3.

 重三郎が帰った日から、喜乃は見立の練習を始めた。長喜が石燕の元で絵の指南を受けていた頃に使っていた役者絵本が手本だ。


「古い本だが、とりあえずは使えるだろ。俺も歌麿兄ぃも、その本で練習したんだぜ。まぁ、二人とも役者絵にぁ、あんまり向いちゃぁいなかったがな。石燕師匠が今のお喜乃の絵を見たら、きっと大喜びするぜ」


 絵本を受け取った喜乃が微笑む。


「ありがとう、兄さん。師匠に恥ずかしくない絵を描かなくっちゃ。蔦重さんにも、迷惑は掛けられないもの」


 本を開き、紙に向き直る。

 筆を走らせる姿は平素に絵を描いている時より揺らいで見えた。


 長喜は、ふと庭先に目を向けた。

 喜乃の気に中られたのか、影の揺らめく気這いを感じる。


 影である喜乃の母親の気が濃くなり始めたのは、晩夏の頃だった。気のせいかと思っていたが、近頃は懸念を持ちつつある。


(やっぱり、間違いねぇ。気が濃くなっているなぁ。また、お喜乃に危険が迫っているのか。それとも母親として案じているだけなのか。わからねぇが、嫌な感は消えねぇ)


 喜乃に目を戻すと、筆が止まっている。

 一枚を勢いよく描き上げる喜乃にしては珍しい。空を滑る筆先が迷っている。

 長喜は敢えて、喜乃の傍を離れた。


(お喜乃は、手前ぇで考えて前に進める娘だ。しばらくは見守るか。ちぃとばかり頑固だから、今は、まだ声を掛けねぇほうが、いいだろ)


 喜乃の専心を削がぬよう、少し離れた所に文机を置く。

 自分の下絵の続きに取り掛かった。


 長喜は今、正月頃に売りに出す予定の『初日の出』に取り掛かっている。喜乃に少しでも加勢できるよう、自分の仕事を前倒していた。美人の絵の依頼が多い長喜だが、景色の絵や挿絵、時には役者絵も請け負う。自分の仕事も忙しかった。


 絵を描いて過ごすうちに、いつの間にか神無月になっていた。

 喜乃は勇助が持って来た役者絵本を手本にしながら、霜月の興行の絵を描き始めた。今までに芝居を観た役者の絵は、様になってきた。元々、芝居好きの喜乃だ。狂言も頭に入っている。今までに描いた自分の絵とも照らし合わせて、描いているようだ。


 苦労しているのは、芝居を知らない役者だった。今回の依頼には、上方から下ってきた役者が三人ほど含まれていた。七代目の片岡仁左衛門と二代目の山下金作、二代目の中村野塩だ。何度も描き直し、型を模索していた。


 仁左衛門を描こうと懸命に筆を動かす手元を、ちらりと覗く。


「ずいぶんと顔が小せぇなぁ。その割に体が、でけぇ。何だってぇ、そねぇな寸法にしたのだぇ?」


 口を挟むと、筆を止めた喜乃が振り返った。


「手本を見ると、顔の小さい人みたいなの。でも、肉付きが良い体みたいで……。巧く型が決まらないの」


 確かに喜乃の言う通り、どの絵も顔が小さい割に恰幅が良く描かれている。


(なるほどなぁ。お喜乃が悩むわけだ。目の良いお喜乃は、かえって混乱するんだな)


 喜乃の絵の肝となるのは、何よりもまず、その鋭い見識だ。他の誰も気が付かない細部に気が付き、気にしない部分が目に付く。だから、他の絵師には描けない絵が描ける。 

 本人を一度でも目にしていれば、喜乃なりの寸法が取れるのだろう。しかし、絵から読み取ろうとすると、絵に込めた絵師の作意に翫弄がんろうされてしまう。


(だから、見立が不得意なんだな。こらぁ、思っていたより面倒かもしれねぇな)


