6.

 その日のうちに、長喜と喜乃は絵を描き始めた。庭に向かい、文机を並べる。

 障子戸を開け放つと、冷たい風が部屋の中に流れ込んだ。


「兄さん、寒くない? 火鉢を近くに置いて。綿入羽織も着てね。今、熱いお茶を淹れるから、待っていて」


 てきぱきと働く喜乃に苦笑する。


「そねぇに世話を焼いてくれなくって、いいんだぜ。腕は挙げづれぇが、自分でできらぁ」


 忙しなく動いていた喜乃が、振り返った。


「私が、してあげたいの。それに、冷やしたら、傷に悪いでしょ。大事にしなきゃ」


 いつも通りの喜乃の姿に、安堵と同時に一抹の寂しさが胸を過った。


(まるで平素のようだなぁ。もうすぐ命の灯が消えるなんて、信じられねぇ。このまま、この時が、続けばいいのにな)


 長喜の隣に腰を下ろした喜乃が、湯呑を差し出す。


「今から絵を描くのに、兄さんたら、らしくない顔をしているわよ。文机に向かう時の兄さんは、いつも楽しそうにしているわ。行き詰まっていてもね」


 喜乃が笑みを向ける。

 はっとして、自分の顔をペタペタと触る。


(思いが、顔に出ていたんだな。この期に及んでお喜乃に気を遣わせるたぁ、兄弟子失格だ。気持ちを切り替えなけりゃぁ。お喜乃を、これ以上ねぇってくらい、楽しい気持ちで、送ってやるんだ)


 勢いよく湯呑を持ち上げ、茶を流し込んだ。


「あっちぃ! おい、お喜乃。この茶ぁ、熱すぎだ。喉が焼けるかと思ったぜ」

「熱くなければ、体が温まらないわ。熱いお茶を淹れるって、先に伝えたでしょ」


 目と目が、ち合う。顔を合わせて、二人は吹き出した。


「さぁて、まずは写楽の絵を仕上げるか。桐座と都座の曾我の対面は、描けるよな」


 喜乃が、描きかけの絵を数枚、出してきた。


「何枚かは、描いてみたのだけど。着物の柄や背後の舞台は、まだ真っ白で、兄さんに相談したいの。見たままに描くのは難しそうだから、柄は作ってもいいかな?」


 一度の観覧で着物の色や柄の総てを描き込むのは難しい。桐座と都座も、河原崎座と同様に、何度か観に行くつもりだった。とはいえ今更、芝居に行く暇もない。


「そうだなぁ。見立のような手本もねぇし、柄は独自に充てるか。蔦重さんから芝居小屋に話を通してもらうしかねぇな」


 枚数は予定よりずっと少ないが、人の形は、おおよそ描き上がっている。以前より、線が荒く感じた。長喜が目を覚まさない間に、喜乃はこの絵を描いていた。心情が現れているのかもしれない。


(だが、勢いは、ある。表情もよく描けている。描き直しは無用だな。この十月で、ずいぶんと成長したもんだ)


 もっと時があれば、練習できれば、喜乃は間違いなく成長していた。そう考えずには、いられない。頭を振って、思考を切り替えた。


「一先ず、柄をいくつか描いて、充ててみるか。それから色を決めるとして、入れてぇ柄はあるか?」


 頷いた喜乃が、筆を執る。


「前に伝蔵さんが描いていて、気に入っている柄があるのだけど。形と色を少し変えて、こう、扇が重なって華に見えるようにしたら、御目出度くて正月らしくないかしら?」


 紙に柄を、さらさらと描いていく。


(着物の柄も不得手だったのになぁ。自分で考えて、作るようになるたぁ。お喜乃は本当に一途だな)


 喜乃の手に握られた筆に目が留まった。その筆は、長喜と伝蔵、鉄蔵の三人が贈った筆だ。御守りとして文机に飾っていた筆を最初に使ったのは、皐月の大首絵を描いた時だった。


(お喜乃にとって、東洲斎写楽は間違いなく、ここ一番だったな。鉄蔵、伝蔵。お喜乃は、この筆で、立派に絵師の仕事をしたぜ)


