7.

 喜乃を見送った次の日から、長喜は以前にも増して絵に取り組んだ。


(お喜乃が繋いでくれた命だ。俺ぁ、お喜乃のお陰で生きてんだ。描かなけりゃぁならねぇ。何があっても、死ぬまで絵を描くんだ)


 まずは写楽の絵を仕上げた。


(河原崎座は一枚も描けなかった。都座の菊之丞を描けなかったのも、心残りだったろうな。かといって、全くのゼロから俺が一人で描いても、写楽じゃぁねぇ)


 喜乃が描いた初春興行の下絵は、たったの十枚だった。喜乃が残した下絵に、着物の柄や背後の舞台を描き込んでいく。二人で話し合い、決めた柄と色を絵に載せていく。

 筆を持つ手に、ぽたりと、透明な雫が落ちた。


「いけねぇ、下絵が汚れる。お喜乃が残した大事な下絵だ。丁寧に扱わねぇと……」


 呟く声が震える。


「情けねぇなぁ。お喜乃には虚勢を張って見せたのに。一人になった途端に、このざまけぇ。一人に……」


 喜乃は、もういないのだと、改めで感得する。


 部屋を見渡す。二人では手狭に思えた庵は、一人だと、やけに広く感じられた。

 がらんとした部屋は冷たく、暗い。


(師匠に絵を習っていた頃も、お喜乃と二人で暮らしていた時も、こねぇに閑散と感じたり、しなかったな。ここで一人になんのは、初めて、か)


 喜乃が使っていた文机に目を向ける。贈った筆と、喜乃が描いた長喜の絵が残っていた。絵の中の長喜は、楽しそうに笑っていた。


「なんだ、お喜乃も俺の笑った顔を、描いてくれたのか。笑っていなけりゃぁ、笑って……」


 涙が、どんどん溢れてきた。


「くっそ……。止まらねぇ、情けねぇ……。これじゃぁ、お喜乃に顔向けが、できねぇだろうが。しっかりしやがれ、長喜。手前ぇは絵師だろ、画工だろ。絵を描きやがれよ」


 震える右手を押さえて、蹲る。

 長喜は声を殺して泣いた。



 数日後、長喜は耕書堂に、重三郎を訪ねた。


「この度は、御悔やみ申し上げる。何の力にもなれずに、すまなかった」


 深々と頭を下げる重三郎に、長喜は力なく首を振った。


「蔦重さんには、本当に良くしてもらったよ。お喜乃も、きっと感謝していると思う。今日は、お喜乃が描いた最期の絵を、持って来たんだ。良かったら、売り物にしてやっちゃぁ、くれねぇかな」


 初春興行の十枚と、見立の練習で描いた武者絵、それに恵比寿絵を取り出した。


「この恵比寿様なんか、よく描けているだろ。笑った顔に愛嬌があってよ。お喜乃らしい絵だ。恵比寿講も流行っているし、売れると思うんだ」


 重三郎が、絵ではなく長喜の顔を、じっと見詰めていた。


「長喜、飯は食っていんのか? ちゃぁんと寝ていんだろうな? 顔色が悪ぃぜ。一人で吾柳庵に住み続けるのが、その、辛ぇなら、またうちに転居しな。部屋は空いてんだ。今日から来たって、いいんだぜ」


 憂慮を隠さない重三郎の表情に、長喜は笑った。


「食っているし、寝ているよ。写楽の絵が仕上がったし、次は手前ぇの絵に取り掛からねぇと。仕事を受けすぎちまってよぉ。ま、絵を描けるのは、有難ぇよ。俺は息災だから、気にしねぇでくれよ」


 重三郎の眉間に皺が寄る。


「息災ってぇ面じゃぁねぇから、聞いてんだよ。あんまり絵に耽溺すんな。しばらく休めよ。お前ぇも大怪我だったんだ。右肩の傷が深かったんだろ? 今は、絵を描くのも難儀だろ」

「腕は挙げづれぇが、絵は描ける。重いもんを持たなけりゃぁ、痛みもねぇ。俺ぁ、耽溺するほど働かねぇよ。よく知っているだろ。只、今は、絵を描いていてぇんだ」


 自分の右手を眺める。

 重三郎が、小さく息を吐いた。


「時々、勇助に様子を見に行かせる。何かあれば、言付けな。いいか、度を越えていると判じれば、首根っこ掴んででも耕書堂に連れてくるぜ。くれぐれも、無茶ぁすんな。お喜乃が、悲しむぜ」


 喜乃の名を聞いて、右手が、ぴくりと跳ねた。


「そう、だな。体を壊しちゃぁ、元も子もねぇ。気を付けるよ。案じてもらって、悪ぃな、蔦重さん」


 笑って見せたが、重三郎の表情は変わらなかった。

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