第28話 1220mmのモノクロな世界
きぃの家系は代々音楽家を生業としており、特に父の才能は抜きん出ていた。
あらゆる楽器を使いこなすゼネラリストであり、育成のスペシャリストであり、なおも異彩を放つソリストであった。
父は良くも悪くも音楽が全ての人だった。
ピアノしか芸のないきぃとは違い、父は本物のプロ音楽家だ。ひとたび演奏すれば世の賞賛を欲しいままにし、メディアへの出演依頼も引っ張りだこ。やがて自身が長をつとめる楽団さえ立ち上げ、マエストロとして躍進した。
一点の陰りもないような経歴だが、家族だけは歪な真相を知っている。
作曲の才能がない。
父は本業の傍ら作曲活動も行っていたのだが、てんで日の目を浴びることがなく。遺されたビデオテープをいくつか聴いたが、クラシック音楽の王道な曲調を踏襲してはいるものの、目新しさは感じられず。お世辞にも惹かれる要素はなかった。
いつだったか、評論家から手紙が届いたことがある。そこには『歯医者で流れているBGMかと思った』と綴られていた。読んだ父はひどく荒み、ビリビリに手紙を破いていた。
父は匿名で活動していた。一流奏者というバイアスを省くためか、名声に泥を塗るのを避けたかったのか。今となっては分からないが、結果、父の凡才が周知されることはなく。
だからだろう、鬱憤の発露は外でなく家庭へ向いた。
美しいだけの母は赤子を身ごもるための道具にされ。
常人の枠組みから飛び出せなかった姉弟達は、毎日手ひどく殴られていた。ストレスの捌け口であるのは火を見るよりも明らかだった。
きぃだけが例外だ。ピアノの才を父に認められ、溺愛された。レッスンこそ厳しかったものの、暴力はおろか、口汚く罵られたことすらない。一族の中できぃだけが浮いた存在だった。
なので姉弟たちはみなきぃを妬み、嫉み、迫害した。母は自分のことで手一杯なため助けてくれない。
産まれたときからきぃの居場所はピアノの前だけで、だから父に依存した。
いつしか父に認められることが、きぃの生きる理由になった。
父に褒められるためだけに、血がにじむような努力をした。
演奏が上達するほど、『明日も生きていていい』と言われた気がして。その言葉だけが欲しかった。
いつでも死んじゃえる脆弱な心音は、無味乾燥な許しを乞うた。錯覚だと分かっていても、ねつ造した救いに縋った。
ただ父に撫でられても嬉しくなんかない。本心ではろくでなしだとわかっていたのだ。
みんな嫌いだ。
自己の至らなさにかこつけて、きぃを虐めてくる姉弟も。
一度も抱きしめてくれたことのない、女であるだけの母も。
自分一人を特別扱いする父も。
世界も。
壊れてしまえ。鍵盤を殴りつけるみたいに。
——転調。
朝起きて、リビングに出ると、家族全員、一人残らず殺されていた。
父は椅子に腰掛け、自ら包丁で首を掻き切っていた。
なれはてた骸をみて悟る。
父が家族を殺したのだ。
家族は細かく寸分され、床に理路整然と並べられていた。
第一発見者だったきぃはすぐに気がつく。
バラされた死体は楽譜を意味していると。
父は家族を分解し、小腸で五線譜を描いたのだ。
指や内臓で音符を作り、髪と骨で調合を打った。細かな記号は血で記していた。
楽譜はピアノの独奏曲であり、かつきぃのためのものであると理解したとき、父の真意に気がついた。
なぜ父がきぃを特別視したのか。なぜきぃだけを厳しく鍛えあげたのか。
全ては父が作曲した死屍累々を、きぃに演奏させるためだ。息子なんかじゃない。ピアニストとしての役割のみを彼は求めた。
死体が楽譜であることは、見るものが見ればすぐに気がつくだろう。マスコミを通し、家族全員を利用した作曲が世間へ広く周知されれば、またたくまに父の音楽は注目を集める。
きぃが期待通りの演奏をすれば、父は作曲家としての評価を盤石のものにし、忸怩たる劣等に終止符が打たれる。
きぃは愛されていたわけじゃない。
きぃは思惑に利用されたのだ。
父は最後まで曲を完成させていなかった。
ちょうどきぃ一人分、小節を残して自殺していた。
身勝手にもきぃに曲の完成を押し付けたのだ。
結局のところ、父に作曲の才能はなかったということだろう。
きぃは警察が来る前に曲を暗譜して、家族を解読不可能になるまで崩した。それがきぃにできた唯一の抵抗で。初めての反抗だ。
父はきぃの理由だった。
曲を完成させるまで、だからきぃは死ねないのだ。
これがきぃの全容。たった1220mmのモノクロな人生。
こんなこと、拾ってくれたフェスタにすら話したことがない。気色の悪い原理を語って、悪感情を向けられるのが怖かった。
今も緊張して吐きそうだ。
花咲はどんな反応を示す?
「どうだろう。意外と曲自体は完成していたのかも。きぃのお父さんは、きぃのことを大切にしていたそうだから。完成よりもきぃの命を優先したんじゃないの? 普通に殺すのが嫌だったんじゃないの? その気持ち、わかるよ。僕もきぃが大好きだから」
「おどろいた。花咲は本当にポジティブなんだな」
そんな捉え方があるとは。
まぁ、どちらにせよ嫌いなことに変わりはない。
一方で、家族を憎むことがどれだけ不幸なことなのかも知っている。
「僕はハッピーなやつだから。きぃが一緒にいてくれると、みだれは幸せ」
きぃがポロポロ泣いていると、花咲にぺろっと舐められた。
「へぇ、涙ってこんな味なんだ」
呆然としてる間に船は港に到着した。
どうしていいか分からず、海風を浴びて呆けていると、花咲が急に立ち上がった。
「ねぇきぃ、このまま遊ぼっか! 夜更かししちゃおう!」
唐突に手を伸ばされたものだから、ついとってしまった。
引き寄せられて、かけだして。
そこからはもう、止まることができなかった。
観覧車に乗って、他愛もないことを話した。
映画のレイトショーを観て、あまりに泣いた。
クレープに齧り付いて、バカみたいな甘さに驚いた。
補導時間になると、警察官に追われもした。
とびきりなのは、大手重工会社のドックに侵入して、潜水艦の上に飛び乗ったことだ。
すぐに見つけられて、凄まじい怒号で叱られて、思わず海に飛び込み逃げて。
あれは一生忘れないな。
二人でいろんなところを朝になるで回った。
はしゃいで、暴れて、駆けずり、踊った。
一度も幸せなんて感じたことのないきぃだけれど。
この日は一番、心が穏やかだった。
夜は静かだ。
花咲の吐息と、凪ぐ心音だけが心地いい。
彼と一緒なら、きぃみたいなやつだって、案外生きていけるのかもしれない。
ほんの小さな感慨を胸に、明日へ向け歩む。
曇天の合間から朝焼けが差し込む。世界は色付き、美しくかすみがかっていた。
涙は出なかった。いつぶりのことだろう、呼吸が楽だ。
「産まれてきてよかった」
その後、きぃは死んだ。
ビルから飛び降りて、自殺した。
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