2.

 ぞくりと、全身が総毛立った。女の死霊の美しさを感じた時とは、全く違う寒気だ。風もないのに、ゆらりと揺れる柳の向こうに、白い影が浮かぶ。

 長喜の表情に気が付いた歌麿が、さっと後ろに下がった。 


「何だぃ? まだ何か、いるのけぇ? あたしにぁ、さっぱり何も見えやしなよ」


 長喜の背に隠れ、きょろきょろと辺りを見回す。暗闇を凝視する長喜は、ごくりと唾を飲み込んだ。

 白い影の膜が剥がれ、浮き上がったのは女の姿だ。腕には、赤子を抱いている。長喜が探していた、妖怪・産女だ。


「取りは最後に現れるってぇのが、定石だもんな。面白尽の読売も馬鹿にゃぁ、できねぇや」


 嬉しそうに鼻を擦って、長喜が産女に向かい、ゆっくりと歩を出す。


「お待ちよ、長喜。あたしを一人にしないどくれ。お前さんと違って、見えもしないし、何も感じや、しないんだからね」


 長喜の背にぴたりと張り付いて、歌麿が蒼い顔をする。怯える歌麿は気にも留めず、長喜は産女に向かい合った。

 緩く結った黒髪を肩に垂らした女が、長喜を振り向く。無造作に落ちた前髪から覗く片目が、長喜に向いた。目が合うと、女が無言で、腕の中の子を差し出した。

 長喜は腕を組み、考え込んだ。


「産女だからなぁ。そりゃぁ、子を抱いてやりてぇが、手が塞がると絵が描けねぇし……」


 ぼそりと呟き、後ろを振り返る。長喜の背に張り付く歌麿を見付けて、にやりと片笑んだ。


「兄ぃ、ちぃと俺に並んで、両の腕を出してくれよ。なぁに、怖ぇもんは、いねぇからよ」


 歌麿は訝しい目で、じっとりと長喜を睨んだ。


「お前さん、今、産女と呟いたね。腕なんぞ出さないよ。あたしぁ、妖に会いに来たんじゃぁなく、女の妖を描くお前さんを見に来たんだ……っひぃいぃ!」


 後ろに引っ込めようとした歌麿の腕が、いつの間にやら前に突き出している。産女が歌麿の腕に、自分の子を抱かせたらしい。長喜の目には、歌麿の腕の中の赤子が、はっきりと見えた。突然、腕に重みを感じた歌麿が、仰天して腰を抜かした。


「転んでも構いやしねぇが、赤子だけは、何があっても落としてくれるなよな、兄ぃ」


 紙の束を掴み、長喜は産女の前に座り込んだ。矢立から筆を取り出して丁寧に墨を含める。


「やっぱり、産女がいたのかぃ! あたしぁ、腕を出しちゃぁ、いないってぇのに。何だって見えもしない、あたしに抱かせたんでぇ」


 見えない重さに耐えながら、歌麿が混乱した声で叫ぶ。長喜は筆先と産女を交互に見やり、声だけを飛ばした。


「そいつぁ俺にも、わからねぇが。落っことすと、二人とも殺されちまう。しっかと抱いといてくれよ。俺ぁ、その間に、絵を描くからよ」


 目の前に立つ産女を凝視しながら、姿を写し取っていく。


「そんな役を、あたしに回すんじゃぁないよ。産女の赤子なら、どんどん重くなるんだろ。あたしは筆より重いもんなんざ、持った例がねぇんだよ」


 愚痴を零しながらも、歌麿は腕に力を込めて、見えない赤子を懸命に抱える。

 長喜の耳には、もう誰の声も音も届かない。只、目の前に立つ悲愴と不気味さを纏った女だけを、見詰めていた。瞬きも忘れるほどに、長喜は産女に見入った。


(さっきの、若い女の死霊からは、悲しい気を感じた。産女は妖怪だから、ぞっとする怖さは、あるが)


 下手を打てば魂を取られかねない危懼はある。それ故の恐怖も感じるが。

 ひたすらに手を動かす長喜を見下ろす、産女の目を見上げる。


(生気がねぇ訳じゃぁねぇ。が、生きた者のする目でもねぇ。妖独特の、不気味さ。これが、美しいんだ) 


 産女の目の中に、人とも死霊とも違う、ぞっとする美しさを感じた。背筋に走った寒気が、痺れに変わる。

 ぞくりとした気這いが、体を走り抜ける。絵が描き進むほどに昂る感情が、恐怖なのか発揚なのか、わからなくなる。


(産女も、美しい女には、違ぇねぇ)


