5.
胃の腑が持ち上がるような吐き気に見舞われる。意識が一気に浮上した。
「待ってくれ! 連れて行かないでくれ! 死ぬのは俺でいいんだ! お喜乃を、奪わないでくれ!」
伸ばした手の先に見えたのは、見慣れた天井だった。
「あ、あれ……。ここぁ、吾柳庵、か? 俺ぁ、どうして。さっきのは、いってぇ……」
額に手を当てる。全身から、汗が噴き出していた。長喜は布団に臥床していた。
不意に、庭に目を向ける。竹林には、平素の通り、淡い陽が差し込んでいた。
竹林の中に常にあった志乃の気這いは、跡形もなく消えていた。
(さっきのお志乃さんは、幻、じゃぁねぇよな。俺に、別れを告げに来て、くれたんだな)
志乃の話を、頭の中で反復する。
(なんで、お喜乃が死ぬんだ。あの後、何があった? お喜乃も怪我をしたのか?)
はっとして、起き上がった。
「お喜乃! お喜乃! いねぇのか。お喜乃! っつぅ、痛ってぇ」
右肩に鋭い痛みが走る。
よく見れば、肩から胴に掛けて、包帯が巻かれていた。
(采女に斬られた傷か。右腕が、動かせねぇかもって、お志乃さんが言っていたっけ)
右の指を握り、開く。どうやら指は動く。知覚もあるようだ。
腕を挙げる。胸より高く上げようとすると、痛みが走った。
(不便だが、これなら何とか絵は描けそうだ。しばらく鍛錬は、しねぇといけねぇな)
外で物音がした。井戸のほうから走ってくる足音は、喜乃だ。庭から長喜の姿を見付けた喜乃が、部屋に駆け上がる。
「長喜兄さん! 目が覚めたのね。良かった、本当に良かったぁ! 丸一日、寝たままだったのよ。目が覚めなかったら、どうしようかと思った」
力いっぱい抱き付いた。
「いたたた! 痛ぇ! お喜乃、落ち着け。体のあちこちが痛ぇんだ。ゆっくり抱き付いてくれ」
喜乃の両肩を掴み、全身を隈なく見回す。
「怪我は、しちゃぁいねぇようだな。痛む箇所は、ねぇか。お喜乃は、何ともねぇか?」
長喜の目から喜乃が目の先を逸らした。
「私は平気よ。怪我は、していないわ。兄さんは? 背中の傷が大きくて、特に肩の傷が深かったの。腕は、上がる? 指は、動く?」
長喜の右手を握って、喜乃が眉を下げた。
「腕を高く上げると、肩から背が痛むが。背中をざっくり斬られて、これで済みゃぁ重畳だ。指も動くぜ。知覚もある。お喜乃の指が、やけに冷てぇのも、よくわかる」
喜乃の指は、酷く冷えている。まるで血が通っていないような冷たさだ。手を握り直し、長喜は喜乃を見詰めた。
「寝ている時に、お志乃さんと話したんだ。十郎兵衛様とお喜乃の話も、少しだけ聞こえていた。采女に斬られて、俺が倒れた後に、何があった? 正直に話してくれるか?」
泣き出しそうな顔をした喜乃が、俯いた。
「あの、後、十郎兵衛が駆け付けてくれたの。母上が報せてくれたのだと思う。他にも家臣が何人か来て、采女は縄に付いて。兄さんの血が止まらなくって、心ノ臓が、止まりそうで、それで」
消え入りそうな声で話す喜乃の肩を抱く。
「辛ぇ話をさせて、すまねぇ。ゆっくりでいいから、教えてくれ。お喜乃の身に、何が起きていんのか、俺ぁ、知りてぇんだ」
喜乃の強張った肩を優しく撫でる。
少しずつ力が抜けていくのが、わかった。
「血が、たくさん流れていたの。兄さんの体が、だんだん冷たくなって、怖かった。だから、願ったの。兄さんを奪わないで、って。私の命を、あげるから、兄さんを生かしてって、母上に、お願いしたの」
志乃との会話を思い返す。長喜の血の気が下がった。
「お志乃さんが、お喜乃の願いを、聞き入れたのか? 俺が今、生きていんのは、お喜乃の命を吸ったから、なのか。なんで、そねぇな願いをしたんだ!」
長喜の叱咤に、喜乃が言葉を被せた。
「兄さんが死んでしまったら! 私の居所は、なくなるもの。兄さんのいない世界で生きる意味は、ないもの! 私のせいで兄さんが死ぬなんて、嫌だもの。誰よりも兄さんが、大事なの。これからも、生きて、絵を描いて欲しいの」
喜乃の目から涙がポロポロと零れる。
自分が喜乃に抱く思いと同じ想いを、喜乃も長喜に対し、抱いている。
志乃の言葉を思い知らされた。
「わかっちゃぁ、いるんだ。俺だって、お喜乃に絵を描いて、長生きしてほしい。幸せに生きてほしいんだ。お喜乃の命を吸ってまで、生き延びてぇとは思わねぇ。お前ぇを守りたくって、俺は、必死の覚悟をしたってぇのに……」
喜乃の冷たい両手が、長喜の手を包んだ。
「耕書堂で、初めて長喜兄さんに会ってから、今までずっと、守ってもらったわ。兄さんは、私を疫病神じゃないと……、幸せになっていいと、教えてくれた。私の十七年は、とても幸せだったの。今度は私が、お返しをする番よ」
長喜を見上げて、にっこりと笑む。
「お前ぇが幸せになんのは、当たり前ぇの事実なんだ。誰に邪魔される筋合いもねぇんだ。命を捨ててまで、返す恩義じゃぁねぇんだよ。お前ぇのいない世で生きる辛さは、俺も同じなんだ」
あまりにも情けない声が、自分の喉から流れ出た。
喜乃が首を振る。
「幸せに生きるなんて、私にとっては当たり前じゃなかったわ。兄さんに出会えなければ、私は、きっと、もっと早くに死んでいた。当たり前にしてくれたのは、兄さんなの。諦めていた人並みの、ううん、人並み以上の幸せを、兄さんが私にくれたのよ」
目頭を押さえて、長喜は首を振った。何度も何度も、首を振る。
「お喜乃に会って、幸せだったのは、俺のほうなんだよ。一緒に絵を描いて、一緒に暮らして。これからも、当たり前ぇに一緒に暮らせると、毎年、一緒に正月を迎えられると、信じていたんだ。なのに、何で、こんな風になったんだ」
喜乃が項垂れる長喜の肩に、そっと寄り添った。
喜乃の体からは、温もりを感じない。心ノ臓が動いていないからだ。
喜乃に命を戻す手段はないのだと、改めて直感する。
「長喜兄さん、私ね。残された日を、二人で一緒に、絵を描いて過ごしたい。私の我儘を、聞いてくれる?」
覚悟を、決めなければならない。
喜乃を失う現実を、受け入れなければならない。
(俺がいつまでも情けなく泣いていちゃぁ、お喜乃は安心して黄泉に逝けねぇよな。お喜乃の決意を、踏み躙ったりは、できねぇ。残された時は、少ねぇんだ)
目をゴシゴシと擦って、長喜は懸命に笑みを作った。
「そうだな、一緒に絵を描こう。写楽の絵を仕上げて、他にも、描けるだけ描こう。俺も、お喜乃に描いてやりてぇ絵が、あるんだ」
喜乃が満面の笑みを長喜に向ける。
頬に涙の筋が残る笑顔は、儚く美しかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます