7.
約束通りの三日後、長喜は喜乃と共に十郎兵衛に呼び出された。地蔵橋の十郎兵衛の屋敷を訪ねると、すぐに奥の間に通された。
「御侍様の屋敷なんざ、入った
気を張りすぎて体が固まる。隣に座る喜乃も、長喜とは違う気詰まりを感じているようだった。時を置かずに、十郎兵衛が部屋へとやってきた。喜乃の前に坐し、礼をする。
「お喜乃様、長喜殿、よくぞ御越しくださいました。儂から阿波守様の御意志をお伝えするつもりが、少し事情が変わりましてな。お二人に引き合わせたい者が来ておるのです」
喜乃が息を飲み、顔を強張らせた。彊直が伝わる。十郎兵衛が表情を緩めた。
「どうか、心安くいてくだされ、お喜乃様。貴女様に仇為す輩では、ござりませぬ。阿波守様の腹心であり、儂の友人でござる」
喜乃の表情が少しだけ緩んだ。長喜は、そっと胸を撫で降ろした。
(蜂須賀家の人間を相当に警戒していんだな。怖かったせいもあるだろうが、きっと怒りも、あるんだろうな)
母親を殺された次第を解していた喜乃だ。家族と十郎兵衛以外は敵なのかもしれないと、長喜は思った。
下座の戸が開く。
喜乃が平伏した。
長喜は見様見真似で喜乃に倣った。
「おやめくだされ、お喜乃様。儂は貴女様に平伏されるような身分ではござりませぬ。長喜殿、であったか。其方もどうか、楽にしてくれ。唐突な来訪の無礼をお許しくだされ」
喜乃が静かに態度を正す
身なりの整った若い侍が、目の前に坐していた。
「儂は阿波守様の近習役の、佐渡采女と申す者。何卒、御見知り置きくだされ」
采女が、深々と頭を下げた。
「おやめください、采女様。町人に下ると決めた私は、采女様を高見から見下す立場には、ありません。どうか、頭をお上げください。どうぞ、上座にお座りください」
長喜がぎょっとして、喜乃に目を向ける。
喜乃が真剣な眼差しで采女を見詰めていた。
采女が喜乃に向かい、首を振った。
「町人に下るなどと、戯れでも仰いますな。大炊頭様が悲しまれます。阿波守様もお喜乃様を痛く案じておられまする。八年もの長きに亘り、江戸屋敷にすら迎えられなんだ自身の未熟さを嘆いておいでです。しかし、今なら。長谷川近江が失脚し、阿波守様が真の意味で城主となられた今であれば、お喜乃様をお迎えできるのです。どうか、考えを改めていただけぬものか」
喜乃が毅然とした顔で、采女を見詰めた。
「兄上様の御厚意、痛み入ります。ですが、意志は変わりません。写楽であり、お志乃の娘である私が末席を汚す事実こそが、蜂須賀家の損失となりましょう。だからこそ私は、蜂須賀の家を捨て、町人に下ると意を決しました。父上を、兄上を大切に思うからこその決断です。どうか、御容赦願います」
喜乃の表情を垣間見て、采女が暗い表情で目を伏した。
「待て待て、ちょぃと待ってくれ。お喜乃、どういうこった? 俺ぁ、そねぇな話を、一つも聞いちゃぁいねぇぞ」
喜乃が目を逸らしたまま、俯いた。
「これからも長喜兄さんと暮らすためには、武家の身分を捨てて町人として暮らすのが良策だと思ったの。私は八年間も耕書堂で暮らしていたのだもの。今更、武家の娘として振舞えるとも思えない。だから、前々から十郎兵衛に文を託して父上に上申していたの。黙っていて、ごめんなさい」
思い詰めた表情の喜乃に、長喜は慌てた。
「御武家の身の上を捨てる必用は、ねぇだろ。帰る場所を自分から捨てるなよ。いつか落ち着いたら、帰ればいいんだ。今は無理でも、いつか……」
「いつかなんか、来ない! 帰るなら、今しかない。でも、私は、帰りたくない。これからの人生を、この江戸で、長喜兄さんと生きていきたいの」
大きく張った声が、徐々に震える。
目を潤ませた喜乃が、長喜に向かい、顔を上げた。
「お喜乃、お前ぇ……」
それ以上、言葉が出なかった。
