2.
あの日以来、月岑が度々、吾柳庵を訪ねて来るようになった。写楽の話を聞くのが、余程に楽しいようだ。長喜にしても、鉄蔵や馬琴には、かえってできない話ができて、楽しく感じていた。
初めて会った日こそ、写楽の正体に拘っていた月岑だったが、今は何も聞いてこない。部屋に掛けてある肉筆画の美人が関わっていると、おそらく気付いているのだろう。だが、触れてはこなかった。
じわりと暑さが滲む文政四年皐月朔日(一八二一年五月三十一日)。
長喜は、平素のように文机を庭に向けて置き、絵を描いていた。
文机の上に鏡を置き、自分の顔を識認する。
不意に、庭に目を向けた。
「そういやぁ、お喜乃が初めて耕書堂に来たのも、こんぐれぇの時季だったなぁ」
何気なく呟く。
獣のような眼をした美しい娘との出会いが、総ての始まりだった。
外で草を踏む音がした。足音が近付き、庵の戸が開いた。
「翁、いますかぇ? 今日は土産を持って来ましたぜ。暑くなってきたが、水は飲んでいますかね? 飯を食うのは忘れていねぇでしょうね? 昨晩は、ちゃんと寝ましたかね?」
月岑が、入ってくるなり世話を焼き始めた。
「飲んでいるし、食っているし、寝ているよ。月岑よ、その扱いは爺じゃぁなく、子供のそれだぜ。俺ぁ、そねぇに、しだらねぇ暮らしは、しちゃぁいねぇぞ」
見上げると、月岑がにっかりと笑っていた。
「長喜翁は絵を描き始めると、他は何にもしなくなるでしょうが。絵師ってぇ人間は、皆、そうなので? この前、北斎先生の所に行ったら、部屋の中が驚くほど散らかっていやしたぜ。飲み食いも忘れて、絵に熱中していやしたよ」
鉄蔵の部屋を想像して、得心する。
「あの鉄蔵と、一緒にするねぇ。あいつぁ、昔っから片付けができねぇんだ。蔦重さんの所に居住している時から、部屋の中が汚くってなぁ。伝蔵によく揶揄われていたよ」
月岑が茶を淹れて、握飯を持って来た。
「鉄蔵に伝蔵ってぇのは、北斎先生と京伝先生ですけぇ? 名士ばかりが住んでいたんですねぇ。馬琴先生とも仲が良いし、長喜翁は顔が広いや。で? 今は、何を描いているんです?」
月岑が描きかけの絵を覘き込む。
「手前ぇの絵だよ。美人だ、役者だ、風景だと色々描いてきたが、自分の顔は描いた例がねぇからな。そろそろ描いてもいい頃合いかと、思ったんだよ」
月岑が、吹き出した。
「何だって今更、自分の顔なんです? 肖像を描くのも、練習になるんですけぇ? 自分の顔を描く絵師も多いですよねぇ」
鏡で口の形を確かめながら、応える。
「なるっちゃぁ、なるだろうなぁ。顔の形を探るのに、他人様の顔をじろじろ眺めるよりゃぁ、手前ぇの顔を眺めるほうが、面倒がねぇしな。そんで、月岑。今日は、何しに来たんだ」
鏡から顔を上げると、月岑が困った顔をしていた。
「食べるもんを手土産に持って来たんですよ。どうせ、ろくなもんを食っちゃぁ、いねぇんだろうし。ついでに、生きているか確かめに、ね」
長喜は、乾いた声で笑った。
「詰まらねぇ皮肉を言いやがるなぁ。けどまぁ、そろそろお迎えが来る頃合いだろうからな。間違っちゃぁいねぇや。一先ず、今は生きているぜ」
月岑が小さく息を吐いた。
「やめてくだせぇよ。明日も明後日も生きていてもらわにゃぁ。俺ぁ、翁から、もっと話を聞きてぇんだ。今日は、ちぃと忙しくって、これで帰りますがね。また明日、来ますよ。明日は居座るから、そのつもりで、絵を仕上げといてくだせぇよ」
機嫌よく、月岑が手を振る。
「すまねぇなぁ、月岑。明日は、会えそうもねぇ。人生の最期に色々と話せて、俺ぁ、楽しかったぜ。有難うな」
月岑が真顔になった。だがすぐに、クックと笑う。
「まぁた、同じ話をしていらぁ。前にも、そう話した次の日に、ぴんしゃんして絵を描いていたでしょうに。詰まらねぇ冗談は、翁のほうだ」
決が悪くなり、頭を掻いた。
「あらぁ、絵を描き損じただけでな。虚言を吐いた訳じゃぁねぇんだよ。今日のは本当だな」
「へぃへぃ、わかりやしたよ。それじゃぁ、明日、また来ますよ。絵を描くのもいいが、ちゃぁんと飯を食ってくだせぇよ」
月岑が背を向けて、庵を出ていく。
「本当に、有難うな。浮世絵類考の、それ以外にも、東洲斎写楽の件を、宜しく頼むぜ」
月岑が振り返った。
長喜の顔を眺めていた目が、笑みを消した。
「その件に付いちゃぁ、勿論、心得ていますぜ。俺ぁ、翁の友人だ。約束は、何があっても違えやせんよ。翁、俺ぁ、明日も来るからな」
月岑の念押しに、長喜は頷いた。
戸が閉まり、月岑が帰って行った。
長喜は、また絵に向き合った。
懐から一枚の絵を取り出す。喜乃が最期に描いた、長喜の姿絵だ。