 加えて頑固な質なので、途中で諦めもしないだろう。絵師の態度としては誇るべきだが、今回ばかりは邪魔になりそうだ。長喜は頭を捻った。


「顔が小さくって体がでけぇ人間は確かにいるがなぁ。今まで描いた中に似た体付きの役者は、いねぇのけぇ?」


 喜乃が首を振った。


「着物で膨れている人はいるけど、体付きではないし……。依頼の仁左衛門は着流しだから、体の線が縦に長くなるでしょ? 鯉口を切る仕草だから、腰を落とすし、どう描き表したらいいか、わからなくなってしまって」


 段々に俯いていく顔に、長喜は頬を掻いた。


(俺なら宗十郎あたりに肉付けして描くが、お喜乃は、それじゃぁ納得しねぇだろうなぁ)


 三代目の沢村宗十郎は大柄で男振りの良い名役者だ。夏と秋の興行絵で写楽も多く取り上げている。

 長喜は、これまでにお喜乃が描いた写楽の絵を出してきて、眺めてみた。数枚、捲ったところで手を止める。


「お喜乃、これならどうだ? 谷村虎蔵なら体付きが近ぇだろ。ほら、じっくり観察しろ」


 差し出された絵を受け取り、喜乃が見入る。何度も手本と見比べている。

 長喜は筆を執り、着流しの男の絵を、さらりと描いた。


「お前ぇは拘ると思うがな、体の形は、体付きだけじゃぁねぇ。特に、この絵は鯉口を切る仕草だろ。型は決まっていんだ。そこに体付きを被せる」


 基本に描いた細身の体の線の外側に、線を引く。


「体の大きさは人それぞれだが、どこにどう肉が付くかは、だいたい決まっているだろ。それが、どう動くか考えろ。型に体付きを宛てればいいのさ」


 喜乃が顔を上げる。目が明るく輝いた。


「そうよね、体付きより先に、型を考えればいいのよね。気が付かなかった。描けそうな気がする!」


 筆を執ろうとする喜乃の手を掴む。


「その前ぇに、まず飯だ。腹ぁが減っていると良い絵も描けねぇと、蔦重さんに教えられたろ。人の暮らしの基本になる、食うのと寝るのは疎かにしちゃぁ、なんねぇぞ」


 喜乃の肩が、びくりと跳ねた。


「兄さん、離して。急に、手を握られたら、驚くわ。ちゃんと、するから……。離して」


 消え入りそうな声で話す喜乃に違和を感じる。

 顔を覗き込むと、頬が赤く見えた。


「お喜乃、お前ぇ、体でも悪ぃのか? まさか無理して絵を描いていんのか? だったら飯を食って少し休めよ。耽溺たんできし過ぎても、良い絵にぁならねぇぞ」


 握られた手を振り解き、喜乃が立ち上がった。


「長喜兄さんの、馬鹿! 無理なんか、していないわよ! ご飯の支度は私がするから、兄さんは仕事をしていて!」


 怒りながら、喜乃が台所に走り去る。

 振り解かれた自分の手を、長喜は放心して眺めた。


「そうか、唐突に手を握ったから、驚いたんだな。不躾な振舞をしたのは、俺だったのか」


 呟いて、急に恥ずかしくなった。


(どんどん娘になっていくなぁ。幼子の頃とは違うから、扱いが難しいぜ。お喜乃はもう、嫁に行ける歳、だもんなぁ)


 言葉ではわかっているつもりだった。嫁に出すために金も貯めている。しかし、目の前で女に成長していく喜乃に、思考が追い付かない。

 数年前に、馬琴に投げ付けられた言葉を思い出す。馬琴の言葉通りに喜乃が自分に恋情を抱いているかは、わからない。自分自身の感情も、よくわかっていなかった。


(平凡で安穏な居所を守ってやりたかった。絵師にしてやりてぇ願いも叶った。だったら、お喜乃はこの先、どうなりてぇんだろうな)


 ふと、庭先に目を向ける。


「俺ぁ、この先、お喜乃を、どうしてぇのかな。どうなったら、幸せ、なんだろうな」


 誰に問い掛けるでもない声を一人、零す。

 竹林の中で聞いているかもしれない影が、答えをくれるはずもなかった。

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