2.

 秋の興行が終わり、東洲斎写楽の絵も一つ、けじめがついた。秋に出した似絵は、皐月の大首絵より評判が良かった。


「最初の大首絵も評判にはなったが、秋の絵は夏より売れた。初めは、お喜乃に好きに描かせる。次は誇張を削り、お喜乃の良さを下げねぇ程度に衆人の好みに寄せる。当たっただろ」


 満足そうに重三郎が鼻を鳴らした。

 大判、細判、共に全身像のみを描き果せた満足は、喜乃も感じているようだ。

 今回、一つ二つの助言はしたものの、やはり寸法の取り方を教えた程度だった。長喜自身にも仕事が多く舞い込み、自分の絵で忙しくしていた。


 長月も半ばに差し掛かった頃、重三郎が次の談合のため、吾柳庵を訪ねて来た。


「次は、ついに霜月の顔見世だ。今回は初日に写楽の絵を並べる。見立でいくぜ」


 顔見世興行は、歌舞伎の正月といえる。役者絵を扱う絵草子屋にとっても、外せない大事な行事であった。


「一座で細判十五枚前後、間判五枚くれぇは売り出してぇ。前ぇみてぇに大判大首絵だの雲母摺だのと派手にぁしねぇ。衆人は写楽の絵を、もう知っている。奇抜な趣向は抜きだ。他の絵師と並べて、実力を見せ付けるんだ」


 息巻く重三郎を前に、喜乃が珍しく黙り込んだ。

 重三郎が片眉を上げる。


「お喜乃は見立が不得手でなぁ。本物を、じっくり観て描くのが好きなんだ。だから写しも、あまり描かねぇんだよ」


 見立とは、手本を参考に決まった型ものを描く法だ。時を掛けて実物を観察し、絵にする喜乃には不利な手法だった。

 喜乃が申し訳なさそうに俯いた。


「芝居を観て描くと、人を描いている気になるのだけれど。絵を見て描くと、ただ絵を真似ているだけのような気になって、巧くいかないの」


 つまり円ではなくめんの絵になってしまう、と長喜は解していた。絵の中で生きるが如く生々しさを放つ役者が、薄っぺらな紙になる。それくらい、喜乃の絵が変わる。


 重三郎が腕を組んで眉間を寄せた。


「三座ともに仕事を受けた後だ。芝居小屋も、顔見世なら見立で初日に欲しがる。描けねぇなら余所に譲るしかねぇが、お前ぇは、いいのか?」


 重三郎が目を大きくして喜乃を見詰めた。

 喜乃が体を強張らせた。


「いいか、お喜乃。歌舞伎にとって年に一度の大舞台で、三座総ての役者絵を衆多売りに出す。こねぇな機会は誰でも踏めるわけじゃぁねぇ。ましてや新参早々の絵師にぁ、まず廻ってこねぇ話だ。覚悟を持って挑みな」


 喜乃が、ごくりと唾を飲み込んだ。


 もしかすると、蜂須賀家が絡んでいるのかもしれないと、長喜は思った。

 重三郎は明言しないが、夏の雲母摺や秋の白雲母摺など、写楽の絵には金が掛かっている。以前に重三郎が過料となり歌麿が離れた耕書堂は今、稼ぎが良いとは言い難い。

 だが、重喜と治昭が金銭や仕事の斡旋で支援をしてくれているのなら、総てに得心がいく。

 更に、喜乃や長喜へ口止めされているとしたら。重三郎は事情を話さず喜乃に仕事を受けさせるしかない。


(お喜乃の父ちゃんから直に文を貰っていんだ。そんくれぇは、有り得るよなぁ。十郎兵衛様も耕書堂に頻繁に出入りしているはずだしなぁ)


 吾柳庵に来なくなった代わりに、十郎兵衛は耕書堂に出向くようになった。東洲斎写楽を装うためだ。十郎兵衛と重三郎の間で、密談が交わされていても不思議はない。


(杞憂かもしれねぇし、悪い想像かもしれねぇが。しかしまぁ、お喜乃に断る暇はなさそうだな)


 重三郎の話は、仕事を受ける前提で進んでいる。喜乃にとり、それが果たして幸せなのかと、頭を過った。

 喜乃の顔を、こっそり覗く。恐竦を滲ませているが、気概にも溢れている。

 長喜は、ほっと胸を撫で降ろした。


「滅多にねぇ好機だと、蔦重さんは教えてくれているんだぜ。不得手なら練習すりゃぁいいさ。まだ時はあるんだ。俺が指南してやるよ」


 ぽん、と喜乃の背中を叩く。

 ぴくりと肩を上げた喜乃が、長喜を振り返る。半端に開いた口を引き結び、深く頷いた。


「謹んでお引き受け申し上げます。これ以上にない好機を恵んでくださり、感謝致します。覚悟を持って、臨ませていただきます」


 重三郎に向き直った喜乃が、指を突いて頭を下げた。


「そうけぇ。なら、この仕事は耕書堂で受けるぜ。神無月の中頃までにぁ、仕上げてくれよ」


 心なしか、重三郎の顔に安堵が差した気がした。


「それとな、都座から一つ、条件が付いた。菊之丞が、今までのように酷ぇ顔に描くんなら、自分の絵は描いてくれるな、とな。顔の描き方を、変えられるか?」


 三代目の瀬川菊之丞は美貌で口跡もよく「浜村屋大明神」と称されるほどの人気女形だ。だが、年齢は四十四歳と初老に差し掛かり、肌の弛みは否めない。また、受口や鼻の歪みなども見逃さずに、喜乃は描き切っていた。


「歌麿兄さんの教えの通り、本人より美しく描かないと、いけない、ですか?」


 聞きづらそうに、喜乃が問う。

 重三郎が首を振った。


「少し、違うな。お喜乃の描きてぇように本然を描くのは大事だ。だが、役者への尊敬を忘れんな。役者は、相当な覚悟と修練で板の上に立ってんだ。お前ぇなら、もっと奥に光る役者の粋を、絵にできんだろ。しっかり見抜けってぇ話だ」


 喜乃の表情が明るく変わる。


「わかりました。前の芝居を思い出して、いろんな絵をよく観て、もう一度、描いてみます」


 喜乃の顔が引き締まる。

 重三郎が、長喜に向き直った。


「役者絵本を勇助に持たせるから、待っていな。それまで、指南を頼むぜ、長喜。手前ぇの絵も遅れんなよ」


 長喜は困り顔で頷いた。


「蔦重さんは、相も変わらず厳しいや。ここんところ、俺の仕事が多すぎねぇか?」

「何を言いやがる。手前ぇは、もっと仕事を受けてもいいんだ。いいや、受けるべきなんだよ。こんぐれぇで根を上げやがったら、許さねぇぞ」


 きっと、重三郎が鋭く睨む。思わず肩が上がった。

 長喜と重三郎のやり取りの隣で、喜乃が黙ったまま自分の拳を、じっと見詰めていた。その姿が、やけに長喜の心に残った。

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