「これに比べりゃぁ、巧くは描けねぇかなぁ。今より、ずっと若ぇしな。ま、爺の今と比べるのも一興、ってな」
小さく零して、長喜は筆を執った。書き残していた口元と体を描き込む。座した姿は、今の歳相応に落ち着いて描けた。
息を吐いて、筆を置く。
自分で描いた絵の隣に、喜乃の絵を並べた。
「やっぱり、歳をとったなぁ。お喜乃が描いてくれた絵の歳から、二十五年も経っているんだ。当然だよな」
ふわり、と背後から柔らかな風が吹いた。
「そうね。長喜兄さん、とてもお爺さんになったわ。けど、あんまり変わっていないと思う」
振り返ると、喜乃が立っていた。
壁に掛けてある肉筆画から、人の姿が抜けている。
「よぉ、お喜乃。久しいなぁ。あの絵は依代になったけぇ? よく描けているだろう」
喜乃が自分の姿を眺めて、頷いた。
「とても綺麗に描いてもらえて、嬉しいよ。他にも、たくさんの私を描いてくれて、ありがとう。長喜兄さん、ようやく自分の絵が描けたのね。これなら、道標になるね。やっと迎えに来られたわ」
喜乃が部屋の中から庭を見回した。
「吾柳庵、懐かしいな。ここで暮らした日々は、幸せだったもの。私がいなくなっても、兄さんは吾柳庵に住み続けてくれたのね。約束通り、長生きもしてくれた。私がいない二十五年は、楽しかった?」
喜乃が長喜の隣に座す。
「そうだなぁ。それなりに楽しかったよ。ずっと、ここに住んでいた訳じゃぁなくってな。伝馬町で家主なんかもしていたんだぜ。けど結局、戻ってきて、ここで絵を描いていた。吾柳庵が、一番落ち着いて絵を描ける。ここが俺の居所なんだろうぜ」
喜乃が笑みを湛えて頷く。
「お嫁さんは貰わなかったの? ずっと一人だったの? もしかして、私に気を遣った?」
長喜は、ぽりぽりと頭を掻いた。
「いいや、一人、貰ったよ。けど、流行病で一年も一緒にいられなかった。蔦重さんや歌麿兄ぃや伝蔵、それに十郎兵衛様も、先に逝っちまった。悲しくって寂しかったよ」
喜乃が安堵の表情をした。
「良かった。長喜兄さん、私に気を遣って、ずっと一人でいたら、どうしようかと思っていたの。けど、先に逝ってしまったのは、辛かったね」
喜乃が悲しそうに眼を伏せる。
「嬉しい話も、たくさんあるぜ。鉄蔵が挿絵から大成してよ。今や、北斎大先生だ。馬琴なんざ、寵子の作家だぜ。南総里見八犬伝てぇ大作を書き続けていてよ。あの姫様は、お喜乃を想定して書いている気ぃがするなぁ」
長喜の横顔を眺めていた喜乃が、微笑む。
「皆、自分の道を切り開いたのね。長喜兄さんは? 絵は、悔いなく描けた? 楽しく、描けた?」
長喜は、しばし考えた。
「楽しかったが、苦しかったなぁ。けど、やっぱり、描くのを止められなかったよ。悔いは、ねぇとも言い切れねぇが。続きは黄泉で、お喜乃と描きてぇな。お喜乃がいねぇ二十五年より、お喜乃と過ごした十二年間のほうが、俺にとっちゃぁ、濃くって鮮やかで、輝いて感じたよ。あの十二年は、別格だった」
喜乃が、にっこりと笑う。立ち上がると、手を差し出した。
「もう、逝ける? 心残りは、ない?」
喜乃の手に、手を伸ばす。
「最後の気掛かりは、月岑が引き受けてくれた。俺の、この世での務めは、終わりだ。心残りは、ねぇよ。お喜乃が迎えに来てくれたしな」
喜乃の手を、しっかりと握る。
立ち上がり、喜乃と向かい合う。額を合わせて、二人で笑った。
長喜の描いた自分の肖像が、舞い上がる。青い灯になり、道を示した。
二人の体が、浮かび上がる。
「逝こう、長喜兄さん。黄泉で師匠とたくさん絵の練習をしたのよ。歌麿兄さんとは、絵の勝負ばっかりしているわ。今でも、私の絵に文句を付けるのよ。私は兄さんのようには描きません、って喧嘩しているわ」
長喜は、クックと笑った。
「何でぇ、やっぱり喧嘩しているのけぇ。兄ぃは、お喜乃に噛み付いてほしかったんだ。きっと喜んで、勝負に挑んでいるぜ」
足下に自分の体が見えた。座したまま、眠るように目を閉じている。
「俺ぁ、死んだんだなぁ。現を写すのは、楽しかったな。黄泉でも楽しく、絵を描けるといいなぁ。一緒に描こうな、お喜乃」
喜乃の手を強く握り、顔を上げる。青い灯を見失わないように、追いかけた。
目の前に薄い白が広がっていく。まるで、何も描かれていない真っ白な紙のようだった。
次第に意識が白む。長喜は安堵した心持で、空に吸い込まれていった。
鎮魂の絵師 霞花怜(Ray Kasuga) @nagashima
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