3.

 寛政七年睦月十五日(一七九五年三月五日)、都座、桐座、河原崎座の三座で、初春興行が一斉に始まった。

 初日に河原崎座の芝居を楽しんだ二人は、次の日、都座と桐座を廻っていた。


「明日また、河原崎座の芝居に行ってもいいかな? 着物の柄がよく見えなかったの。もう一度、ちゃんと確かめてから描きたいんだ」


 吐く息が、白く風に溶ける。

 喜乃は今日、振袖を綺麗に着こなして化粧をしていた。

 艶やかな姿に、うっかり見惚れる。

 正月の晴着は、蜂須賀家から届けられた。

 重三郎と十郎兵衛が気を回したのだろう。


(御丁寧に俺の分まで用意してくれるたぁ。有難てぇが、こういった晴着は着慣れねぇなぁ)


 錆色の着流しに長羽織は江戸で流行の仕様だ。芝居見物にはもってこいだが、何とも照れた心持になる。


「長喜兄さん、聞いている? 今日の兄さんたら、変よ。せっかくの芝居見物なのに、呆けているんだもの。まさか、調子が悪いの?」


 喜乃が手を伸ばし、長喜の額に手を当てた。

 慌てて、身を捩る。

 喜乃の手が空を舞った。


「どこも悪くねぇよ。さっきの、都座の芝居な! 五大力が良かったよな! あの芝居は、当たりだぜ。今年も夏に曾我祭りがあるかな」


 喜乃が、あからさまに顔を顰めた。


「確かに曾我の二番目は良かったけど。その話は、していないわよ。兄さん、本当に変よ。何かあるなら、ちゃんと話して」


 喜乃が、ずいと顔を突き出して長喜に迫った。

 どきりと胸が大きく鳴って長喜は後退った。


(今日のお喜乃が綺麗で見惚れていた、とは言えねぇ。いや、別に言っても悪かねぇが、恥ずかしくってなぁ)


 ぽりぽりと頭を掻いて、空を見上げる。

 茜に染まり切った空は、上のほうから夜の闇が降りつつあった。


(もう何回、お喜乃と正月を過ごしたかな。吾柳庵に移り住んでからは、四回か。耕書堂に居住していた頃から数えたら、十回以上だな)


 胸の奥が温かく、擽ったい。

 長喜は手を差し出した。


「たまにぁ、手でも繋いで帰るか。冷えているだろ。俺の手は温けぇから、握ってやるよ」


 今度は喜乃が呆けた顔をした。

 頬と耳の先が、ほんのり朱に染まる。

 迷う手が、長喜の指先に触れた。


「じゃぁ、握ってもらう。今日は風が冷たくって、寒いから。……兄さんの指も、冷えているわよ」


 口を尖らせる喜乃が、上目遣いに長喜を眺める。


「こうして手を繋いでいりゃぁ、互いに温まるだろ。充分に温まったら、もう片方の手を繋いで温めりゃぁいい。また冷えたら、繋げばいいさ」


 喜乃が、ぷっと吹き出した。


「キリがないね。くるくる回って、面白い。でも、ずっと手を繋いでいられるのは、嬉しいな。昔は、もっと気軽に手を繋いでいたのにね」


 長喜は喜乃の手を、しっかりと握り直した。


「そうだなぁ。お喜乃が可愛らしい娘に育ったから、もう気軽にぁ、手を握れねぇなぁ」


 喜乃が、ぷぅっと頬を膨らませる。

 今度は長喜が吹き出した。


「私は、いつも気軽に手を繋ぎたいけどな。でも、だったら、どうして、今日は、手を握ってくれたの?」


 喜乃が長喜を見上げる。さりげない表情に、胸が高鳴った。

 化粧をしているせいか、平素から知っている表情までも格別に写る。いよいよもって、喜乃に対する自分の感情の正体を突き付けられた思いだった。


(こいつぁ、いけねぇや。馬琴の言葉が本当になりそうだ。いやいや、お喜乃が俺をどう思っているかは、わからねぇんだし。そもそも、それじゃぁ、約束を違えちまうだろうが)


