2.

 新両替町一丁目に伝蔵の実家がある。父の伝右衛門が町屋敷の家主をしている。伝蔵は家族と共に実家に暮らしていた。

 出向くと、菊園が快く迎えてくれた。


「お喜乃ちゃん、待っていたんだよ。長喜さんも、来てくれて、ありがとうございます。左七郎さん、長喜さんですよ。伝蔵さんに伝えてやっておくれな」


 部屋の奥に向かい、菊園が声を掛ける。


 菊園は伝蔵の妻だ。昨年まで、吉原の大見世丁字屋で番頭傾城だった。十六歳だった菊園を伝蔵が身請けして、夫婦になった。物腰柔らかで自分から前に出る質ではない娘だが、静かながらも花がある。いかにも伝蔵好みだと、長喜は思った。

 初めて会った時から喜乃とは気が合って、すぐに仲良くなった。喜乃なりに初恋にけりをつけたようだ。


「私も菊園さんに会えるのを、楽しみにしていたの。伝蔵さんは、どう? 少しくらいは、元気になった?」


 菊園の顔が曇った。


「夏頃よりは、良くなったけどねぇ。やっぱり、まだ気落ちしているよ。筆を持つ気は起らないみたいで、ぼんやりしていてさ。魂が抜けたようで、見ちゃぁいられないよ」


 喜乃が菊園と同じように沈痛な面持ちになる。

 軽快な足音が近づいて、左七郎が、ひょっこりと顔を出した。


「菊園さん、掃除は済んだぜ。お喜乃は、まだ来ていねぇよな。って、お喜乃! ……と、長喜かよ。よく来たなぁ。戸口にいねぇで、さっさと上がれよ」


 耳の先を赤く染めて、左七郎が促す。菊園が、ぷっと吹き出した。


「声を掛けたろうに。お喜乃ちゃんが来るから、大真面目に掃除をしていて聞こえなかったんだねぇ。左七郎さんは几帳面だから、私より掃除が細やかで、助かるよ」

「別に、お喜乃が来るからじゃぁねぇよ。いっつも真面目に掃除しているだろ。住まわせてもらっているんだから、当然だ。掃除好きは、性分だしな」


 腕を組んだ左七郎が、ふんと鼻を鳴らした。


 左七郎は今、伝蔵の家に居住している。深川の洪水で家を流された左七郎を、伝蔵が迎え入れた。昨年、左七郎の弟子入り志願を断った伝蔵だったが、それ以来、友人として交際していた。路頭にさまよう友を不憫に思ったのだろう。

 今の伝蔵の傍に左七郎がいる事実は、菊園や長喜にとっては心強かった。


「お掃除していたんだね、お疲れ様。今日は金鍔焼を持ってきたよ。左七郎も好きでしょう? 皆で一緒に食べよう」


 差し出された金鍔焼を左七郎が受け取る。


「お喜乃が持ってくるもんなら何でも……、あ、甘い菓子は好きだぜ! 京伝先生も喜ばぁ! 茶ぁ淹れるから、待っていろぃ!」


 台所に向かう左七郎を喜乃が追う。


「私も手伝うよ! 左七郎は何でもできるよね。上手なお茶の淹れ方を教えてよ」


 二人を見送って、菊園が微笑んだ。


「仲良しだねぇ、あの二人。でも左七郎さんには、ちょぃと気の毒ね」


 喜乃は左七郎に懐いているが、友人以外の感情は、なさそうだ。長喜の目にも、少し気の毒に映る。


「先々どうなるか、わからねぇ。と思ってやりてぇが、望み薄かねぇ。左七郎も勢いがあるくせに、お喜乃の話となると尻込みするからなぁ」


 長喜と菊園は顔を見合わせて苦笑した。


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