5.

 陽はすっかり陰っていた。薄暗い部屋の中に、行燈に照らされた二人の影が伸びる。十郎兵衛の顔は、穏やかだった。

 十郎兵衛が長喜に向かい、頭を下げた。


「まずは礼を申し上げる。お喜乃様に本気で向き合い、接してくれた次第、誰より儂の心に沁みた。お喜乃様に斯様な居所を与えてくれた長喜殿には、礼をしても、しきれぬ」


 長喜は息を飲んだ。


(お喜乃、様……。やっぱり、お喜乃は十郎兵衛様より身分が高ぇのか。御家の存続のために、命を狙われるくれぇだもんな)


 八年前、喜乃が初めて危険な目に遭った時から、薄々勘付いていた。失望にも似た感情が胸を過る。


「頭を、上げてくだせぇ。居所を作ったのは、俺じゃぁねぇ。お喜乃本人でさぁ。俺は、ただ、隣にいただけだ」


 十郎兵衛が長喜を見詰めた。


「幾度、危険に遭おうと、長喜殿は離れずにお喜乃様の隣にいてくれた。お喜乃様にとり、長喜殿がいる事実が、どれだけ心強かったか。長喜殿は、お喜乃様の心の拠所であった。儂もよく解しておる。お喜乃様から其方を奪う儂の悪行を許してほしい」


 十郎兵衛の顔が苦痛に満ちる。

 喜乃を耕書堂から移す行為が、決して本意ではないと、伝わってくる。


「お喜乃は、御武家の娘でしょう。教えてくだせぇ、お喜乃の身の上を。十郎兵衛様も、俺に話すおつもりで、声を掛けたのでしょうから。俺も、もう逃げんのは、うんざりだ」


 深入りしないが、傍にいる。ずいぶんと滑稽な言訳で、喜乃の事情から逃げ続けてきた。


(関り合いにならねぇか、総てを知るか。お喜乃に対しては、二択しかねぇ。俺の答えは、とっくに決まっていたんだ)


 長喜は十郎兵衛を見据えた。

 十郎兵衛が観念した顔で、頷いた。


「お喜乃様は、蜂須賀家先代当主、大炊頭様の末の姫君だ。母親のお志乃様が卑しい身分の娘であった故に、家老からは認められず、落胤と扱われておる。だが大炊頭様は、お志乃様もお喜乃様も大層、大事に想っておられる。だからこそ、儂にお喜乃様を託された。お喜乃様のお命を守るためだ」


 長喜は愕然とした。

 身分の高い娘だろうと思っていたが、見通しを超えていた。


(こんぐれぇで気後れして、どうする。どんな事情だろうと受け止めるって、腹ぁ括っただろうが)


 気持ちを整え、十郎兵衛に向き直る。


「母親の身分が卑しいってだけで、命を狙われるんですかぃ? 男ならともかく、女のお喜乃なら、跡目争いにも、ならねぇでしょう」


 十郎兵衛が首を振った。


「お喜乃様の母親、お志乃様に因果がある。大炊頭様は城主の時分、身分に関わりなく優れた才を持つ者を登用する策を講じられた。それが御公儀に謀反と映り、糾弾の憂目に遭うた。以来、家老の目が厳しくなったので、極秘の登用を続けた。集った者を隠語で写楽と呼んだ。お志乃様は写楽だった」


 長喜は、はっとした。

 喜乃の母親と思われる影に遭った時、武家風の男衆が「写楽」を探していた。


「写楽は、政を狙いとしない。世を豊かにするため、学問、医学、芸事に優れた者を募った。お志乃様は学があり、芸事に優れ、医術も収めておった。捨子であり、幼少から寺で育った故の教養の深さであった。奥ゆかしく美しいお志乃様を、大炊頭様はお気に召され、側室とされた。御二人の間の御子が、お喜乃様だ」


 何となく納得できた。喜乃の賢さや器用さは母親譲りなのだろう。


「お喜乃様は、お志乃様にそっくりだ。大炊頭様は、甚だしい可愛がりようでな。儂から見ても、本に睦まじい親子であった」


 十郎兵衛が微笑む。長喜も少しだけ安堵の心持になった。


「しかし、幸せは長く続かなんだ。家老の長谷川近江の謀略により、お志乃様が殺された。大炊頭様と写楽に対する見せしめだ。豪胆な大炊頭様も、さすがに消沈された。お喜乃様の身を案じて、儂に御預けになった。その後は、長喜殿も知っての通りだ」


 十郎兵衛の暗い目が俯く。


「母親が、殺された次第を、お喜乃は、知っているんですか。死んだ事実だけでなく、どうして殺されたのかまで、わかっていんですか」


 十郎兵衛が頷く。

 長喜は唇を噛んだ。

 母親が殺され、頼りの父親から離れ、知らぬ場所を転々として、どれだけ不安だったろう。事情を解していたからこそ、恐ろしかったに違いない。


「そねぇな辛ぇ心情で、お喜乃は……。俺ぁ、どうしてもっと早く、知ってやろうとしなかったんだ」


 口惜しさが言葉に滲む。

 十郎兵衛が首を振った。


「知っていようが知るまいが、長喜殿は充分過ぎるほどに、お喜乃様に安堵を与えてくれた。むしろ、何も知らぬ長喜殿が傍らにいてくれた事実が、お喜乃様には心地良かったに違いない。どうか悔やまないでくれ」


