん受けて、渡りを付けておけってな。始めは怒っていたが、仕舞いにぁ納得したよ。他の仕事を受けすぎているから、今は、うちの仕事が受けられねぇでいんのさ」


 長喜は思わず身を乗り出した。


「何でだよ。喜多川歌麿ってぇ絵師は、蔦重さんが育てたようなもんだろ。自分から手放すような話を、何でしたんだよ」


 重三郎の目が鈍く光った。


「歌麿を育てたのが、俺だからだよ。二の舞は演じねぇ。あいつの才を潰されて堪るもんかよ。俺がどれだけの伝手を使って、時も金も掛けて、喜多川歌麿を光らせたと思っていんだ。あいつぁ、これから、もっともっと巧くなる。耕書堂からも、もちろん絵を出す。今は、時機じゃぁねぇだけだ」


 長喜は身を引っ込めた。

 重三郎にとって、山東京伝の戯作が御禁制に触れた一件は、かなりの痛癢だった。伝蔵は、いまだに馬琴の手を借りて戯作を書いている。何度も辞めようと考えながら、何とか書いている状態だ。

 身代も然ることながら、伝蔵という才を潰されかけた事実が、重三郎にとり何にも代え難い損失だった。重三郎の怒りは、当時、居住をしていた長喜も感じていた。

 重三郎は、歌麿が京伝のように砕かれる事体を恐れている。喜多川歌麿という男の絵を守るために、敢えて今は自分から手放した。

 蔦屋重三郎の覚悟と執念を垣間見た長喜は、大人しく腰を降ろした。


「だから俺にも、他の板元から絵を出せってぇ、そう言うのかよ。俺ぁ、兄ぃや伝蔵とは違う。捕まりゃぁしねぇよ」


 何故か悲しい心持になり、顔が自然と俯いた。


「無理にとは言わねぇよ。けどな、仙鶴堂の仕事は断るなよ。お前ぇは器用なようで不器用だなぁ。もっと巧く生きな。優しいだけじゃぁ、飯は食っていけねぇぜ」


 困ったように笑う重三郎に、喜乃が乗り出した。


「私は、優しくて不器用な長喜兄さんが好きだもの。長喜兄さんは無理して絵を描いたりしない。その心持が絵にも表れているでしょ。だから、長喜兄さんの絵は、人気があるのよ」


 喜乃が鼻を鳴らして胸を張る。

 重三郎が、クックと笑みを嚙み殺した。


「確かに、お喜乃の言葉通りだ。長喜の絵は、大売れはしねぇが、いつも完売だからなぁ。しかしまぁ、長喜に育てられたから、お喜乃はこねぇな娘に育ったのかねぇ。また下絵が上がったら、持って来いよ、長喜。お喜乃と一緒にな」


 喜乃が長喜を振り返る。二人は顔を見合わせて笑んだ。


「今の耕書堂は、役者絵に力を入れていんだ。鉄蔵がやる気になったんで、組物を出していんだよ。だがなぁ、なかなか。勝川の絵様を超えられずに苦心しているぜ。気が向いたら、鉄蔵にも会いに来てやってくれよ」


 鉄蔵は数年前に、勝川春朗の名で絵師として自立した。風変りな趣向の絵ではあるものの、重三郎の言の通り、勝川派の絵の踏襲は否めない。

 門下なのだから当然だが、鉄蔵自身は納得できていないのだろう。いかにも鉄蔵らしいと、長喜は思う。


(鉄蔵も、一つの門下に収まるような絵師じゃぁねぇからなぁ。悩むってぇ質でもねぇと思うが。まぁ、顔くらいは拝んでやるか)


 鉄蔵の苦心する顔を思い浮かべて、長喜は苦笑した。

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