 自分たちが贈った筆を使って懸命に柄を描く喜乃の姿が、誇らしかった。


「なかなか良い出来だな。南天を入れてもいいな。難を転ずるし、正月らしいだろ」

「そうね、なら、可愛らしくして帯に入れようかな。粂吉の帯にしようかしら」


 吟味をしながら、二人は着物の柄を詰めていった。

 あっという間に一刻が過ぎ、喜乃が息を吐いた。


「疲れただろ、少し休むか? 今度は俺が茶ぁを淹れてくるから、休息していろよ」


 立ち上がろうとする長喜の袖を、喜乃が引いた。


「行かないで、兄さん。疲れていないから、ここに、いて。もっと一緒に、絵を描いていたいの」


 喜乃の真っ白い顔が、青褪めて見える。時が、迫っているのかもしれない。

 腰を下ろして、長喜は喜乃を振り返った。


「なぁ、お喜乃。息抜きに、互いの姿絵でも、描かねぇか? 俺ぁ、お前ぇの絵を描きてぇんだ。描かせてくれよ」


 喜乃の表情が改まる。

 一度だけ逸らした瞳を、長喜に向けると、頷いた。


「私も、兄さんに絵を描いてほしい。兄さんの目に映る私がどんな姿なのか、知りたい」


 喜乃の顔は笑んでいるのに、寂しげに感じる。

 長喜は喜乃に筆を手渡した。


「お喜乃も、描くんだぜ。俺の絵を描いて、俺にくれ。交換しよう」


 筆を受け取った喜乃が、小さく頷いた。


「わかった。きっと、すてきに仕上げるからね」


 喜乃の頬に一筋の涙が流れる。

 その雫を優しく指で拭うと、長喜は文机に向かった。


 二人は無言で、絵を描いた。時折、洟を啜る音が庵に小さく響く。筆が紙の上を滑る音と、笹が風に揺れる音が、他の音を総て搔き消した。

 火鉢の中の炭が、小さく爆ぜる。

 長喜は、筆を置いた。ほぼ同時に、喜乃も筆を置く。顔を合わせて、長喜は喜乃に絵を差し出した。絵を受け取ると、喜乃は絵に見入った。喜乃の目から、また涙がすっと流れた。


「兄さんの線は、とても綺麗ね。繊細あえかで滑らかで、丁寧で、私には引けない線。兄さんが描くと皆、美人になるわ。私、こんなに美人じゃぁないもの」


 喜乃の頬に手を当てる。

 懸命に笑おうとする目から零れる涙を拭った。


「いいや、お喜乃は美人だよ。俺が出会った誰よりも、美人だ。初めて会った時、お前ぇはまだ五つだったけどさ。俺ぁ、美しいと思ったんだぜ。歳を追うごとに、お喜乃は俺の想像を超えて、益々美人になった」


 喜乃の目から、涙が溢れた。


「美人の絵が得意な兄さんに褒めてもらえるなんて、贅沢ね。こんなに綺麗に描いてもらって、嬉しい。嬉しいのに、ごめんなさい。涙が、止まらない」


 長喜の絵が黄泉への道標みちしるべになると、喜乃は知っている。今なら、魂で感じ取っているはずだ。

 目を擦る喜乃の手を取り、握る。


「俺ぁ、お喜乃の笑った顔が好きだ。お前ぇが何を案ずるでもなく、笑っていてくれたら、俺ぁ、幸せなんだ」


 長喜が描いた喜乃の絵は、絵を描きながら笑っている姿だった。


「長喜兄さんがいてくれたから、笑えたのよ。楽しいのも嬉しいのも、全部、兄さんと一緒だったから、感じられたの。離れたくないよ、兄さん。でも、すぐに黄泉に来たら、許さないから。私が、追い返すからね」


 しゃくり上げる喜乃の顔を上げ、額を合わせた。


「すぐには逝けねぇよ。俺ん中には、お喜乃の命が流れていんだ。一緒にいるのと、同じだろ? 二人分の命だ、大事にしなけりゃぁな。あっちには、師匠も石鳥も月沙もいる。楽しく絵を描いていりゃぁ、あっという間に俺が爺になって、そっちに逝くだろうから。黄泉で、また会えるさ」


 涙を流したまま、喜乃が小さく吹き出した。


「お爺さんになった長喜兄さんの顔が、早く見たいな。きっと、すてきな翁ね。楽しみに待っているから。だから兄さんは、これからも、現を楽しく写してね。描きたい絵を、たくさん描いてね」


 喜乃の体が透け始める。

 長喜は喜乃の背に腕を回し、抱き締めた。


「ほんの少しだけ、さよならだ。きっと、また会えるから。だから、笑ってくれよ、お喜乃」


 喜乃が額を離す。潤んだ瞳のまま、微笑んだ。


「長喜兄さん、大好きよ。ありがとう。今だけ、さようなら。また黄泉で会おうね」


 澄んだ瞳に魅せられて、顔を寄せる。柔らかい唇が触れ、重なった。

 長喜の描いた喜乃の絵が浮かび上がる。青い灯となり、喜乃の周囲を舞う。透けた喜乃の体が、光を帯びた沫になり、白い魂の灯になった。

 青い灯が浮かび上がり、先導する。後を追って、喜乃の魂が、空へと舞い上がった。


「お喜乃! お喜乃、お喜乃! 逝くな……っ」


 思わず叫んだ本音を飲み込んで、後を追う。

 長喜は裸足で庭に飛び出した。


「黄泉でも、達者に絵を描けよ! 笑っていろよ! もう何も、怖がらなくっていいんだ! 笑って、絵を描けよ!」


 空高くへと浮かんでいく魂を、見送る。

 灯が見えなくなっても、長喜は、いつまでも空を見上げていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る