 十郎兵衛が微笑んだが、すぐに笑みが消えた。


「城主である阿波守様の命で長谷川近江は御役御免となった。だが、今でも近江の意を継ぐ者はある。彼の者らは、御公儀に、またいつ謀反を疑われるかと恐れておる。奴らにとり、写楽は不安の種だ。中でも、大炊頭様の血を引くお喜乃様は、別格だ。生きる限り、狙われ続ける」


 長喜の顔から、血の気が引いた。


「そねぇな危ねぇ事訳で、お喜乃を耕書堂から出して、大丈夫なんですか。十郎兵衛様の所は、ここより安全なんですか」


 十郎兵衛の苦痛の表情が深まった。


「わからぬ。しかし、耕書堂も今までのように安全とは限らぬ場所になった。全容はわからぬが、此度の重三郎殿への懲罰が、お喜乃様と関わりないとは断言できぬ。越中守様は、大炊頭様を目の敵にしておった。万が一も起こり得る。耕書堂に、今以上の迷惑は掛けられぬ」


 老中首座・松平越中守定信は、倹約令を出した張本人だ。内容を鑑みる限り、喜乃と山東京伝の洒落本への懲罰に関わりがあるとは考え難い。だが、十郎兵衛の懸念も否めない。


(何か、良い案はねぇか。お喜乃が安全で、耕書堂にも害がなく、十郎兵衛様も納得してくださるやり方は、ねぇのか)


 長喜は懸命に知恵を絞った。


「察しておるだろうが、儂も写楽だ。斎藤家の養子となり家督を継いだ。一昨日、地蔵橋から蜂須賀家の江戸屋敷に移るよう御達しがあった。お喜乃様と共に戻れ、とな」


 十郎兵衛の言葉に焦り、体が前にのめった。


「待ってくだせぇ、家老の中に、お喜乃を狙う輩がいるんでしょう? そらぁ、わざわざ危険な場所に行くようなもんだ」


 十郎兵衛が微笑んだ。


「阿波守様は、お喜乃様の異母兄であらせられる。お喜乃様を案じての御指示だ。阿波守様を始め、お喜乃様を守ってくれる者も、大勢いよう」


 十郎兵衛の微笑みは、きっと嘘ではない。だが、手放しに安堵できる顔でもないと、長喜は感じた。十郎兵衛の中にも、一抹の不安はあるはずだ。


(お喜乃は、俺に縋り付いて泣いていたんだ。蜂須賀家に戻りてぇなら、あねぇに泣くはずはねぇ)


 長喜は俯き、膝の上の、両の拳を握った。


「十郎兵衛様、お喜乃を俺に預けちゃぁ、もらえませんか。俺ぁ、お喜乃と一緒に耕書堂を出る。二人で暮らせる場所があるんだ。この通り、頼みます」


 畳に額を擦り付けて頭を下げた。


「長喜殿……。気持ちは有難いが。これ以上、其方にも迷惑は掛けられぬ。お喜乃様と共にいれば、長喜殿を危険に巻き込むやもしれぬ」

「今更、何に巻き込まれようが、構わねぇ! 何の覚悟もなしに話を聞いた訳じゃぁ、ありやせん。お喜乃を泣かせねぇために、あいつが少しも幸せだと思えるために、深入りすると決めたんだ。お願ぇしやす。どうか、お喜乃から心地いい居所を奪わねぇでやってくだせぇ」


 畳に穴が空くのではないかと思う力で、頭を下げる。十郎兵衛が黙っている間も、長喜は頭を下げ続けた。


「本当に、良いのか。長喜殿とて、無事では済まぬやもしれぬ。絵を、描けなくなる事体にも、なるやもしれぬ。命とて、約束できぬのだぞ」


 長喜は頭を下げたまま、頷いた。額が畳に擦れ、音を立てた。


「わかっておりやす。生中の決意じゃぁ、ございやせん。どうか、十郎兵衛様から阿波守様へお話を通してくだせぇ」


 押しつけた額から血の匂いがした。畳が擦れて傷が付いたのだろう。しかし、少しも痛みは感じなかった。


「承知した。儂から阿波守様に願い出よう。長喜殿、本当にすまぬ。いや、恩に着る」


 長喜は、勢いよく顔を上げた。

 十郎兵衛が困った顔で笑んでいた。先ほどの微笑より、遥かに安堵した表情に感じた。


「明後日までには返答を持って耕書堂を訪ねる。それまでは、お喜乃様を外に出さぬよう、心掛けてくれ」

「心得やした。ありがとうごぜぇやす。どうかどうか、宜しくお願ぇ致しやす」


 長喜は、また深々と頭を下げた。血が滲んだ畳には、涙が零れ落ちていた。


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