第八章 写楽落葉
1.
寛政六年霜月廿日(一七九四年十二月十二日)。
長喜は喜乃と十郎兵衛と共に勧進相撲を観るため、本所の回向院に来ていた。
土俵の周りに作られた仮小屋は、すでに多くの人で埋め尽くされている。あまりの人の多さに、喜乃が口を開けていた。
「江戸には、たくさんの人がいるのね。男の人だけで、こんなに集まるんだ。相撲の人気は思っていた以上だわ」
驚く喜乃は今日、男の格好をしていた。肩書は十郎兵衛の知人の子だ。
相撲は女人の観覧が禁止されている。男に紛れて観に来る女子もいるが、見付かれば取り締まりを受ける。面倒を避けるために前髪のある少年に扮していた。
事の起こりは、重三郎の進言だった。
「耕書堂からも相撲絵を出す。霜月の勧進相撲は大童山の土俵入りがあるってんで、読売も騒いでいる。土俵入りを描くんなら、やっぱり写楽だろ。中見でいくぜ」
相撲絵は役者絵と同様に勝川派が主力だ。耕書堂から東洲斎写楽が参入して、世間を驚かせる趣向だ。中見が得意な喜乃のために、重三郎が土俵の真ん前の席を取った。絵を写す十郎兵衛に付いてきた絵師見習いに見えるように仕込んでいる。
(蔦重さんも張り込んだなぁ。いや、張り込んだのは、お喜乃の父ちゃん、だろうな)
顔見世の写楽の絵は苛評が多かった。はっきりと「写楽は絵が下手になった」と評する読売もあった。
市井の声を、喜乃は懸命に受け止めていた。受け止めきれなかったのは、重三郎だろう。喜乃が、あれほどに見立が不得手だとは、重三郎は思いもよらなかった。だからこそ、相撲絵は何としても得意の中見で描かせる。女人禁制の場所に送り込んででも描かせたい。重三郎の決意には、凄みさえ感じる。
席に着いた喜乃が、筆と紙を取り出す。描く準備は万端だ。
あまりの人の多さに、長喜は気を張っていた。
「長喜殿、もっと気楽に。せっかく良い席を取ったのだ。今日は、相撲を楽しもう」
喜乃と同様に筆と紙を持って支度の整った十郎兵衛が、長喜に笑んだ。
「強張った顔をしていると、余計に目立つ。楽しんでいたほうが、衆人に紛れる」
十郎兵衛が、こっそりと囁く。長喜は肩を上げ下げして、何とか力を抜いた。
「見ろ、谷風だ! 小野川と雷電もいるぞ! 土俵入りだ!」
誰かの声が響き、土俵入りが始まった。
横綱の谷風梶之助を始め、異母弟の達ヶ関森衛門、雷電為右衛門など、錚々たる顔触れが集う。最後に大童山文五郎が入場すると、歓声は一層に大きくなった。
大童山文五郎は出羽国の出で、数え七歳にして身の丈が三尺七寸九分、目方が十九貫にもなる怪童だ。勧進相撲は毎年、人で溢れる。だが今年は、大童山の初の土俵入りを一目なりとも拝もうと、例年より遥かに多い客が集まっていた。
土俵の真ん中に立った大童山が、四股を踏む。太い脚の下で、土煙が舞い上がった。巨漢振りと、七つとは思えぬ貫禄に圧倒される。
「こねぇに近くで力士を観たのは、初めてだが。でかすぎて、怖ぇくれぇだなぁ」
思わず零した言葉に、十郎兵衛が頷いた。
「大きさも然ることながら、勢いが伝わってくる。この気魄を、どう絵に写すか」
十郎兵衛が喜乃を振り返った。長喜の目も喜乃に向く。喜乃は、紙と本人を何度も見比べ、筆を滑らせている。すでに数枚の紙に、多くの力士を描き込んでいた。
一心不乱に描き写す喜乃に、二人の声は聞こえていない。
(まるで、水を得た魚だなぁ。久方振りに中見で絵が描けるのが、嬉しいんだろうな)
見立の練習のため、本と向き合い続けていた喜乃だ。外で、生の絵を描ける喜びは大きいだろう。
長喜は十郎兵衛に向かい、無言で頷いた。十郎兵衛もまた、長喜の意図を察した顔で頷き返した。喜乃の気を削がないよう、二人は静かに、相撲の興行を楽しんだ。
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