第二章 ぬらりひょんと座敷童

1.

 喜乃が耕書堂の下働きとして居住を始めてから、五月が経った。

 景色に浮き上がって見えた新緑も、いつの間にか色を落とした。枯葉が空風に攫われる庭は、晩秋の匂いが漂い流れる。


 障子戸を開け放ち、文机を庭に向けて、長喜は絵を描いていた。冴えた風に薄ら寒さを感じる。両の足裏を擦り合わせながら、背景の紅葉を仕上げた。


「夏の花火も綺麗だったが、紅葉ってぇのも、風情があるねぇ」


 庭の景色と絵を見比べながら、しみじみと呟く。

 遠くから、鉄蔵の怒鳴り声が響いた。


「お喜乃! 手前ぇ、また俺の部屋ぁ掃除しやがったな! 勝手に入るなと散々注意していんだろうが!」

「掃除が私の仕事だ。だから、片付けた。旦那さんは入っていいと言った。嫌なら、自分でやれ!」


 鉄蔵に負けない喜乃の大声に、長喜は、クックと笑みを零した。


「まぁた、やってやがらぁ」


 下働きを始めてから、喜乃と鉄蔵が喧嘩をしない日はない。


(喧嘩するほど仲が良いというが、毎日よく飽きねぇもんだ)


 初日に筆を折られて以降、鉄蔵は喜乃を警戒してか、大事な代物は文机の上に置くようになった。

 喜乃も、意図して物を壊す振舞いをしなくなった。それどころか、真っ当に下働きに専心している。どうやら、本気で鉄蔵の筆を修繕する気でいるらしい。


(根は、真面目なんだろうなぁ。まぁ、負けず嫌いが勝っているけど)


 初対面こそ獣だった喜乃だが、五月が経ち、耕書堂の面々とも、それなりに上手くやれているようだ。今は、番頭見習の勇助が主に面倒を見ている。


「一度しっかり教えれば覚えるし、同じ間違いをしねぇんです。とても五歳の童女とは、思えねぇ」


 勇助が感心した顔で、喜乃の仕事振りを長喜に零していた。だが、困り顔で長喜に相談に来るのも、屡々だ。仔細は、喜乃の性格だ。気性の荒さと自分を曲げない強さに閉口するのは常だという。


 トタトタと、小さな足音が近付いてきた。


(来たな。今日は、やけに早ぇな。さぁて、どうするかねぇ)


 空を見上げて、微笑む。陽はまだ、南中から少し下がった程度だ。

 開いた障子戸に身を添わせた喜乃が、そっと長喜を覗き込んだ。


「ご苦労さん。俺の部屋を掃除しに来てくれたのけぇ?」


 喜乃が、小さく頷く。長喜は、とぼけた顔で空を眺めた。


「そういやぁ、さっき自分で片しちまったんだぁ。掃除の代わりに、本を取って来てくれねぇか。下の棚の、左端にある本だ」


 台詞めいた言廻しの後に、部屋の奥を指さす。

 素直に頷くと、部屋へ入って行く。言付通りの本を持ってきた喜乃が、表題に見入った。


「その文字が、読めるけぇ?」

「画図百鬼夜行」


 漢字の羅列を、喜乃が、さらりと読み上げた。余程に難しい本でない限り、喜乃は大人と変わらず文字を読む。内容も解している。


(十郎兵衛様あたりに、習っていたのかねぇ)


 教える者があったのは確かだろう。それ以上に、喜乃の聡明さに感心するばかりだ。


「その本はな、俺の師匠が描いた妖怪の絵本だ。気になる項があったら、教えてくれよ」


 喜乃は目を輝かせ、本を開いた。急く気持ちを抑えきれない様子で、項を捲っていく。


(好学っつぅのか。知らないものは何でも知りてぇって目だなぁ)


 本に食らいついく喜乃の姿を、長喜は微笑ましく眺めた。

 重三郎が喜乃に与えた仕事は、水汲みや掃除などの雑務が主だ。時が余れば、各部屋の片付けの手伝いをさせた。耕書堂で働く者や居住する者に馴れさせる深意なのだろう。


 鉄蔵や勇助などを見ていると、重三郎の思惑通りには、なかなかいかない様子だ。だが、長喜と伝蔵には、少しずつ馴染んできた。長喜の部屋に掃除にきた時は決まって、本や絵を見せてやる。聞けば、伝蔵も同じように喜乃に黄表紙などの本を読ませてやっているらしい。


「本に熱中するお喜乃は、驚くほど大人しい」と、伝蔵が笑っていた。

 長喜の元で絵や本に見入る喜乃も、伝蔵の言葉通りだ。


(大人しいってぇか、気の全部が本の中に、いっちまっているんだなぁ、こりゃぁ)


 ぺらぺらと項を捲っていた喜乃の手が、ある項で止まった。


「何か、気になる妖怪が、あったのけぇ?」


 長喜が本を覗き込む。本の上に、人影が落ちた。

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