3.
伝蔵に挨拶すると、喜乃は菊園と共に別の部屋で三味線の稽古を始めた。
「嫁を取った途端に、お喜乃は俺に冷たくなったなぁ。俺への思いは、そんなもんだったのけぇ」
伝蔵が煙草を吹かしながら、眉を下げる。
「お前ぇに気を遣わせねぇように、中坐したんだよ。わかっているだろうに。お喜乃だって、手前ぇの気持ちにけりをつけるにぁ、苦労したはずだぜ」
ちらりと長喜を眺めて、伝蔵が困ったように笑った。
「わかっているよ。それにしても、本に父親のようだなぁ、長喜よ。この前ぇ、鉄蔵が来てよ。お前ぇが、どんどん父親になっていくと、笑談していたぜ。大仰じゃぁ、なかったんだなぁ」
伝蔵が力なく笑う。煙管を置いた手は、自分の手首を摩っている。手鎖の刑を終えて以降の伝蔵の癖だ。
(五十日も手に鎖なんざ掛けられていたら、気が病んでも仕方がねぇか)
今年の三月、伝蔵は手鎖五十日の刑に処された。
耕書堂から出した山東京伝の好色本三冊が御禁令に触れた。重三郎も身上半減の闕処と洒落本絶板の処分となった。地本問屋の仲間行事二名は軽追放となった。
倹約と贅沢自重の風体が漂う中での、見せしめに近い懲罰であった。
伝蔵は二年前にも北尾政虎として描いた黄表紙の挿絵が過料処分になっている。筆を折る決意をしたのを、重三郎の説得で何とか思い留まった。
左七郎の弟子入りを断った次第も、処分のためだ。伝蔵は弟子を取らなくなった。
挿絵に続いての戯作の懲罰は、伝蔵から執筆意欲を完全に奪った。案じた菊園が、長喜に時々、顔を見に来てほしいと懇願した。
「京伝先生、長喜、茶を淹れたぜ。金鍔焼も食うだろ。せっかくお喜乃が買ってきてくれたんだ。食ってやれよな」
遠慮もなく入ってきた左七郎が、伝蔵の前に茶と金鍔焼を置く。ぐっと顔を近づけて、伝蔵を、まじまじと見詰めた。
「食うから、少し離れな。こいつぁ、暑苦しくってよ。飯を食えとか寝ろとか顔を洗えとか、菊園より煩ぇんだ。引き取ってくれねぇか、長喜」
苦患に満ちた顔で、伝蔵が左七郎を退ける。
「京伝先生が、ぼんやりしているから、俺が尻を叩いていんだよ。放っておいたら、飯も食わねぇだろ。それに俺ぁ、曲亭馬琴の名で本を出すまで、先生の傍を離れねぇと決めているんだ。追い出したって、出て行かねぇからな」
「な? 暑苦しいだろ? 俺ぁもう、いつ戯作をやめてもいいと思っているのによ。こいつが煩ぇから、やめられねぇんだ。教える気なんざ、更々ねぇってのによ」
伝蔵に弟子入りを断られた左七郎ではあったが、「京伝門人大栄山人」として黄表紙を出していた。今は、伝蔵の執筆の手伝いもしている。伝蔵とは裏腹に、左七郎は意欲があった。
左七郎を袖にしながらも頼りにしている伝蔵の心情を、長喜は解していた。
「弟子じゃぁねぇんだ。教わったりしねぇ。勝手に学ぶよ。俺ぁとにかく、先生の傍にいてぇんだ。どういう生き方をすりゃぁ、あねぇに面白ぇ本が書けるのか、知りてぇんだ」
二人のやり取りに、長喜はクックと笑った。
「お前ぇのこった。やめてもいいんなら、とっくにやめているだろ。今は左七郎に面倒をみてもらいな。今の伝蔵にぁ、左七郎が必用だぜ。ちゃぁんと、わかっているだろうになぁ」
伝蔵が、頬を膨らまし口を窄めた。
「長喜まで、そねぇな物言いをするのけぇ。俺ぁもう、何を書けばいいのか、わからなくなってんだよ。左七郎がいようがいまいが、同じでぇ」
金鍔焼を、ぱくりと頬張る。
菓子を食った伝蔵を見て、左七郎が安堵の表情になった。
「わからねぇなら、わからねぇと書きゃぁいい。書きたくねぇなら書かなけりゃいい。そうしていりゃぁ、今に書きてぇもんが浮かんでくらぁな」
茶を啜る長喜に、伝蔵が鼻を鳴らした。
「長喜らしいねぇ。そねぇな性分だから、お咎めにならねぇんだろうな。人気の絵師なのによ。歌麿先生は、何度か注意されているってぇ話だろ。お前ぇは、次の歌麿と評されてんだ。気ぃ付けろよ」
伝蔵の顔付が真面目になった。
歌麿は美人の絵で一際、人気になった。特に重三郎の安出した「美人大首絵」という新しい画法は、衆人に大いに受けた。歌麿の弟弟子である長喜も、美人の絵を描く機が増えた。歌麿の人気が上がるほどに、長喜の絵も人気になった。