 自分に言い聞かせ、平静を保つ。

 何と答えて良いかわからず、長喜は目を泳がせた。


 夕暮れ時の道は、人通りが少ない。

 鬱蒼と茂る神田明神の林が月の光を遮って、道はやけに暗かった。


「そりゃぁ、まぁ、あれだ。暗ぇし、危ねぇから、手を繋いでいねぇと、お喜乃が神隠しに遭うかもしれねぇだろ」


 前から深編笠を被った武家の男が歩いてくる姿が横目に映った。

 男が鯉口を切る音がした。


 不気味な予見が走る。 

 刹那に、握っている喜乃の手を強く引いた。喜乃の足が縺れて、体がよろめく。

 男が刀を抜きながら走り寄る。横に一閃、白い筋が斬り付けた。

 受け止めた喜乃の体を抱いて、後ろの林に飛び退く。

 刀が空を切り、着物の袖が切れ落ちた。

 土の上に転がったまま、男を見上げる。


「御武家様は、どこの何方様でしょうかね! 俺らは、斬られるような振舞は、しちゃぁおりやせんぜ!」


 わざと大声を出した。

 すぐそこは神田明神だ。人がいるかもしれない。

 怯みもせず、男が刀を構え直す。


「しくじった! お喜乃、明神様まで走れ! 鳥居を潜れば、追って来ねぇはずだ!」


 寺社の境内での殺生は禁じられている。

 もし、この男が仕官している侍なら猶更、諦めてくれるはずだ。


(野武士でも、さすがに咎めを受ける殺生はしねぇだろ。……しねぇよな。掛けるしかねぇ)


 喜乃が立ち上がらない。触れた体が震えている。足に力が入らないようだ。

 足元の砂を男に向けて、投げ付ける。乾いた砂は、思った以上に散らばった。

 男が後退り、目を擦る。


「お喜乃、今は、気力で立て! 走るぞ! 鳥居の向こうまで、もうすぐだ! 気張れ!」


 喜乃の腕を引き、抱きかかえるようにして、長喜は走った。

 すぐに立て直した男が、白刃を下げて追ってくる。

 鳥居は目の前だ。長喜は、鳥居の中に喜乃の体を突き飛ばした。


「兄さん! 兄さんも、早く、こっちに! こっちに来て! そこにいたら、危ない!」


 転がったまま、喜乃が悲鳴に似た声を上げる。

 長喜は鳥居の前に立った。周りに転がる石を拾い、いくつも男に投げ付けた。

 男が身を躱し、石を避ける。小さな石が打つかっても、気に留めず前に出る。


「食らいやがれ! いくらでも投げてやらぁ! ここから先にぁ、行かせねぇぞ!」


 一心に、何度も投げ付けた。一際大きな石を、力いっぱいに投げる。拳ほどもある石が、偶然にも男の右の額に当たった。

 男がよろけて、笠がずり落ちた。


「あ、当たった……。って、その面ぁ。あんた、まさか、采女様……」


 血の流れる額を押さえて、長喜を睨みつける男は、間違いなく佐渡采女だった。


「何で、采女様が、俺とお喜乃を、斬ろうと、するんですか。どうして……」


 腕が、だらりと下に垂れた。

 手から石が零れて、地面に転がる。


「何故と、問うか。ならば、応えよう。近江派が手を引いたからだ。儂でなければ、成し得ぬからだ」


 采女の肩からは、怒りが噴き上がっていた。


「儂がどれだけ心を砕き、身を窶し、蜂須賀家の金蔵を支えてきたが、わかるか。阿波藍を江戸に流し、塩の流通で負債をようやっとなくしたと思えば。先の城主は卑しい身分の愛娘に金を注ぎ込む。阿波守様は国元に迎えられぬ気詰から見ぬ振りを貫く。馬鹿馬鹿しい!」


 采女の気魄に、長喜は後退った。


「本人の願い通り、身分を捨てさせれば、町人風情にくれても、やれた。だが、それも叶わぬ。ならば殺すしかあるまい! その娘は蜂須賀家の災いだ! それを庇い立てるうぬも同罪よ! この場で死ね!」


