第六章 安穏で平凡な日々

1.

 寛政五年(一七九三年)の初冬、神無月も半分が過ぎた。

 長喜と喜乃が吾柳庵で暮らし始めてから、二年以上が経った。


 喜乃は約束を違えず、二月に一度は兄と父に文を送っている。文には、必ず返事が来る。喜乃も兄や父からの文を大事そうに読んでいる。江戸屋敷に身を寄せた十郎兵衛が、月に一度は吾柳庵を訪れて、文を渡しがてら喜乃と長喜の息災を案じてくれていた。


 相変わらず障子戸を開け放ち、庭に文机を向ける。真っ白な紙に向かい、長喜は筆を持て余していた。


「だから、あたしはもっと男前だろうに。どうして、こねぇに滑稽な顔を描くのかねぇ。お喜乃には、目玉が付いていねぇのけぇ」


 扇子で床を叩きながら、歌麿が機嫌の悪い声を飛ばす。喜乃も負けずに言い返す。


「滑稽には描いていないよ。歌麿先生の顔を見たままに描いたの。私には、こう見えるんだもの。それにね、男前って、伝蔵さんみたいな男の人に使う言葉よ」

「あたしは男前じゃぁねぇってぇのか? お喜乃は全く見る目がねぇなぁ。青楼じゃぁ、引手数多のあたしに、ずいぶんな物言いだ。尻の青い小娘じゃぁ、仕方がねぇかぁ」

「私は、もう小娘じゃないわよ。十五歳にもなったんだもの。もう立派な大人です!」


 頬を膨らませて、ぷぃっと顔を背ける。その仕草は、長喜にも子供に見えた。


「この程度で剝れるなんざぁ、小娘だろ。大人の女なら、笑って流すぜ。わかっちゃぁいねぇなぁ」


 扇子で口元を隠し、歌麿が笑みを含む。


「十五の小娘を本気で揶揄う兄ぃも子供のようだぜ。男前な大人なら、笑って流してやれよ」


 呆れ声の長喜を、歌麿が睨み付けた。


「あたしは小娘に意見しているんじゃぁねぇ。絵師のお喜乃に意見しているんだ。美しいものは、より美しく細やかに描く。それが絵師の本懐だろ。お喜乃は、見たままを描きすぎるんだ。絵でしか表せない姿を描いてこその絵師だろうに」


 歌麿が、ふんと鼻を鳴らす。


「歌麿先生の絵は確かに美しくて細やかだけど、それだけが絵ではないと思うの。石燕師匠は好きに描いていいと教えてくれたわ。私は、本然の姿を描き表したいの。私の絵も歌麿先生の絵と同じように、絵でしか描き表せない姿だと思うわ」


 喜乃と歌麿が睨み合う。両者一歩も譲らぬ気魄に、長喜が割って入った。


「よせやぃ、二人とも。どっちも間違っちゃぁいねぇよ。絵師としての心持の違いだろ。お喜乃と兄ぃは目指す先が違うんだ。言い争うだけ徒労だぜ」


 近歳の歌麿は、三日に空けず吾柳庵を訪れる。これといった用がある訳でもないらしい。喜乃の絵に難癖を付けては揶揄って、自分も何枚か絵を描いて遊んでいる。


「あたしは、お喜乃に絵の何たるかを教えてやっていんだよ。この歌麿から絵の指南をしてもらえるなんざ、滅多にねぇ。有難く拝聴するのが道理だろ」


 喜乃が、お多福のように膨らんだ頬を更に膨らませた。


「私の師匠は石燕師匠だけです。歌麿先生に絵の指南を頼んだ覚えはないわ。平素から長喜兄さんに色々教えてもらっているもの。歌麿先生の指南は要りません」


 ぷぃっと顔を背ける喜乃に、歌麿がキリキリと歯嚙みした。


「本に、生意気な小娘だ。飛ぶ鳥を落とす勢いの歌麿に何てぇ言い草だぃ。しかも、同じ門下だってぇのに、何であたしは先生なのさ。長喜と同じに兄さんと呼べばいいだろ」

「嫌よ。私の兄さんは長喜兄さんだけなの。それに、天狗の兄さんなんて要らないわ」


 喜乃が、あっかんべぇと舌を出す。


「好きに言わせておけば、調子に乗るんじゃぁねぇや、小娘。こうなりゃぁ、どっちが巧く長喜を描けるか勝負だ!」


 歌麿が顔を真っ赤にして紙を差し出す。


「長喜兄さんなら、毎日、顔を拝んでいる私のほうが巧く描けるわ。美人の絵しか描かない歌麿先生より、ずっと巧く描いてみせるから!」


 喜乃が紙を受け取り、筆を執った。 


(二人の絵勝負が、まぁた始まったなぁ。ずいぶんと、楽しそうだ。二人とも、しばらく静かになるな)


