8.

 重三郎の忠告に頷きながらも、長喜は絵の仕事を増やしていた。耕書堂が仕事を絞る時は、仙鶴堂から受けた。どれくらい日が過ぎたか、わからなくなっていた。


 時々、勇助が吾柳庵を訪ねてきて、世話を焼いてくれた。何度か耕書堂に来ないかと誘われたが、何のかんのと言訳をして断った。吾柳庵を離れたら、喜乃との暮らしが消えてしまいそうで、怖かった。


 長喜は平素と変わらず、庭に向けて文机を置き、真っ白な紙の前に坐していた。

 庵の庭に、冷えた風が流れた。

 薄紅の花弁はなびらが一片、紙の上に舞い落ちた。


「こいつぁ、桜の花弁か? そうか。もう、そねぇな季節なのか。気が付かなかったな」


 吾柳庵の隣に坐す神田明神の境内には、垂糸桜しだれざくらの木が二本ある。風に流されて、庵まで届いたのだろう。


(外は少しずつ、暖かくなっていんだなぁ。ここにいると、感じもしねぇが。何やら、瞼が重てぇなぁ)


 唐突に、眠気が襲う。


(そういや、もう何日か寝ていねぇかもな。ずっと絵を描いていた、気が、する)


 薄紅を眺めていた目の先が、いつの間にか黒くなった。


 不意に、目が覚めた。

 どうやら、座したまま寝ていたらしい。

 頭を上げると、右肩に激痛が走った。


「座したまま眠るたぁ、器用だなぁ、長喜や。お前ぇ、いつから、そねぇに耽溺して描く絵師になったんだぃ? あたしみてぇにぁ、描かねぇんじゃぁなかったのけぇ?」


 背後で声がして、振り返る。

 寝そべった歌麿が、長喜を眺めていた。


「兄ぃ、いつの間に来ていたんだ? 声を掛けてくれりゃぁ、良かったのによ」


 体の向きを変えようと、身を捩る。またも痛みが走り、長喜は顔を歪めた。

 歌麿が、ゆったりと身を起こす。


「肩が痛むのけぇ。だったら休みな。らしくもねぇ。皆が噂しているぜ。長喜が狂ったように絵を描いている、ってよ。重三郎なんざ顔を蒼くして、あたしに泣き付いてきた。あの重三郎が、だぜ。あれほど長喜の仕事を増やしたがっていたのによ」

「泣き付くって、何を? 俺が仕事を受けて、蔦重さんが困るのけぇ?」


 首を傾げる。

 歌麿が、眉を下げて小さく笑った。


「栄松斎長喜ってぇ絵師が壊れるのが、困んのさ。重三郎はな、長喜が今のまま描き続けていたら、そのうちに絵が描けなくなると、思っているんだろうよ。馬鹿な話だぜ」


 長喜は右の指を動かしてみた。動きが鈍い。長い間、動かさないでいると、固まったように動かなくなる。指を使い続けると感覚が鈍くなる。右肩の傷が治り切っていないせいだろう。


(治らねえぇうちに使っているからなぁ。そもそも、治るのかも、わからねぇ。蔦重さんの懸念通り、このまま使い続けたら、動かなくなるのかもな。そうなったら、絵が、描けなくなるかも、しれねぇ)


 黙り込んだ長喜を、歌麿が見詰める。


「今は、描きてぇんだろ。だったら、描けよ。描いていなけりゃぁ、いられねぇ時もあらぁ」


 長喜は、ゆっくり顔を上げた。


「どれだけ描いても、忘れられるはずもねぇんだ。けど辛くって、描かなきゃ、いられねぇ。描けども描けども、何も変わらねぇ。わかっていても、描くしかできねぇんだよ。あたしらは、絵師だからな」


 歌麿が、悲しげな笑みで俯く。


(そうか、兄ぃも、そうだったんだな。お涼さんが亡くなった時から、今までずっと、描いて心を慰めていんだな)


