6.

 結局、喜乃が『高島おひさ』の団扇に描いた役者は、四代目の松本幸四郎だった。夏の大首絵に描いた『肴屋五郎兵衛』だ。


(若けぇ娘が持つ団扇にしては、ちぃと渋い気がするが……。やっぱり、お喜乃は年上が好みなんだなぁ)


 幸四郎はあと二年で本卦還を迎える古参の役者だ。肴屋五郎兵衛という役処も、落ち着いて思慮深く、どっしりと構えた侠気の人である。


(お喜乃の周りにぁ、大人の男しかいねぇから、好みも大人に傾くのかねぇ。俺より年上の男を、お喜乃が旦那に選んだら、俺ぁ、どういう顔をしたらいいだろうな)

 

 改めて、喜乃の行く末を案じずには、いられなかった。



 霜月五日(一七九四年十一月二十七日)、長喜は一人で耕書堂を訪れていた。

 下絵を確かめた重三郎は大笑いした。


「こりゃぁ、いいや。栄松斎長喜と東洲斎写楽の合作けぇ! 団扇絵に選んだ役者が幸四郎ってぇのは、如何にも、お喜乃らしいぜ。面白れぇなぁ。さっそく彫りに廻すぜ」


 喜ぶ重三郎を前に、長喜の気持ちは晴れなかった。


「蔦重さんが喜んでくれて安心したが。何てぇか、お喜乃は爺が好きなのかねぇ。時々、不安になるぜ」


 憂慮を吐露すると、重三郎が鼻で笑った。


「爺が好きなんじゃぁなくって、どっしりと構えている肝の据わった男が好きなんだろうぜ。そういや、今日はお喜乃と一緒じゃぁねぇのかぇ。珍しいな」

「ここに来る前ぇに伝蔵の家に寄ったんだ。店が忙しそうだったんで、手伝っているよ。帰ぇりに迎えに行く約束だ」


 伝蔵は一年ほど前、両替町一丁目の第宅の一画に《京屋伝蔵店》を出店した。伝蔵自身が描いた柄の煙草入が評判となり、売行は上々だ。


「ああ、京伝店か。忙しいのに人手が足りねぇんで、馬琴がよく手伝いに行っていんな。ついでに戯作の手伝いもしているようだが。何にせよ、今の伝蔵は、誰かが傍にいたほうが良いだろうぜ」


 店を出した少し後、妻の菊園が流行病で病死した。伝蔵の気落ちの具合はひどかった。同じように、仲が良かった喜乃も気落ちしていた。


「伝蔵もだいぶ持ち直してきたがなぁ。手鎖だの辛ぇ事実ばっかり突き付けられてよ。あれぁ、俺のせいでもあるが。世知辛ぇよなぁ」


 重三郎が、物憂げな顔をする。


「手鎖は蔦重さんのせいじゃぁねぇだろ。娯楽ばっかりが悪ぃみてぇに取り締まられんのは、理不尽だぜ。伝蔵も、兄ぃもさ」


 美人の大首絵が人気になって以来、錦絵に遊女以外の名入が禁止された。歌麿自身が取り締まられたわけではないが、鵠的にされたのは明らかだった。

 長喜の『高島おひさ』も平素なら書き込む名を入れていない。前に出した歌麿の絵に寄せて描き、衆人に気付かせる仕組みだ。真似の嫌いな歌麿も、文句は付けなかった。


「出る杭は打たれるもんだ。人気がある証でもあるがな。妬心ならまだしも、御公儀が口を出すのは、お門違いもいいところだ。俺ぁ、それが許せねぇのよ。倹約令なんざ、意味がねぇ。衆人は娯楽を欲していんだ」


 松平定信は昨年の夏に失脚し、幕閣を退いた。その後も、定信の政を継ぐ老中が多く残っている。大老の松平信明を筆頭とする定信派の幕閣は「寛政の遺老」と呼ばれていた。


「だから、東洲斎写楽は痛快だったぜ。豊国、春英、写楽の錦絵を並べて見比べる、なんてぇ楽しみ方が流行ったりしてよ。役者絵は、俺が予見した以上に隆盛した。これから、もっと面白れぇ事体になる。引き続き、宜しく頼むぜ」


 にっと口端を上げて、重三郎が笑んだ。


「そういやぁ、鉄蔵はどうしていんだ? 昨年の暮れに旅に出てから、顔を見ていねぇんだよ。半年くれぇで戻るってぇ話していたが。蔦重さん、知っているけぇ?」


 不意に鉄蔵の顔が浮かんだ。

 写楽の絵で忙しくしていたせいもあるが、噂すら聞かない。


(役者絵が、これほど面白くなっていんのに、黙っている鉄蔵でもねぇよな。まだ戻ってきていねぇのかな)


 鉄蔵は喜乃の絵を知っている。写楽の絵を一度でも見れば、その正体に気が付くはずだ。写楽の絵を持って吾柳庵に乗り込んでくる、くらいは、やりかねない。


 重三郎が、うんざりした顔になった。


「鉄蔵なら、江戸に戻っているぜ。だが、今ぁ、何処に住んでいんのか知らねぇ。時々にぁ、顔を見せるがなぁ。馬琴なら、知っているかもな」


 長喜は首を捻った。


「帰ってきていんなら、安心だが。耕書堂を出たのけぇ。てぇか、なんで馬琴が知っていんだ? あの二人、そねぇに仲が良かったのかぁ」

「馬琴がうちで手代をしていた頃にな。よく鉄蔵の部屋の掃除をしてやっていて、そのまま二人で話し込んでいたぜ。あん頃はもう、お前ぇはお喜乃と吾柳庵に住んでいたから、知らねぇのか」


