4.

 温かい光に包まれている気がした。

 意識が浮上して、回転する。

 遠くで、誰かの話し声が聞こえた。


「母上は、もう、いないのね。兄さんの傷は、全治したの? 命は、助かるのよね?」


 喜乃の憂慮した声だった。


「お喜乃様の願いを成就された後での、治癒でござった。怪我の具合は、長喜殿が目覚めてから、改めて確かめる他はないと存じます。一先ず、今すぐに、命が消える懸念は、ありますまい」


 おそらく十郎兵衛であろう男が、応える。声は沈んで聞こえた。


「ならば、良いわ。右肩の傷が深かったから、それだけが心残りね。筆が執れなくなるような怪我でないようにと、祈るばかりよ。色々と、ありがとう、十郎兵衛」


 喜乃の手が、長喜の頬に触れた。指が驚くほどに、冷たい。


「いいえ、儂がもっと早くに駆け付けておれば、斯様な事体は避けられたはずです。真に申し訳ござりませぬ」


 喉の奥から絞り出したような声だ。


「頭を上げて頂戴。貴方のせいではないわ。事件は、私が生きる限り、避けられなかった。けれど、まさか、兄さんが大怪我をするなんて。私の考えが、甘かったのね」


 声は、はっきりと聞こえる。なのに、目が開かない。声も出ない。


「お喜乃様に落度はござりませぬ。采女の謀反を見抜けなんだ儂の責でござります。どれだけ腹を斬っても、足りませぬ……」


 声が、また遠くなる。


(お喜乃、十郎兵衛様。誰のせいでもねぇんだ。俺は平気だ。二人とも、自分を責めねぇでくれよ)


 伝えたい言葉は声にならず、心の中で消える。

 真っ黒な瞼の裏が、ぼんやりと明るくなった。

 黒い影が、少しずつ人に成り、女人の姿になった。


(お喜乃、か……? いや、違う。もっと大年増の、そうか。お喜乃の母ちゃんの、お志乃さんか)


 柔らかく笑む顔が、喜乃にそっくりだった。

 志乃が長喜に向かい、丁寧に頭を下げた。


「長い間、娘を守り続けてくださり、本当に有難う存じます。私にもっと力があれば、違った未来が、あったのでしょう。生きている間も、死んだ後も、私はお喜乃を守れなかった。不甲斐ない母親で、申し訳ありません」


 上がった顔には、悲しい笑みが浮かんでいた。


「長喜様、貴方様のお陰で、お喜乃は十七まで、幸せに生きました。その事実が、私には、何より嬉しいのです。だから、せめて最期くらいは、私の総てを賭して、あの子の願いを叶えたいと思うのです」

「最期? 最期って、どういう意味だ。あんたは、お志乃さんは、黄泉に逝くのか?」


 長喜の言葉に、志乃が首を振った。


「なら、逝くのは、俺か? あねぇな大怪我だ。死んでも仕方がねぇや。お喜乃が生きてくれりゃぁ、本望だ」


 志乃が再び、首を振る。

 嫌な考えが頭を掠めた。

 血の気が、徐々に下がっていく。


「右腕は、今まで通りに動かないかもしれません。けれど、困難を乗り越えて。あの子が好きだった貴方様の絵を、これからも描き続けてくださいますように。心から願っております」


 志乃の姿が遠のいていく。


「待ってくれ、まさか、死ぬのは、お喜乃なのか? お喜乃は無傷だった。死ぬような怪我をしたのは、俺だ。どうして、お喜乃が!」


 志乃の姿を追う。

 どれだけ手を伸ばしても、届かない。姿はどんどん、小さくなる。


「長喜様からお喜乃を奪う私を、許す必用は、ありません。けれど、どうか、あの子を責めないであげてくださいませ。お喜乃は心の底から、貴方様を大切に思っているのです。長喜様がお喜乃を大切に思ってくださる心と同じように、あの子も……」


 姿と共に、声までも遠くに消えていく。

 伸ばした手が虚しく空を掴んだ。

 光が消え失せ、目の前はまた、真っ暗な闇に染まった。

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