 思うまま一心に、長喜は筆を動かし続けた。

 無言で描き続けた手が、ぴたりと止まる。長喜は自分の絵を、じっと見詰めた。一つ、大きく息を吐く。筆を置くと、立ち上がった。


「ほれさ、出来上がりでぇ。俺ぁ、今宵、あんたを描きに来たんだ。どうでぇ、良い出来だろ?」


 長喜は、産女に絵を翳して見せた。

重さに耐えながら、歌麿が長喜の絵を覗き込む。深い皺を寄せていた眉間が、途端に緩んだ。


「こりゃぁまた、随分と美しい母親の姿だねぇ。胸に抱く赤子も、可愛らしいよ」

絵を、じっと眺めていた産女の口元が、ふぃと綻んだ。

「ひぁあぁ!」


 おかしな悲鳴を上げて、歌麿が後ろに転がった。振り返ると、歌麿が地面に寝そべって尻を擦っている。

 慌てて産女に向き直る。腕の中には、赤子が戻っていた。大事そうに赤子を抱える産女の手には、いつの間にか長喜の絵が握られている。


「今宵の絵は、傑作だぜ。俺が見たあんたを、描いたんだ。気に入って、もらえたけぇ?」


 微笑を湛えた産女が、すぃと手を伸ばす。すぐ近くの橋を指さした。

 堀に架かる短い橋の先に、目を向ける。景色が滲んで揺れていた。


「あすこが、現への出口かね。こいつぁ有難ぇ。ほぅら、兄ぃ。いつまでも転がっていねぇで立っておくれよ」


 歌麿の手を引き、起き上げる。ふらつきながら、歌麿がやっとで立ち上がった。


「あの橋を渡らねぇと、俺らは一生、現の隙間を彷徨うぜ。さっさと行こう」

 よろよろしている歌麿の手を引き、長喜は走り出した。

「ちょぃと、今度は走るのけぇ? 全く、今日は厄日だぜ。長喜なんぞ、尾けてくるんじゃぁなかった」


 ぶつくさと文句を吐く歌麿を抛擲して、長喜は産女に手を振った。


「あんたも、還るべき場所に、早く帰りなぁよ! 柳の下なんざ、夜は冷えるぜ。子をしっかと温めてやりな!」


 橋を渡り切り、歪んだ景色に飛び込む。

堀の反対側は、いつもの本所の町だ。人の声や雑沓が、長喜らを包んだ。

 向こうの柳の木を振り返る。産女の姿は既になく、気這いは消えていた。白い柳が揺れながら、夜の闇に溶け始める。


「依代は、あの柳だったのかねぇ」

「あいたた……。あぁあ、参ったよ。腰は打つし、着物は土塗れだ。その、依代ってぇのは、何なんだぃ?」


 着物の土を払いながら、歌麿がしっかり問い掛けた。どんな情態でも大事な話を聞き逃さないのが、歌麿の流石な性格だ。


「元来は魂の拠所、器を指すんだが。あの柳にぁ、死霊や妖が集まりやすかったんだろうさ。そういうもんが、お江戸にぁ山と、あるんだよ」


 季節から少し遅れた柳の木は、すっかり消えてなくなっていた。


「考えてみりゃぁ、産女も死霊みてぇなもんだ。あんな場所に縛られず、逝くべき場所に逝けたのなら、いいがなぁ」


 長喜は、空を見上げた。満天の星空は、今宵、黄泉に旅立った二つの魂を照らすが如く輝いている。歌麿もまた、星空を見ていた。


「全く、お前さんに関わると、ろくな事体にならねぇなぁ。腕は痛むし、一張羅が台無しだ」


 文句ばかりの歌麿の顔は、言葉とは裏腹に笑んでいる。


「勝手に尾けてきたのは、兄ぃだぜ。それに、喜多川歌麿大先生なら、そねぇな着物より、もっと上等なのを、わんさと持っているだろうにさ」


 クックと笑う長喜をめつけた歌麿が、ふっと表情を和らげた。


「まぁ、いいさ。痛い思いをした甲斐は、あったからね。あたしには見えねぇ幽霊と妖なんざ、最上だぜ。お前ぇさんの描いた絵が、瞼の裏から離れやしねぇ。長喜の絵は、どんな絵も、いつだって、あったけぇなぁ」


 目を瞑った歌麿が、しみじみと感慨に耽る。歌麿の姿を見ていたら、やけに恥ずかしくなった。


「こんな心地じゃぁ、真っ直ぐ帰る気にも、なれやしねぇ。今宵は良い絵を見せてもらったし、礼代わりに一献つけてやろうかね、長喜。勿論、あたしに、付き合ってくれるだろうね?」


 狐目を更に細めて、歌麿が小首を傾げる。有無を言わさぬ威勢の籠った笑みに、ぐっと口を噤んだ。

 笑い顔も仕草も、何をとっても品が良い。常に小綺麗な歌麿は、時々、女のような科を作る。女形のそれとも違う、歌麿独特の佇まいだ。

 歌麿に産女の赤子を抱かせた責が、今更、胸に重く圧し掛かる。苦笑して、長喜は渋々と頷いた。


「俺が兄ぃの誘いを、断れるはずがねぇだろうよ。行きやしょうや、喜多川歌麿大先生様」


 この手の言廻しは、長喜の歌麿への嫌味であり、甘えだ。歌麿もわかっているから、何も言わない。歌麿が満足そうに笑って、長喜を促す。華奢な背に並び立った。

すっかり暮れた宵の町を、二人は、ふらりと歩き出した。






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産女は元々日本の妖怪で、胎に子を宿したまま母子ともに死んでしまった女の死霊が妖怪化したものです。

姑獲鳥は中国から伝来した妖怪で、産女と同一視されるようになったのは鎖国が解けた明治以降でした。理由は「読みが同じだったから」。それだけです。

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