 真面目な面持ちで筆を走らせる二人の姿を眺めて、長喜は息を吐いた。


 本人の言の通り、今の歌麿は自他ともに認める錦絵の寵子だ。大当たりした美人の大首絵の組物を次々と出している。青楼の遊女から水茶屋の天神娘まで江戸中の美人を描き尽くす勢いだ。歌麿の印があれば売れる、と板元が挙って歌麿の絵を出したがった。


 一方で、喜乃の言の通りに天狗になる歌麿を邪揄する読売も出ている。歌麿は意にも介さない様子だ。狂歌絵本として刊行した『潮干のつと』に「自成一家」の印を押した頃から、歌麿の信念は変わらない。


(まったく意に介していねぇ訳でも、ねぇんだろうがなぁ。気が小せぇくせに、自負がでか過ぎるのが、兄ぃの面倒な質だ)


 読売の中には、歌麿を裏切者と罵る内容もあった。長い間、耕書堂の占得の絵師さながらに絵を描いてきたが、人気が出るや否や他の板元から次々と組物を刊行している。その様が、歌麿が蔦重を裏切ったように、市井の人々には映るのだろう。


 真剣に紙に向き合い、丁寧に筆を滑らせる歌麿の横顔を眺める。


(顔には出さねぇし話もしねぇが、気にしていんだろうなぁ。頻繁に庵に来るのは、そのせいだろうな)


 懐かしい吾柳庵で、喜乃と言い合いをしながら絵を描くのが気晴らしになっているのだろう。喜乃のほうも、歌麿には、すっかり心を許している。喧嘩するほど仲が良いとは、まさにこの二人だと、長喜は感得する。


(兄ぃの寂しがりで気に病む質は、相変わらずで可愛いけどな。蔦重さんとの間も、本当のところは、どうなんだかなぁ)


 真相について、歌麿は何も語らない。その態度が、かえって不仲の噂を増長させていた。


 時折、長喜の顔を識認しては絵を描き進める二人を尻目に、長喜は真っ白なままの紙に向き合った。


「さてと、俺も何か描こうかねぇ。二人に後れを取っちゃぁ、詰まらねぇ」


 文机に向かい、筆を執る。筆に墨を含ませていると、庵の戸を叩く音がした。


「長喜よぉ、いるかぁ。蔦重さんの遣いで来たぜ。約束の期日にぁ早ぇが、絵が出来上がっていんなら貰っていくぜ」


 入ってくるなり歌麿を見つけた左七郎が、指をさして罵倒した。


「……あ! 裏切者の歌麿! 何だって、ここに、いやがるんだ!」


 歌麿が筆を止め、うんざりした顔を上げた。


「人の顔を見るなり無礼な物言いをするなぁ、誰でぇ。ああ、お前ぇは、耕書堂の手代の、確か……瑣吉、いや、清右衛門だったけぇ? 長喜に用事なんだろ。あたしに構うんじゃぁねぇよ」


 左七郎は昨年、耕書堂の手代となり、通名を瑣吉と改めた。今年の夏には重三郎と伝蔵の勧めで祝言を挙げ、滝沢(会田)清右衛門と名乗っている。

 ころころと名が変わるので、長喜は馬琴と呼ぶようになった。


 馬琴にとり、気の進まない婚姻だったようで、家に戻らず耕書堂に寝泊まりする日も多いらしい。戯作の傍らに手代の仕事を続けているので、今日のように長喜の下絵を取りに来る日も珍しくなかった。


「名が覚えらんねぇなら、曲亭馬琴と呼びやがれ! いいや、手前ぇに呼ばれる名なんざ、持ち合わせちゃぁいねぇ。蔦重さんへの恩義も忘れて、他の板元に傾倒する恩知らずな放蕩絵師に名を覚えられるなんざ、こっちから願い下げだ」


 吐き捨てる馬琴に向かい、長喜が手招きした。


「そんぐれぇにしておいてくれよ、馬琴。下絵なら描き上がっているぜ。蔦重さんのとこに持って行ってくれ。次の絵ぇは、そうさな、十日も貰えりゃぁ仕上がると伝えてくんな」


