3.
暑さに交じって乾いた風が吹き流れる。盂蘭盆もとうに過ぎて、気が付けば文月も末になっていた。
耕書堂の自室で、長喜は目の前に広がるたくさんの読売の山を見比べていた。この数か月で、石燕の描いた中村喜代三郎と思われる絵の目撃数が急に増していた。
「何だって唐突に、こねぇに増えたんだ? 今まで尻尾も見せなかったてぇのに」
しかも、真に逼る内容ばかりだ。左七郎と探し始めた五年前とは、比べ物にならない。
「長喜! また読売が出ていたぜ。昨日、俺が持ってきた根津の幽霊と同じだと、書いてあるぜ」
左七郎が新しい読売を長喜に差し出す。読売には「根津の幽霊、華麗に舞う」と書かれていた。
「またかぇ。根津の幽霊もすっかりお馴染みになったなぁ。また踊るだけで消えるのけぇ?」
左七郎が真面目な面持ちで頷いた。
「決まりだろ。この幽霊が、翁の描いた狂言姿の歌舞伎役者で、間違いねぇだろ。俺らは、やっとあの絵に辿り着いたんだ!」
鼻息荒く息まく左七郎を横目に、長喜は読売に目を落とした。
ここ数か月の間に江戸で噂になっている幽霊は、人に狂言を見せる。道端で、只々、踊り続け、一幕終えると消えるという。無害な上に美しいとあって、幽霊探しをする人も増えていた。しかも現れる場所は決まって根津だ。吾柳庵から近い所ばかりだった。
「今宵、根津を張ってみようぜ。長喜なら一目で翁の絵だとわかるだろ。額に戻す法も知っているだろ。翁に、あの絵を見せてやれるんだ!」
長喜は、頷いた。
「そうだな。じっとしている意味もねぇ、行くか。その前ぇに、吾柳庵に寄って、師匠にも話しておくとしようぜ」
「そう来なくっちゃぁ! やっと取っ捕まえられるんだ! 母上には見せてやれなかったけど、その分も、翁には喜んでもらいてぇ」
左七郎の母親は、三年前に他界した。石燕の絵を探し回っていた左七郎は、危うく臨終を逃すところだった。奔走して探してくれた兄のおかげで、何とか間に合った。
母親は絵の次第より、最期に左七郎に会えた事実に涙を流したという。それ以来、左七郎は絵探しに更に躍起になった。
(見付けるまで諦めねぇ気満々てぇな面だったからなぁ。見付かるのは嬉しいんだが。しかし、何だって今になって……)
「長喜兄さん! 私も探しに行く! 一緒に連れて行って! 私も、師匠の絵が舞う姿を見たいんだ」
庭先で洗濯籠を抱えた喜乃が声を張った。
「ぅわ! お喜乃かよ……。後ろから大声を出したりして、驚かせんなよ。絵探しの談合だと、よくわかったな」
頬を赤らめた左七郎が、喜乃を振り返った。
「左七郎が長喜兄さんの部屋にいる訳なんて、絵の話しかないだろ。声も大きいから、物干しのほうまで聞こえたよ」
呆れる喜乃に、左七郎は口を尖らせた。
「そうかよ。声がでかくって、悪かったな。確かに俺ぁ、絵探し以外に耕書堂に用なんざねぇや。俺だって戯作を書いているんだから、本の一冊も出してくれりゃぁ良いのによ」
左七郎が口の中で、もごもごと愚痴を零す。長喜は喜乃に目を向けた。
「連れて行くのは構わねぇが、仕事は終わるのか? 残っているなら連れて行かねぇぜ」
背筋をしゃっきりと伸ばして、喜乃が気張った顔をした。
「すぐに終わらせる! 少しだけ待っていて! 四半刻で全部、済ますから。置いていったら、許さないからね!」
言うが早いか、喜乃が走り去った。
(あんまりお喜乃を外に出すなと、蔦重さんに釘を刺されているが。八丁堀じゃぁねぇし、大丈夫だよな)
妖怪の気に中てられて以来、重三郎は喜乃の外出に気を揉むようになった。喜乃自身も十郎兵衛に、一人で外に出るなと、きつく言付けられているらしい。石燕の元に通う時は必ず長喜が連れ添った。
長喜もまた、十郎兵衛から八丁堀付近に喜乃を近付けないように頼まれていた。
(今に始まった話じゃぁねぇが、相変わらず
知己の友からの忠告を守り、長喜は喜乃に深入りせぬよう気を配っていた。しかし、喜乃と共に過ごす時が増えるほどに、気掛かりも増える。自分なら、喜乃の事情を分かってやれるかもしれない。奢りにも似た感情が頭を擡げてくる。
(必用なら、蔦重さんや十郎兵衛様が、声を掛けてくれんだろ。俺から動くまでもねぇよな)
自分に言い聞かせて、家の中に消えていく喜乃の背中から目を
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