(俺の思い付きみてぇな案を、こねぇな覚悟で受け入れていたんだな。すまねぇ、お喜乃。俺のほうが、覚悟が足りちゃぁ、いなかった)
拳を握り締め、奥歯を噛み締める。采女が長喜に向き直った。
「長喜殿の案は十郎兵衛を通し、阿波守様から大炊頭様に伝わっておる。お喜乃様の身柄は一時、長喜殿に預ける。だが、武家の身分は譲れぬ、との御返答でござった」
膝に置いた拳を眺めたまま、長喜は口を開いた。
「そらぁ、どういう事情でごぜぇますか? お喜乃を江戸屋敷に戻してぇんでしょう? そねぇにあっさりと、町人風情に預けられるんですかぃ? それとも、本当はまだ江戸屋敷も危ねぇので? お喜乃を遠ざけておきてぇんですか。だったら何で、お喜乃のたった一つの望みを叶えてやらねぇんです」
「そうではない。長喜殿、落ち着いて聞いてくれ。儂が整理して話をする故……」
慌てる十郎兵衛の肩を掴んで、采女が言葉を遮った。
「儂から詳しく話そう、長喜殿。まずは其方の思い違いを正す。お喜乃様を市井に置く許可は、お喜乃様の御意志を尊重した大炊頭様の寛大な御計らいである。大炊頭様の本音は、すぐにでも国元に連れ戻したいのだ」
「だったら徳島に連れ帰りゃぁいいだろ。危ねぇとわかっている江戸に、どうして、いつまでも留め置くんだ」
睨んだ長喜の目を、采女が睨み据える。
「国元は江戸より危険だからだ。江戸屋敷も其方の申す通り、安全とは断じられぬ。故に、江戸屋敷に戻る御意志がお喜乃様にないのであれば、彊要は、できぬ。御府内にて安全にお暮らしいただくには、其方を頼る他にない。それだけの話よ。お喜乃様が武家の御身分を捨てるなど、逆事だ」
厳しい眼が長喜を貫く。
「采女、言葉が過ぎるぞ。長喜殿がお喜乃様をどれだけ大事に思い、預かると申し出てくれているか。儂は言葉を尽くしたはずだ。其方も解したであろう」
十郎兵衛が前にのめり、采女に迫る。
「だからこそだ、十郎兵衛。お喜乃様が望もうと、町人の嫁に差し出す訳にはいかぬ。故に、武家の御身分は堅持する。お喜乃様を御守りするためぞ」
険しい表情で、采女が十郎兵衛を退けた。
長喜は采女の言葉を疑った。
(嫁? 嫁って何だ? 俺が、お喜乃を娶るつもりだと、考えていんのか?)
長喜は、じっと考え込んだ。
采女も、治昭も重喜も、喜乃が耕書堂に預けられた事情を、十郎兵衛を通して知っているはずだ。父親と兄の許しがなければ、十郎兵衛が喜乃を耕書堂に置いていくはずもない。
喜乃が、その場所で誰と出会い、関わり、どのように暮らしてきたかも、伝わっているだろう。
(俺が、お喜乃を嫁に欲しがって、こねぇな申し出をしていると思われていんのか)
どんよりと澱んだ気持ちになった。心中に錯綜した思いが幾重にも折り重なる。
只々、喜乃が安寧に安穏に暮らせる場所を守りたかった。下心など、微塵もない。長喜の想いは、周りの人々の言の通り、父親や兄の心情に近い。しかし、だからこそ、治昭や重喜の気持ちが、わかる。
長喜という人間を知らない身内からすれば、男が一緒に暮らすと申し出れば嫁に欲しいと申し出るのと同義に聞こえるだろう。
(俺だって、どこの馬の骨とも知れねぇ輩が、唐突にお喜乃を嫁に欲しいと迫ってきたら、面ぁ拝みに行くな。その横っ面ぁを、殴るかもしれねぇ)
采女の懸念は、もっともだと、妙に納得した。何だか可笑しくなってきて、小さく笑みが漏れた。
采女が、あからさまに怪訝な顔で長喜を眺めた。
「こいつぁ、失礼致しやした。采女様、俺ぁ、お喜乃を嫁になんざ、考えちゃぁいやせん。どっちかってぇと、お喜乃が好いた相手と一緒になって、幸せに暮らして、子ができたら俺に見せに来てくれるほうが、嬉しく思いやすぜ」
含羞しながら、頬を掻く。采女の眉間から、皺が消えた。
