第七章 異彩の絵師 東洲斎写楽

1.

 寛政六年皐月二十五日(一七九四年六月二十二日)。

 十郎兵衛が文を携え吾柳庵を訪れてから、僅か五日後。十全に支度を整えてあった東洲斎写楽の役者絵が耕書堂の店先に並んだ。

 勝川春英とも歌川豊国とも違う真新しい役者絵は珍しがられ、飛ぶように売れた。同時に豊国の役者絵の組物も、今まで以上に評判を呼んだ。重三郎の狙いは大当たりだった。


 葉月五日(一七九四年八月二十九日)、重三郎が吾柳庵を訪ねて来た。


「長喜、お喜乃、邪魔するぜ。どうでぃ、文月の都座の絵は、捗っているけぇ」


 部屋中に広がる紙を避けながら、重三郎が喜乃に歩み寄る。

 喜乃は一途に絵を描いていた。


「よぅ、蔦重さん。いつも来てもらって、悪ぃな。見ての通り、お喜乃は今、声を掛けても聞こえねぇよ」


 熱中して絵を描きだすと、誰の声も届かない。喜乃の癖だった。


「そうみてぇだな。ほれ、寿司を持って来たぜ。後で、お喜乃にも食わせてやりな」


 包みを受け取り、頭を下げる。


「土産も、いつも済まねぇ。二人で絵を描きだすと、飯の支度ができなくってよ。助かるぜ」

「構いやしねぇよ。こんぐれぇ、傾注してくれりゃぁ、仕事を頼んだ身としちゃぁ有難ぇよ。皐月の絵は大評判だったからな。次も期待しているぜ」


 重三郎が、長喜の隣に腰を下ろした。


「俺ぁ、少々、肝を冷やしたけどな。十郎兵衛様の文が届く前ぇに作り始めたんだ。お叱りを受ける気持ちが半分でお会いしたぜ」


 皐月に出した写楽の最初の錦絵は、重喜と治昭の許可を待たずに制作を始めていた。皐月の都座、河原崎屋、桐屋の三座の芝居を観て下絵を描き、先に絵を摺っておいた。許しを確かめるまで、号だけを入れずに置いた。


「あらぁ、良い判断だったろうが。顔見世以外でお喜乃が絵を出すんなら、皐月が絶好、と踏んだのよ。今年は三座ともに曾我祭りがあったからな。それに、あんまり遅くっちゃぁ、豊国の組物も終わっちまうかもしれねぇ。それじゃぁ意味がねぇからな」


 重三郎が、得意顔で顎を摩る。


 曾我祭りは初春興行の曾我物が皐月まで上演できた年のみ行われる祭りだ。今年は三座総てで曾我祭りが行われ、芝居町は例年にない賑わいをみせていた。


「阿波守様は案の定、お喜乃の正体を隠せと条件を出してきただろ。だったら、文が届く時期と被せるのもまた、絡繰りとしては最上だ。お喜乃を守る手段になる。たったの五日で錦絵二十八図は摺れねぇからな」


 写楽の号を使いたいと喜乃が進言した時から、重三郎は蜂須賀家の出方をある程度まで予見していた。

 唯一、予見の外だった事柄は、文が思った以上に遅かった事体だ。既に、皐月の三座の興行からの売り出しを決めていた耕書堂にとっては痛癢だった。だがそれも、重三郎の機転で良い向きに転んだ。

 機を読む手腕と思考の柔らかさは、まさに江戸一番の板元の主だと、長喜は感心した。


「それで、だ。なんと大炊頭様から、直々に文を頂いた。こねぇな町人風情に筆を執っていただけるたぁ、板元冥利に尽きらぁ。大首絵に雲母摺きらずりってぇ趣向も、痛く気に入ってもらえたようでなぁ。お喜乃の晴れ舞台には似合いだと、謝辞をいただいたぜ」


 懐から取り出した文を、重三郎が長喜に差し出す。

 文には、感謝の言葉と共に、溢れんばかりの喜びが認められていた。


「お喜乃は愛されていんだなぁ。安心するぜ。父ちゃんが喜んでくれて、お喜乃も嬉しそうだったしな。だから余計に筆が走るんだろうぜ」


 喜乃自身に届いた文にも、歓喜や発奮が記されていた。喜乃は毎日、その文を読んでから絵を描き始める。余程に嬉しかったのだろう。

 脇目も振らず一心に絵を描く喜乃を眺める。それだけで、長喜の心も満たされた。


「お喜乃の絵は、中見で描くのが良いやな。肌で感じた芝居の風を、まんま絵に取り込める。写楽の絵は、めんじゃぁなく円だ。本然を描きてぇお喜乃らしい絵だ」


 中見とは、実際に芝居を観て描く法だ。その描き方が一番、お喜乃に合っていると、長喜は感じた。

 描きかけで放り出された下絵を、重三郎が手に取る。


「確かに、長喜の言う通りかもしれねぇな。本然を描きてぇばっかりに、手前ぇの目に映った、そのまんまを描いていらぁ。俺ぁ、そねぇなお喜乃の絵だからこそ、評するんだがな。市井の評判は、聞こえていんのけぇ?」


 重三郎の言葉の意味するところを、長喜はすぐに解した。

 東洲斎写楽の絵は確かに評判を呼んだ。しかし、その中身は、聞こえの良い声ばかりではなかった。あまりに顔の造りを誇張して描くので、役者を馬鹿にしていると苦言を呈する声も多かった。


