第五章 暗雲の再来
1.
寛政三年八月二十三日(一七九一年九月廿日)、石燕が黄泉へ旅立ってから、三年の月日が流れた。吾柳庵には、あの日と同じ風が吹いている。
誰も住まない吾柳庵は今、長喜が預かっている。月に幾度か見に来ては、掃除をして風を通していた。笹の葉音に聞き入る。冴えた気持ちの良い風が、頬を掠めた。
「長喜兄さん、早く手を動かしてよ。今日は、この後、伝蔵さんの見舞いに行くのだから。急がないと終わらないよ」
雑巾を絞りながら、喜乃が急かす。
「粗方、終わっているだろうよ。日を開けずに来ているんだから、掃除ばかりしなくっていいんだぜ。それより、伝蔵への土産は、何がいいかな。左七郎もいるし、やっぱり煎餅かな」
雑巾掛けをする喜乃を振り返る。
「菊園さんの好物の金鍔焼にする。伝蔵さんも左七郎も甘いものが好きだし、きっと喜ぶよ。扇屋に寄って行こう」
長喜を見向きもせず雑巾を掛けながら、喜乃がきっぱり言い放った。
「そういや、この前ぇ、菊園に酒饅頭を貰っていたよな。あん時に好物を聞いたのけぇ?」
雑巾掛けを終え、喜乃が桶を持って立ち上がる。
「菊園さんの好物は、金鍔焼と羊羹だよ。私は、ずっと前から知っているよ。仲良しだもの。長喜兄さんが、知らないだけでしょ」
喜乃が庭に降り、竹林に水を撒く。
「良く覚えているなぁ。はきはき働くし、いつの間に、立派な娘に育ったもんだ」
喜乃は十三歳になった。見目はすっかり大人びて、目を引くような美人になった。
絵も見る間に上達した。今は殊更に、役者の似絵を熱心に描いている。石燕の教えに加え、有名な画工の絵を模写して練習している。上達振りは重三郎も目を見張るほどだった。
(売り出せば、それなりに人気になるだろうに。蔦重さんは何だって、お喜乃を絵師にしてやらねぇのかねぇ)
答えは長喜の頭の片隅に、ぼんやりと、ある。喜乃の抱えている事情のためだろう。命を狙われるほどの事情なら、有名になるのは危険だ。重三郎にしてみれば、喜乃の絵の才を世に出せない口惜しさは、長喜以上だろう。
(守るため、なのかねぇ。絵師になったら、お喜乃の生きる道行は、変わるかもしれねぇのにな)
長喜は喜乃の事情を、いまだに知らない。十郎兵衛が
見上げていた青空に戸が閉まる。喜乃が長喜の顔を覗き込んだ。
「掃除も終わったし、戸締りするよ。早く行かないと、扇屋の金鍔焼が売り切れちゃう」
喜乃の真っ直ぐな目が長喜を見詰める。
喜乃の澄んだ瞳は、出会った頃と変わらない。
(だが、獣じゃぁなくなったなぁ。あったけぇ心が籠った、人の血の通った目になった)
床に手を突いて立ち上がる。
「浮かれているなぁ。伝蔵に会いに行くのは、そねぇに楽しみかぇ?」
せっせと戸締りをしながら、喜乃が微笑む。
「今日は菊園さんに、三味線を教えてもらうんだ。前から楽しみにしていたの。それにね、長喜兄さんが会いに来てくれると、伝蔵さんが元気になるって、菊園さんが教えてくれたの。だから、今日は長居しようね」
嬉しそうな背中を眺めて、長喜は笑った。
「長居しようたぁ、不躾だなぁ。お喜乃が長居すりゃぁ、左七郎が一番に喜ぶだろうがなぁ」
急く喜乃に付いて、庵を出る。
「師匠、月沙、石鳥。お喜乃と一緒に、また来るぜ」
振り返り、呟く。部屋の中に、優しい風が吹いた気がした。
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