 妻と生まれるはずだった腹の子を同時に亡くして以来、歌麿は絵を描き続けている。青楼の絵師と謳われるほどに遊女を描いても、決して女には手を出さない。もう会えない亡き妻に操を立て続けている。


 一筋の涙が、長喜の頬を伝い流れた。


「確かに、描いても、変わらねぇなぁ。どれだけ描いても、心に隙間風が吹いて、止まねぇんだ。こねぇな気持ちで、兄ぃは絵を描いていたんだな。辛ぇな」


 歌麿が、長喜の頭を撫でた。


「あたしぁ、もう辛かねぇ。お涼のために描けるようになったからな。あたしの絵は、誰を描いてもお涼への手向けだ。描き続けりゃぁ、そのうちに、また楽しくなる。前ぇの楽しさとは、幾分か違うかもしれねぇがよ。それも、悪かねぇ。だから、絵を描けよ、長喜。辛けりゃぁ、泣け。今の辛さを、全部すっかり吐き出せ」


 長喜の目から、涙が溢れ出た。


「俺が、もっと気ぃを付けていりゃぁ、お喜乃は、死ななかったかもしれねぇ」


 言葉が、ポロポロと零れる。


「引っ掛かりは、あったんだ。安全だと言われても、何かが、胸の奥のほうに、引っ掛かっていたんだ。見過ごさねぇで、誰かに話していりゃぁ、どうにか、なったかもしれねぇ」


 歌麿が、長喜の背中を摩る。


「俺が、こねぇな大怪我をしなけりゃぁ、お喜乃は、自分の命を犠牲にしねぇで済んだんだ。俺が、もっと考えて、動けりゃぁ、お喜乃が生きている今が、あったかもしれねぇんだ」


 涙と共に言葉が次々と溢れる。


「誰も悪かねぇ。長喜は最善を尽くしたんだろ。この世にぁ、どうにもできねぇもんがある。人の命は、人にどうにか、できるもんじゃぁねぇよ。お前ぇは、悪かねぇ」


 歌麿の言葉に、長喜の言葉が止まった。

 しかし、目から流れる涙は、止まらない。

 喜乃を失ってから初めて、長喜は他人の前で声を上げて泣いた。その間も、歌麿は何も言わず、只々、長喜の背を撫でていた。


「なぁ、長喜。肉筆画を描けよ。お前ぇの絵は木版よりむしろ、肉筆画に向いている。昔、師匠にも指摘されただろ。絵に打ち込みてぇなら猶更に今、始めるのが良い」


 涙が落ち着いた長喜に、歌麿が切り出した。

 顔を上げると、歌麿が吹き出した。


ひでぇ面だなぁ。大の男が涙で顔をぐっちゃぐちゃにしても、絵の種にすら、なりゃぁしねぇぜ。色も艶もねぇ」


 長喜は、むっとして顔を隠した。


「兄ぃのせいだろ。俺だって、恥ずかしいや。けど、何だか胸ん中が、すっきりしたぜ。ありがとな、歌麿兄ぃ」


 にっと、笑って見せた。


「しかし、肉筆画、か。子興の号の頃に、描いたっきりだなぁ。今、描いたら、昔と違って面白れぇかもな」


 得心して、長喜は頷いた。


「お喜乃を描いてやれよ。弔いになる。木版と違って、肉筆画なら、線や色が柔らかくなる。美人の絵にぁ向いていらぁな。あたしぁ、お前ぇの描く肉筆画のお喜乃を拝んでみてぇね」