 采女が刀を振り上げる。

 長喜は拳を握り締めた。歯を食い縛ったせいで、口の中に血の匂いがする。


「話は、終わりかよ。あんたの苦労なんざ、知らねぇよ! そねぇな理屈が人の命を奪う大義名分になんのか! そねぇな理屈で、お喜乃の命を奪われて、堪るかよ!」


 采女が刀を構えたままに、畳み掛けた。


「町人風情が知った風に語るな! 卑しい血の混じった娘一人が御家を潰すやもしれぬのだ。国元の民を殺すやもしれぬのだぞ。己に、儂の業腹は、解るまい!」


 采女が一歩ずつ、長喜に近づく。


「解りたくもねぇ! あんたは、お喜乃を大事に思ってくれていると思っていたんだ。俺に厳しい話をしたのも、お喜乃のためだと。あん時の話は、嘘だったのかよ!」


 采女が、口端を上げて、卑劣に笑った。


「嘘など、ない。儂は大炊頭様と阿波守様の御意志を伝えたに過ぎぬ。あの時の言葉に、儂の本心など、元より一つもなかった」


 采女が、長喜に躙寄る。


「十郎兵衛様は、あんたを仇為す輩じゃねぇと、俺らに引合せたんだ。あんたは、お喜乃も十郎兵衛様の信義も踏みにじったんだ。それが武士の振舞かよ!」

「卑しき画工風情が、口を慎め!」


 采女が地を蹴った。

 硬い石を握り締め、長喜は采女に向かい、一歩を踏み出す。

 突如、喜乃が長喜の前に立った。采女に毅然と向き合う。


「狙いは、私なのでしょう。私を殺しなさい。貴方は家臣を伴わずに、たった一人で、私を殺しに来た。一人で成し遂げたかったのでしょう。大願を成就なさい。私は、抗わない。私だけを、殺しなさい。それで総て、仕舞いよ」

 采女の足が止まった。

「斯様に、その男が大事でござりますか、お喜乃様。何とも御立派な気概でござりまするなぁ。さすがは、あの写楽の娘だ」


 喜乃の手が震えていた。恐怖なのか、怒りなのか。きっと両方だろう。


「正直に申し上げましょう。今の蜂須賀家に、儂に賛同する者など、おりませぬ。阿波守様が城主となり、政が整った今、お喜乃様の闇討など不要。御家の安泰を信じ、不測から目を逸らす、頭が空の愚者しか、おらぬのです」


 喜乃が拳を握り締めた。


「私だけなら、いざ知らず、蜂須賀の家を侮辱するとは何たる無礼か! 恥を知りなさい!」

「真に蜂須賀家を案ずればこそ、不要な芽は摘まねばならぬ。儂にしか成し得ぬのだ。貴女様こそ、これ以上、生き恥を晒されますな。望み通りに、儂が終わらせましょうぞ!」


 深く腰を落とし、采女が一気に地を蹴る。


「危ねぇ、お喜乃! 下がれ!」


 長喜は喜乃の腕を引いた。胸に抱きかかえ、采女に背を向ける。

 采女の刀が、長喜の背中に大きな一太刀を入れた。


「っっ!」


 呻きすら、声にならなかった。ガタガタと震える足が力を失い、膝を突く。背中に焼けるような熱さが走り、徐々に耐え難い痛みが沸き上がる。


「兄さん! 長喜兄さん! いやだ、いやだ! しっかりして!」


 喜乃の声が、遠くなる。涙を流す喜乃の顔に、手を伸ばした。


「逃げろ、お喜乃。早く……。走れ、社の、中に……。誰かに、助け、を……」


 見えているはずの喜乃の顔が、際から黒く染まっていく。


(俺ぁ、死ぬのかな。 目ぇまで見えなくなってきやがった。お喜乃、俺に構わず逃げろよ。お前ぇが生きていりゃぁ、俺は……)


 霞む意識の中で、ただそれだけを唱え続けていた。

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