 数枚の下絵を差し出す。馬琴が丁寧に受け取った。


「確かに、承ったぜ。言付も一語一語、間違ぇなく伝えるぜ。長喜の仕事は、いつだって堅実だぜ。どっかの天狗先生とは大違ぇだ」


 歌麿に向かい、威喝して見せる。

 歌麿が苦笑した。


「やれやれ、嫌な小僧に絡まれたもんだ。すっかり興が削がれたなぁ。あたしは、そろそろ退散するかね。それじゃぁ、長喜、お喜乃。また、そのうちにね」


 ひらひらと手を振りながら、歌麿が庵を出ていく。


「待って、歌麿兄さん。竹林の外まで送るから。長喜兄さん、行ってきても、いいでしょ」


 喜乃が立ち上がった。

 歌麿が狐目を鶏のように丸く開いて喜乃を見詰めている。


「ああ、兄ぃを送ってやってくれ。通りまでは、出るんじゃぁねぇぞ。気を付けて、行ってきな」


 笑顔で頷き、喜乃は歌麿と庵を出て行った。

 二人の後姿を見送った馬琴が、不機嫌な顔をした。


「確かに同門だろうがよ。お喜乃は、兄さんと呼ぶほど、歌麿の野郎と親しいのかよ」


 くぐもった声を零す馬琴が可笑しくて、長喜は吹き出した。


「さぁて、どうだろうな。さっきまで喧嘩しながら楽しそうに絵を描き合っていたぜ」


 得心のいかない顔で、馬琴が長喜の前に座り込んだ。


「悪かったな。俺にとっちゃぁ胸糞悪ぃ相手でも、長喜やお喜乃にとっちゃぁ、尊敬する兄弟子だ。ちぃっとばかし、悪態が過ぎたよ」


 長喜は眉を下げ、小さく息を吐いた。


「素直な質はお前ぇの良いところだよ。気にすんな。兄ぃも気にしちゃぁいねぇさ。ま、耕書堂の手代としては、及第はやれねぇがな」


 むっと顔を顰めて、馬琴が腕を組んだ。


「俺ぁ、もう耕書堂の手代じゃぁねぇよ。仕事のついでに、ちょぃと手伝っているだけだ」

「へぇ、そうかぃ。で? ちゃぁんと家には帰っていんのか? 嫁さんを放っておいちゃぁ、可哀想だぜ」


 馬琴が、あからさまに顔を背けた。


「なぁ、長喜よ。俺ぁな、俺なりに手前ぇの恋心にケリを付けたんだ。長喜が、お喜乃と暮らし始めたから。長喜が相手なら、諦めも付くってよ。なのに、なんで手前ぇは、お喜乃を嫁にしねぇんだ。いつまで、こねぇな半端な仲を続ける気なんだよ」


 馬琴が真っ直ぐに長喜を見詰める。

 喜乃の事情を知らない馬琴には、長喜と喜乃の間柄が、もどかしく映るのだろう。 以前、伝蔵にも似た話をされた。

 長喜は、伝蔵にした返答と同じ話をした。


「俺とお喜乃は恋仲でも夫婦でもねぇよ。お喜乃が嫁に行く時が来ても、俺の嫁に迎える日は来ねぇ。俺は、お喜乃に幸せになってほしいんだ」


 馬琴からは目を逸らして、長喜は静かに答えた。


「詭弁だぜ。今の台詞は、戯作にしちゃぁ下の下だ。お喜乃の幸せを他人に任せるのかよ。長喜に、その気がなくっても、お喜乃は長喜を好いていると思うぜ。長喜も本音では、お喜乃を好いていんだろ。でなきゃ、二人でなんざ、暮らせるもんかよ」


 伝蔵と似たような返しが、馬琴からも返ってきた。


「お前ぇは、何が何でも俺とお喜乃を恋仲にしてぇのか? 俺ぁ、お喜乃と今の暮らしができるだけで、幸せなんだ。お喜乃も同じだと思うぜ」


 間髪入れずに、馬琴が言葉を被せた。


「同じなもんかよ! 俺ぁ、ずっとお喜乃を見てきたんだ。だから、わかるぜ。お喜乃は長喜を好いている。懸命に気持ちを隠して、一緒にいんだよ。俺ぁ、そねぇなお喜乃を見ていんのが、辛ぇよ」


 苦い顔で馬琴が項垂れる。

 長喜は困り果てた。


(例え、お喜乃が俺に恋心を持っていても、応えてはやれねぇ。そういう約束だしな。今の間柄を、保つしかねぇんだ)


 しかし、お喜乃の事情を馬琴に伝える訳にはいかない。


「気を揉ませて、すまねぇな。俺には俺の考えがあるんだ。もうしばらく見守っちゃぁくれねぇか。間違っても、お喜乃を不幸には、しねぇからよ」


 馬琴が上目に長喜を見詰めた。


「今の台詞、確かに聞いたからな。お喜乃を不幸にしたら、俺が承知しねぇ。お喜乃が納得しても、俺が長喜を殴るぜ」

「殴られんのは、嫌だからな。肝に銘じておくよ。だからお前ぇも、お喜乃に余計な話は、すんなよ」


 ふぃと顔を背けて、馬琴が鼻を鳴らした。


「しねぇよ。できる訳がねぇ。長喜、俺ぁ、お前ぇに期待していんだからな。忘れんなよな」


 馬琴の念押しに、長喜は苦笑を返した。

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