 歌麿を振り返る。真剣な目が、長喜を見詰めていた。


「そうだな。いいかもしれねぇ。少なくとも、今よりゃ、ずっと、いいや」


 振り返った長喜の顔を見て、歌麿が安堵の笑みを浮かべた。


「気に入る絵が描けるまで、何枚でも描きゃぁいい。肉筆画に、たっぷり時を掛けりゃぁ、自然と錦絵の仕事は絞るだろ。重三郎も安堵するだろうぜ」


 歌麿が、にたりと笑う。長喜は吹き出した。


「兄ぃは、策士だなぁ。俺の性格も蔦重さんの質も、よく知っていらぁ。かなわねぇよ」

「重三郎も長喜も、詰めが甘ぇのさ。あたしに勝とうなんざ、十年は早ぇや」


 歌麿が楽しげに、クックと笑う。

 長喜は、気になっていた事柄を切り出した。


「なぁ、兄ぃよ。何で、写楽の絵を、あねぇに批判したんだ? 兄ぃは東洲斎写楽がお喜乃だと、気が付いていただろ?」


 歌麿は以前に、自分の錦絵の中で東洲斎写楽を厳しく批判した。美しい女形に皺を描くのは野暮だ、といった内容だ。喜乃が気に懸けながらも口に出さなかったので、長喜も敢えて話さなかった。しかし、気になっていた。


「妬心だよ。重三郎が写楽に熱中していんのが、気に入らなかっただけさ」


 さらりと流す歌麿に、長喜は噛み付いた。


「この期に及んで、はぐらかすねぃ。兄ぃの本心が知りてぇんだよ。わざわざ錦絵に描き込むなんざ、何か考えがあったんだろ」


 歌麿が、表情を変えずに繰り返した。


「だから、妬心だと言っていんだろ。それに、あたしぁ、写楽だけを批判したんじゃぁねぇよ。他の絵師も、こっぴどく書いただろ?」


 確かに、数枚の錦絵で数名の有名絵師をこぞって非難していた。歌麿が思い上がっていると、読売も書き立てた。


「そう、だがよ。あらぁ、いくら何でも、やりすぎだぜ。お喜乃は、何にも言いやしなかったが、きっと気にしていたぜ」


 歌麿が、空を見上げた。


「気にしていたろうなぁ。だが、菊之丞の顔は、良くなったな。役者に嫌がられ、兄弟子に罵られても、お喜乃は描くのを辞めなかったろ。あれぁ、そねぇな娘だったよ」


 外に顔を向けた歌麿の表情は見えない。


「今頃、黄泉で怒っていんだろうな。で、師匠と一緒にたっぷり絵を練習していんだろ。あたしが黄泉に逝ったら、きっと噛み付いてくるぜ。そんで、絵の勝負を吹っ掛けてくるんだ」


 歌麿が笑顔で振り返る。

 気が抜けて、長喜は肩を落とした。


「兄ぃよ、お喜乃に噛み付いてほしかったのかよ。お喜乃は、怒ったりしねぇよ。しっかり受け止めて、絵に活かす。だから菊之丞の絵は、変わったんだ」


 歌麿が鼻を鳴らす。


「違ぇねぇ。お喜乃は、そねぇな娘だ。だから、写楽の絵が生まれたんだろうよ。気に食わねぇが、目を逸らせねぇ。妙に気になる絵だぜ」


 歌麿の顔は、どこか満足そうに、長喜には映った。


(兄ぃなりに、お喜乃に期待していたんだな。全く素直じゃぁねぇなぁ。けど、本心が知れただけでも、良かったな。お喜乃も一安心だろ)


 長喜も空を見上げた。

 お喜乃の魂が昇って行った空は、明るく輝いている。


「俺ぁ、お喜乃の肉筆画を、描くよ。気に入る絵が描けるまで、描き続ける。いつか黄泉で、お喜乃に伝えてやれるようにさ」


 歌麿を振り返る。歌麿が、口端を上げて頷いた。


「右腕は大事にしろよ。腕がなけりゃぁ、今までのように絵を描けねぇ。時々には、重三郎の気持ちにも報いてやりな」


 申し訳なさと有難さが入り混じって、恥ずかしい気持ちになった。

 しばらくの間、長喜は歌麿と並び、庭から流れてくる風に身を任せていた。

 二人の間に吹く風は、少しずつ暖かくなっていた。


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