2.

 仕事をしばし休止させた喜乃が、長喜の部屋にやってきた。鉄蔵を真ん中にして、左右に長喜と伝蔵が並んで座る。鉄蔵が、仰々しく腕を組んでいる。

 真面目な面持ちの三人を前に、喜乃が手を突き、頭を下げた。


「五年前の私の不躾な振舞をお詫び申し上げます。鉄蔵様の筆を修繕させていただきました。どうぞ、お納めください」


 紫の袱紗ふくさを、すっと差し出す。凛とした目が、鉄蔵を見据えた。

十歳になった喜乃は、歳より遥かに大人びていた。


「中身を改めさせてもらう。五年掛けて修繕した労をねぎらうのは、筆を確かめてからだ」


 鉄蔵の隣で、伝蔵の笑い声が漏れる。長喜は、しっと口先に指を立てた。

 喜乃は、ぴくりとも動かず、鉄蔵を見詰めている。

 鉄蔵がゆっくりと袱紗を解く。筆が四本も入っていた。一本は喜乃が折った筆だ。残りの三本は真新しい筆だった。

 鉄蔵が狼狽した。


「三本も余計に用意したのかぇ。だから、五年も掛ったのか? 気張ったなぁ」


 驚く長喜に、喜乃が首を振った。


「始めから、新しい筆と合わせて二本、渡すつもりだった。だから、たくさんお金を貯めていたんだ。まだお金があったから、長喜兄さんと伝蔵さんにも一本ずつ、買ったんだ」


 頬を赤らめて、喜乃が照れたように笑む。筆の柄に、それぞれの名が刻まれていた。

 鉄蔵が長喜と伝蔵に筆を渡す。長喜は筆と喜乃を見比べた。


「長喜兄さんにも伝蔵さんにも、お世話になっているから、お礼がしたかったんだ。受け取ってください」


 喜乃が、ちらりと伝蔵を伺う。伝蔵は喜乃に歩み寄り、頭を撫でた。


「俺ぁ、お前ぇと一緒に本を読んでいただけだぜ。けど、嬉しいなぁ。俺にまで用意してくれるたぁ。ありがとうな。お喜乃は気が利く娘だ」


 喜乃の顔が見る見る赤く染まる。鉄蔵が豪快に笑った。


「こいつぁ、やられたなぁ! お喜乃のほうが一枚、上手うわてだぜ。俺らの謀りが、小さく感じらぁ!」


 鉄蔵が、例の袱紗を喜乃に差し出した。


「お前ぇは、俺との約束を守って、折った筆を修繕した。しかも、新しい筆まで用意しやがった。伝蔵と長喜の分までな。よくやり遂げたな、お喜乃。これは、お前ぇの筆だ。堂々と使え!」


 喜乃が袱紗を解く。桐の箱に自分の名を見付けて、目を見張った。鉄蔵が頷いたのを確かめて、喜乃が箱を開けた。中には真新しい筆が大事に仕舞ってあった。


「これを、私に? この筆を、私が一番に、使っていいの? 鉄蔵が買ってくれたの?」


 筆と鉄蔵を見比べる。


「三人で金を出し合ってな。俺の気に入りの筆師に作らせたんだ。受取りに行ったのは伝蔵だぜ」


 鉄蔵が鼻高に口端を上げる。


「一番も何も、それはお前ぇの筆だ、お喜乃。好きな絵を、たぁんと描きな。廃物になったら、長喜が修繕してくれるとさ」


 伝蔵が、長喜を指さす。


「俺が、か? まぁ、そんぐれぇは、構わねぇが。良い筆を貰ったからな。俺も礼をしねぇとな」


 喜乃の顔が、ぱぁっと明るくなった。


「ありがとう、鉄蔵、伝蔵さん、長喜兄さん。こんなに嬉しい気持ちは、初めてだ。大事に使います」


 筆を胸に抱いて、喜乃が頭を下げる。鉄蔵が、渋い顔をした。


「待て待て、お喜乃。なんで俺だけ鉄蔵なんだ? 鉄蔵さんと呼べよ。不平等だろうが」

「いいや、鉄蔵でいいぜ。さん付けなんざ、体が痒くなる。呼んだって、どうせ振り向きゃしねぇからよ」


 シッシと笑う伝蔵に、鉄蔵が噛み付いた。


「長喜の兄さんは許せるが、手前ぇの伝蔵さんは許せねぇ! 手前ぇも伝蔵でいいだろ」

「よせやぃ、鉄蔵。お喜乃にとって気楽な相手って話だろ。鉄蔵で良いだろうが」


 鉄蔵が長喜に般若のような顔を向ける。

 三人のやり取りを黙って眺めていた喜乃が、声を上げて笑った。


「あは、あははは。鉄蔵さんと呼ぶのは確かに体が痒くなるけど、次は呼んでみるよ。こんなにすてきな筆を、ありがとう。鉄蔵、さん」


 名を呼んだ喜乃の口元が、締まりなく緩む。口元を隠して笑いをこらえた。


「お前ぇ、いつの間にずいぶんと笑うようになったなぁ。知らなかったぜ。いいや、やっぱり鉄蔵で、いい。無理は、すんな」


 毒気を抜かれたように、鉄蔵が素直になった。


(本当に、自然と笑うようになったなぁ。五年前ぇとは、大違いだ。ここは、お喜乃の居所になったのかな)


 長喜は、ひっそりと安堵した。自分にとり心地よい居所を喜乃も同じように感じている今が、愛おしく思えた。

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