「お喜乃は受け止めているぜ。その上で、手前ぇの絵を描いていんだ。蔦重さんも、もっと注文を付けてやってくんな。写楽の絵は、きっともっと面白くなるぜ」


 長喜の顔を眺めた重三郎が、笑いを零した。


「自信満々てぇつらだなぁ。よっぽど愛娘を信じていんのか、手前ぇの指南を信じていんのか。両方かぇ?」


 重三郎の思わぬ表情に、長喜は自分の顔を指で抓んだ。


「そねぇな面ぁしたつもりはねぇんだが。夏の時は、大首絵の寸法を教えたくれぇで、他に指南はしちゃぁいねぇよ。正真正銘、お喜乃自身の絵だ」

「なるほどなぁ、だから美人の錦絵に似た寸法の役者大首絵になった訳かぃ。お前ぇら二人が組むと、面白れぇ絵になるなぁ。うん、考えていた以上に、面白れぇや」


 しきりに頷き、重三郎が一人で感得している。

 不意にお喜乃が筆を止め、顔を上げた。


「あら、蔦重さん。いつの間に来ていたの? 気が付かなくて、ごめんなさい。絵は進んでいます」


 重三郎が腰を上げ、喜乃の絵を覘き込んだ。


「よしよし、順潮だな。今回、大判は白雲母摺でいくぜ。それにしても、口上の紙に文字を透かす趣向は、面白れぇ。良く思い付いたなぁ」


 篠塚浦右衛門が定式口上を読み上げる場面の絵だ。下絵には「口上 自是二番目新板似絵奉入御覧候」と裏文字で書き入れた。


「この趣向は、長喜兄さんが思い付いたのよ。裏文字にして透かしたら面白いって。私も、とても面白いと思うわ」


 にっこりと笑む喜乃に、長喜は少し照れ臭くなった。


「お喜乃が浦右衛門の口上絵を描きてぇと言うから、何か仕掛けをしてぇと思ってな。この絵から始まったら、面白れぇかと思ったんだ。けどまさか、この絵を大判で摺るたぁ、蔦重さんも思い切りが良すぎらぁ」


 重三郎が、うんうんと、何度も頷く。


「一枚目なら大判に決まっていんだろ。誰も、稲荷町の下っ端役者を最初に持ってくるたぁ思わねぇ。老人の枯れ具合を巧く描き出しているお喜乃の、いや、写楽の絵だから、大判にできるんだぜ。仕掛けも相まって、大判の絵として成り立つんだ」


 じっくりと絵に見入って、重三郎が満足そうに笑む。喜乃が長喜と顔を合わせる。二人同時に笑みが溢れた。


「次は七日の河原崎座だ。また桟敷を取っておくから、楽しみに待っていな。それまでに都座の絵を仕上げといてくれよ」


 重三郎の張りのある声に、喜乃の背筋が伸びる。


「承知しました。気張って、細判の仕上げをします。楽しくって、筆が止まらないもの。眠るのが勿体ないほどよ」


 喜乃の全身から、嬉しさと楽しさが伝わってくる。


「食って寝るのは忘れんなと、いつも注意していんだろ。ほら、蔦重さんが持ってきてくれた寿司を食うぞ。支度しておくから、手を洗ってきな」


 喜乃が残念そうに筆を置いて立ち上がる。


「はぁい。もう少し描いていたいのに。長喜兄さんは厳しいなぁ。蔦重さん、いつもお土産を、ありがとうございます。助かります」


 愚痴を零しながらも、喜乃が重三郎に礼をする。


「長喜の言付をしっかと守れよ、お喜乃。どうもお前ぇは鉄蔵や勇記に似て、寝食を忘れる質のようだからな。絵ぇばっかり描いていても巧くはなれねぇと心得な。人としての暮らしも大事にできなけりゃぁ、良い絵は描けねぇぜ」


 重三郎の言葉に、喜乃が頷く。


「すぐに手を洗ってくる! ご飯を食べて、今宵は、早くに寝る! 蔦重さん、ありがとうございます」


 庭に降り、井戸に向かう喜乃の背中を困り顔で眺める。


「助かるぜ、蔦重さん。近頃は、俺の言葉だけじゃぁ、聞き分けがなくってなぁ。困っていたんだよ」


 長喜の顔を見て、重三郎がまた笑った。


「すっかり父親が板に付いてきたなぁ。お前ぇら二人、良い親子だよ。何か困ったら話に来な。いつでも聞くぜ」


 口端を上げる重三郎が、頼もしく映った。


「色々と世話になりっぱなしだが、また頼みやす。十郎兵衛様にも、宜しくお伝えくだせぇ」


 深々と頭を下げた。

 東洲斎写楽の錦絵が始まって以来、十郎兵衛は吾柳庵へ出入りしなくなった。その代わりに、耕書堂を介してのやり取りをしている。

 重喜と治昭からの喜乃への文も、手代の勇助や馬琴が届けてくれていた。


「確かに伝えるぜ。長喜、一人で気負うなよ。お前ぇには栄松斎長喜としての絵の仕事もあるんだ。俺ぁ、お前ぇにも期待していんだぜ。お前ぇは、次の歌麿だからな」


 長喜の肩を軽く叩いて、重三郎は帰っていった。


(次の歌麿、かぁ。俺ぁ蔦重さんの期待に応えられるほど、兄ぃには、なれねぇんだがなぁ)


 頭の片隅で考えながら、長喜は重三郎の背中を見送った。

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