 馬琴が文句を付けながら、散らかし放題の鉄蔵の部屋を掃除する様が、ありありと頭に浮かんだ。


(二人とも意欲が高ぇから、何のかんのと、話が合うんだろうな。互いに譲らねぇだろうし、最後には喧嘩になるんだろうけどなぁ)


 二人の姿を想像して、苦笑した。


「そのうちに、吾柳庵にも寄るだろうぜ。勝川派を破門されて、今は好きに絵を描いているみてぇだしな。まぁでも、今は、お喜乃や長喜に顔を合わせづれぇのかもな。自分が逃げた役者絵で、お喜乃が大成していんだ。決が悪ぃんだろうよ」


 苦々しい顔で重三郎が茶を啜る。


「いつか、そうなる気ぃはしていたけど、本当に破門されたのか。鉄蔵なら、気落ちするより発憤して絵を描いているだろうな」


 クックと笑みを殺して、長喜も茶を啜った。


「皆、わからねぇ振りをしてくれていんだなぁ。写楽の絵を見りゃぁ、伝蔵や馬琴や鉄蔵は、お喜乃の絵だって気が付くだろうによ」


 喜乃の絵を知る人間は少ない上に、皆、重三郎と友好の間柄だ。言い含めるのは、易いだろう。


「断っとくが、俺ぁ、何も含めちゃぁいねぇぜ。皆、嬉しく思っていんだよ。絵師として仕事するお喜乃を見守っていんだ。事情を知らなくっても、探ったりしねぇさ」


 まるで長喜の心を見透かしたような言葉に、顔を上げる。

 重三郎が、どこか嬉しそうに笑んでいた。

 湯呑の中に映り込んだ長喜の顔も、同じ顔をしていた。


「そうそう、お喜乃に大事な仕事があるんだ。市川門之助が病死したのは、知っているだろ。お喜乃は門之助が贔屓だったし、今更だが、死絵を描いてくれねぇか」


 重三郎が、真面目な顔になった。

 二代目の市川門之助は、夏の興行の後に体調を崩して河原崎座を退座した。その後、板の上には戻れずに、神無月十九日に死去した。河原崎屋の顔見世に行った時、喜乃は泣きながら芝居を観ていた。門之助がいない芝居が寂しかったのだろう。


(いいや、悔しかったのかもなぁ。門之助の芝居を描きてぇと、思っていたろうしな)


 長喜は、筒から二枚の絵を取り出した。


「そんなら、お喜乃はもう描いてんだ。今日は、これも蔦重さんに見てほしくってよ。持って来たんだ。真っ当な死絵とは違うが、これで出してもらえねぇかな」


 重三郎が二枚の絵を、じっと見詰める。瞬きも忘れて、見入っていた。


「享年も戒名も辞世の句もねぇ。確かに、真っ当な死絵じゃぁねぇな。だが、この絵以上に門之助が喜ぶ死絵は、ねぇだろうぜ」


 感得した顔の重三郎が、頷いた。


 喜乃の描いた死絵に、落款以外の文字は入っていない。

 一枚目には、暫の姿の門之助が鬼を捕まえる姿が描かれている。二枚目には、冥府で待つ閻魔に扮した二代目の中島三甫衛門と、助けを待つ女形の中村富十郎が手招きする姿が描かれていた。二枚目の二人は、すでに他界した役者だ。

 喜乃の、門之助に対する強い想いが、絵の隅々まで溢れていた。


「長喜の勧めた練習が、さっそく活かされたなぁ。これぁ、お喜乃が考えて描いた絵だろ? こねぇな芝居は、それこそ黄泉にでも逝かなけりゃぁ、拝めねぇ。いつの間に、描いていたんだ?」

「訃報を知った次の日には仕上がっていたんだが。出すのは顔見世の後にしたいと、お喜乃が聞かなくってな。寝かしといたんだよ。蔦重さんに渡したら、すぐに摺っちまうだろ」


 重三郎が、長喜を睨んだ。


「当たり前ぇだ。こねぇに良く描けた絵を放っておく訳がねぇ。何より、死絵は役者が死んで、すぐに出すもんだろうが。当然、描くと思って待っていたのに、持ってこねぇから催促したってぇのによ。隠してやがったのか」


 長喜は、苦笑した。 


「隠していたんじゃぁねぇよ。顔見世に気を遣ったんだ。それに、お喜乃は門之助の絵を、贔屓の皆に、じっくり見て欲しかったんだ。だから、今が良いと思ったんだろうよ」


 重三郎が舌打ちする。


「面白くねぇが、納得してやるよ。すぐに彫りに廻すぜ。こいつぁ、変わり種の門之助の死絵だ。江戸中の人間が度肝を抜かれるぜ」


 にやりと口端を上げて、重三郎はまた絵に目を落とした。

 重三郎の御満悦な笑みに、長喜は胸を撫でおろした。


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