「俺ぁ、兄ぃとは違うよ。あの人は真似を好まねぇ。同じ絵なんざ描いたら、殴られるぜ。俺だって、手前ぇの描きてぇ絵を描いていてぇしな」
錦絵において、先達の模写や同じ意匠で売り出す法は珍しくない。だが、歌麿は真似を嫌った。人と同じ絵は絶待に描かないのが、歌麿の信念だ。
踏襲する訳ではないが、構図も意匠も、長喜の絵は本質として歌麿に似ない。もちろん影響は受けている。だが長喜には長喜の、描きたい美人像がある。歌麿の描く絵とは少しずれる自分の絵が、長喜には、ちょうど良かった。
「長喜と歌麿先生の間柄は、面白れぇよな。俺と京伝先生みてぇだ。仲が良いけれど、近すぎねぇ。心地の良い関り方だよな」
何気ない左七郎の言葉に伝蔵が、ぎょっと目をひん剥いた。
「俺とお前ぇが、いつ仲良くなったって? 面の皮が厚いにも程があらぁ。寒気がしてきたぜ。こいつぁ、もう寝込むしかねぇようだ」
腕を抱いて、ぶるぶると震える振りをして見せる。
「熱が上がっていんのか? そらぁ、いけねぇ! 今、綿入羽織を持ってくるから持っていてくれよ。あと、卵酒を作るか! 菊園さん、俺ぁ、ひとっ走り行って、卵を買ってくらぁ!」
左七郎が、ばたばたと部屋を出て行った。
「左七郎で遊ぶんじゃぁねぇ。あいつぁ、お前ぇを本気で案じていんだぜ。もっと大事にしてやれよ」
痛言を呈する長喜に、伝蔵が、べぇっと舌を出す。
「正直な話よ、左七郎には感謝しているよ。あいつが今、家にいてくれて助かっているんだ。本人の前ぇじゃぁ、口が裂けても言わねぇが。ま、暑苦しいけどよ」
「伝えてやれよ。お前ぇを慕っていんのに、可哀想だろうが。あいつぁ、ずっと戯作を書きたがっていたんだぜ。やっと糸口を見付けたんだ。背中を押してやれよ」
伝蔵の顔が曇った。
「南畝先生がなぁ、何度も家に来て、頭ぁ下げるんだ。俺ぁ、今回の懲罰が先生のせいだとは思っちゃぁいねぇ。けど、先生は自分のせいだと思っているんだ。頭ぁ下げられるたびに、心が苦しいんだよ」
太田南畝は伝蔵の、戯作の師匠だ。山東京伝という才を見い出し、伸ばした人だ。自身も狂歌を書いていたが、南畝は咎めを受けなかった。御禁令の矛先が、旗本である南畝ではなく、町人の伝蔵と板元の重三郎に向いたと考えているらしい。重三郎から聞いて、長喜も知っていた。
「俺ぁよ、左七郎には才があると感じている。伸ばしてやれるなら、力にもなりてぇ。けど、俺のようになったら、どうする? 左七郎は、無法者だが真面目な男だ。俺にまで、気を遣わせる羽目になるだろ。あいつにぁ、死ぬまで自由に楽しく書いていてほしいんだよ」
伝蔵の目は、本気で左七郎を案じていた。
「……嫌な世の中になったもんだな。面白れぇ本が書けねぇ、読めねぇなんざ。絵も本も徒費な訳がねぇのによ。味気ねぇ世の中だ」
長喜の顔を見て、伝蔵が微笑んだ。
「俺ぁ、お前ぇにも、そねぇな顔をさせたかねぇんだ。早く元気になりてぇが、心が思い通りにならねぇ。憂慮させて、すまねぇな、長喜。せめてお前ぇは、捕まるなよ」
伝蔵の笑みが、心に刺さる。
「考えすぎだぜ、伝蔵。手前ぇの悪ぃ癖だ。俺は気儘に絵を描くし、左七郎もやりてぇようにやってんだ。手前ぇも、自分のしてぇようにやりな。左七郎は、ちょっとやそっとで折れやしねぇからよ。もっと頼りにすりゃぁいいし、教えたけりゃぁ教えてやりゃぁいいんだ」
湯呑を持ち上げ、茶を
伝蔵が、呆けた顔をした。
「そうだなぁ、違ぇねぇや。気が滅入ると悪ぃ考えばかり浮かぶな。好色本だ洒落本だと書いている俺の話とも思えねぇ」
長喜は小さく息を吐いた。
「疲れたら休みゃぁいい。書きたくなったら書きゃぁいい。無理はすんな。ただ、飯を食うのと寝るのは、忘れんなよ」
びしっと伝蔵を指さす。
「長喜は所々左七郎に似ているよな。そうだ、次は教訓本でも書くか。真面目先生が童に教えんだ。飯はちゃんと食う。夜は寝るってよ」
伝蔵が悪戯にシッシと笑うので、長喜も釣られて吹き出した。
「そねぇに当たり前ぇな話を書いても、誰も読むめぇよ。蔦重さんも、そねぇな本は出してくれねぇぜ」
二人は声を上げて笑った。
金鍔焼がなくなっても、長喜と伝蔵は、たわいない話をして盛り上がっていた。
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