第13話 啜り泣きブルース
ド ド ド ド ド。
演奏は突如にして始まった。
オーシャンノベルはレコード放送だけでなく、生演奏も行なっているようだ。
にしてもこれは——。
僕はもしかしたら、とんでもないものを目の当たりにしているのかもしれない。
ピアノソロ。独奏。独善的に。独裁質な。独々、特々。心臓を叩く。
連なるピアノの音律が、神経系を台無しにしていく。
フェスタと大切な話をしていたはずなのに。もうそんなのどうでも良くなってしまうくらい、音は僕の衝撃だった。
店内の端、とても小さなステージ上をスポットライトが照らす。たった一人のピアニストに焦点が定まる。
ド ド ド ド ド。
音の一粒一粒が肌をざわめかせる。情緒の濁流が息苦しい。そばに立つと疑問が濃霧となってまとわりつくのだ。
なんだこの演奏は。なんだこの音楽性は。
迫力があるわけでも、特別メロディが高難度なわけでもない。ただどうしようもなく『泣き声』なのだ。
僕には演奏が啜り泣く少女の吐息にきこえてならない。
号哭まではいかない、懸命に、漏れ出さないようにと。悪露をぐっと噛み締める、幼子の嗚咽だ。
「ジャンルは、『ブルース』になるんやろうか……」
あの寒色を無視できない。
人が人として産まれてきたからには、耳を塞ぐことの許されない律。暴力的なまでの、感情の露出。
聞き手はただ枠外におかれ、困惑に打ちひしがれる他なく。
「すっげ。あいつ、なんちゅー演奏しよるんや」
だから先に音が来た。
ランちゃんの言葉を受けて、僕はようやく演奏者である彼を認識した。
歳の頃はなんと僕らと変わらない。せいぜい産まれて十数の命。だが生き様は、ありありと別条だった。
しなやかな両の手が、鍵盤を撫でるように打鍵する。目を瞑り、内実を曝け出すみたいに、苦しそうに身を揺らす。
ド ド ド ド ド。
遠目からでも伝わる長いまつ毛が、切れ長の瞳を隠す。
あまりにも白く澄んだ肌なので、熱演の興奮で赤らみ熟れている。彼の艶やかさはテテにも迫る。
あえて陳腐で下劣で的確な表現をする。
「エロい……」
恐ろしいほどの美少年だ。悍ましいほどの理想像が、人目もはばからず滂沱の涙を流し、自己を表現している。
パフォーマンスといわれればそこまでなのかもしれない。
僕は涙に共感してやれないから、本当のところはわかっちゃいない。
けれど、けれども。
真に思う貴方だから、こんなにも素晴らしい曲を演奏できているんだろ?
モヤモヤの正体がわかった。
僕は心底、あの子のことが羨ましいのだ。
世界で一番自分が不幸だと言わんばかりに、悲しめるあの子のことが。
「あいつ、百パーアドリブやでな。バケモンやろ……」
「神戸はジャズの街だからね。時折産まれるんだよ、天才が」
これがジャズ。これぞジャズ。
ちょっと、好きかも……。
困惑は開花し、咲き乱れる。
ランちゃんすら慄かせた演奏は、少しの物足りなさを残しつつも幕を閉じ、良い余韻を観衆に与えた。
拍手は意外にもまばらだった。
今見たものの正体を判断しかねているのだ。
少年はそそくさとステージを後にした。
「あれほどのものだよ。もう少し集客できてもよさそうだけれど」
「小学生を公に働かせるのには面倒な手続きがいる。彼の演奏はあくまでクローズドなものだ」
「嘘つき。本音は?」
「アレを世界に見つけて欲しくない。成熟するまでを独り占めにしたい」
あは。わかっちゃうな〜、フェスタの変態性。
もう一度聞きたい。何度だって感じたい。
僕にしては珍しく焦燥に駆られていた。
頭ん中でずっとピアノが鳴っていて、その後の会話はよく覚えていない。
気づいた頃には、新たな住処に案内されていた。
『オーシャンノベル』含むこのビルは、フェスタ所有のものらしく。一部フロアが居住スペースになっていた。今日からそこに住めと鍵を渡されたのだ。
ランちゃんとワクワク気分、トントン拍子で階段を登っていく。
テテと出会ってからというもの、ずっと思っていたことがある。
一件落着。一時の余暇。あるいは、予感。
こうした平穏な時に限って、物語がガラリと転調するのだ。
まるで仕組まれているみたいに。ピアノの鍵盤を叩きつけるように。ガチャリと。
扉を開いた先——。
「おう、お前、ここにすんどんかいな」
「え?」
いた。先程のピアニストが。全裸で。
おそらくお風呂上がりなのだろう。
「あはは!」
僕はゲラゲラと笑い。
「だ、だれ、あなたたち」
ピアニストはポロポロと泣き始めた。
泣き虫さんなんだね。
でも大変だ。そんな顔をしていると——。
「男のくせに、メソメソ泣いてんじゃねえ!!」
ほらみたことか。ランちゃんがピアニスト君の顔面を殴打した。
ドカン!
彼はとても弱い子なようで、ランちゃんの一撃ごときで伸びてしまった。美しい裸体が倒れ、哀れな姿だ。
ふむ。
病的に痩せているのは気になるが、背丈は僕よりずっと高い。
驚くほどに長い指先。
見るものを釘付けにする美貌。
触れれば壊れそう、庇護欲をそそらせる繊細な肢体。
圧倒的だ。
絶対的な才能の偏角を肌で感じる。
っておい。僕は何をじろじろと観察しているのだ。しかも少年の裸体を。つっこむべきは他にあるだろ。
「あーあ、やっちゃったね。君ってやつはいつもいつもそうやって。嫌われちゃうよ?」
「みだれのときはうまくいったやん。仲良くなれたやん!?」
「あちゃー、僕が成功体験だったわけか」
ならば僕のせいで彼が殴られたとも言える。
責任は取らなくちゃ。
このまま放置するわけにはいかないと、彼を抱えたとき、ふと、あることに気づく。
「ん、まてよ」
「みだれ、お前も気づいたみたいやな。そいつ、お風呂上がりやのうて、『お風呂前』や。体が濡れていない、髪が乾いている。まぁこれらは乾燥したってことも考えられる。おかしいんは、ピアノの演奏くらいで熱っていたこいつが、今は真っ白肌や。みだれも触れて気づいたんやろ? 体が冷たいって。つまりこいつは、今から風呂に入ろうとしていたところや」
いや、全然違う。
僕が気づいたのはランちゃん、君の真意だ。
ランちゃんはこの子を殴った。
それを咎めると、『みだれのときはうまく行った』と発言した。
つまりランちゃんは、『少年と仲良くなろう』としたわけだ。
『人見知り』なランちゃんを行動させるほどの。この少年は、僕たちの特別になれるかもしれない。
「やから一緒にお風呂入れたろ?」
「いいね」
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