「其方、今の言葉は、本心か。よもや苦し紛れに、儂を謀ってはいまいな。只では済まぬぞ」
疑う言葉とは裏腹に、声音と表情から険しさが消えている。
「こねぇな場所で嘘を吐いて斬られちゃぁ堪らねぇ。俺は只、お喜乃に幸せに楽しく暮らしてほしいだけでさぁ。俺がお喜乃と一緒にできる何かがあるとすりゃぁ絵を描くくれぇだ」
隣にいる喜乃が、肘で長喜を突く。
振り返り、目が合うと、喜乃が微笑んだ。
「長喜兄さんは私の兄弟子で、父上のような兄上のような人なの。一緒にいると安心できて、平素は何でもないけど、窮した時は頼りになる兄さんなの。兄さんと絵を描く時が、一等、楽しいの。どうか、信じてください」
長喜は喜乃を振り返った。
「平素は何でもねぇって、
「だって兄さん、昼間からごろごろ寝転がっていたり、ずっと散歩していたり、社の石段に座って人の通りを眺めていたり。そんな振舞ばっかりでしょう」
「そらぁ全部、絵の種を探していんだよ。まるで、しだらねぇ暮らしをしているように聞こえるだろうが。そねぇな話をしたら、御許しをいただけねぇぞ」
喜乃が、はっとして口元を手で隠す。長喜は苦笑した。
隣に坐す十郎兵衛が、盛大に安堵の息を漏らした。
「今のお二人のやり取りは、平素そのものでございますな。采女、まだ懸念はあるか」
十郎兵衛が采女を見やる。長喜と喜乃の目も采女に向いた。
采女が、じっと長喜を見据える。
長喜は采女に向かい、深く頭を下げた。
「采女様の懸念は御尤もでごぜぇやす。俺も、訳の分からねぇ輩にお喜乃をやりたかねぇ。手ぇ出してきやがったら、間違いなく殴る。お気持ちは、わかるつもりです。だからこそ、俺にお喜乃を預けてくだせぇ。話が、あべこべに聞こえるかもしれねぇが、どうか頼みます」
喜乃も長喜と同様に、頭を下げた。
「わかったろう、采女。長喜殿は、こういうお人だ。でなければ儂も、斯様に無謀な策を本気で進言など、できぬ。写楽近習役筆頭として、大炊頭様の御人柄も充分に解しておるのだ。儂とて、腹を斬りとうない故な」
十郎兵衛の声音は柔らかだ。
「頭をお上げください、お喜乃様。貴女様の意は、解しました。長喜殿、先の非礼を詫びよう。少々、言葉が過ぎた。許してほしい」
顔を上げると、采女が頭を下げていた。
「御止めくだせぇ。偉ぇ御人に頭なんざ下げさせちゃぁ、罰が当たらぁ。わかってもらえただけで、充分でさぁ」
采女の表情が緩んだ。強面と思っていた顔が、初めて柔和に見えた。
「しかし、お喜乃様の上申は認められませぬ。御武家の身分だけは、捨てさせる訳にはいかぬのです。御容赦くださいませ」
表情を改めて、采女が喜乃に向き合う。長喜が喜乃の背を叩いた。
「いいだろ、お喜乃。帰る場所は、いくつあったって、いいんだ。父ちゃんも兄ちゃんも、お喜乃を大切に思ってくれてんだ。無理に捨てるなよ。御武家様のまんまでも、何も変わらねぇ。今まで通りだ」
喜乃に微笑み掛ける。答えるように、喜乃が笑んだ。
「わかりました、采女様。御無理を通して、申し訳ありません。私は今まで通りの私のままで、市井に生きます。父上と兄上の寛大なる御配慮に、心より感謝を申し上げます」
喜乃と長喜が揃って平伏する。
諦めにも似た吐息が、采女の口から零れた。
「文が欲しいと仰っておりました。大炊頭様と阿波守様に、二月に一度は文を送ってくだされ。お二人とも、お喜乃様に会えず寂しがっておいでです」
困ったように、采女が笑む。
「私も、父上と兄上に御報告がしたいです。たわいない話や絵の話や長喜兄さんの話も。他にも、たくさん書いて送りますね」
にっこりと笑った喜乃は、すっかり安堵した顔をしていた。
長喜の胸に掛かった雲が、ようやく晴れた思いだった。
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