第29話 孤虫のなみだ
いまだ人類が成虫の姿を観測できていない幼虫のことを、『孤虫』と表現することがある。
孤虫は主に寄生虫の形態を指しており、最終宿主に辿りつかないまま、中間宿主を死に至らしめる害悪の呼称だ。
きぃは孤虫によく似ている。
親に寄生し、社会に寄生し、そのくせ何も産みださない堕落した精神は、成長することもなく。未熟なまま死んでいく。この世で最も醜い魂の形。
きぃは大人になった自分の姿を想像できない。
する必要もない。
どうせ今から死ぬからだ。
きぃは先ほど、奴に祈られた。
祝福は正しく作用し、きぃを自殺へと導く。
きぃはついに父の曲を完成させたのだ。
もうきぃに、生きる理由はない。
ビルの屋上、へりに立つ。
「なんて題にしようか」
テーマはわかり切っている。
自ら命を断ち、大人になることのできなかった子どもたち。その嘆き、悲しみ、絶望の譜だ。
この曲はきぃが自殺して初めて完成する。
だから父はきぃを殺さなかった。殺せなかった。
飛び降りる。
感慨はない。ずっと望んでいたことだ。
風が強い。目が乾くなんて初めてのことだ。
瞼を閉じる。暗がりに花咲の顔がチラついた。
もし自分に翼が生えていたのなら。
そんな希望は涙と共に流れていく。
きぃたちは羽化できなかった、あわれなだけの。
「孤虫のなみだ」
*****
きぃは自殺した。
死の直前、彼は一冊のノートを残した。
警察はもちろん回収したのだが、フェスタを前に厳重な管理は意味をなさず。消失推理によって内容は把握してある。
フェスタはこれを別紙に書き写したのだが、途中、彼は何度も息を詰まらせていた。
遺書は一曲の楽譜であった。
きぃの父が残した未完成の大作。彼はついに完成させたのだ。
だからこそ、心置きなく飛び降りることができた。後悔はなかったはずだ。
「でも、一言くらい欲しかったな」
悲しみはない。涙も当然。
僕の人生が、多少つまらなくなっただけだ。
むしろお別れが急すぎて、おかしくて。
ほんのちょっと、声にならないくらいの小さな微笑み。
「こんな曲、並大抵の精神では書けない。どれほどの絶望が彼を満たしたというのか。みだれ君、きぃ君と最後に接していたのは君だ。何か変わった様子はあったかい?」
「朝まで遊んで、へろへろになった僕は寝ちゃったんだ。埠頭のベンチで、彼の膝を枕にして。頭を撫でてもらえた。とても心地がよかった。快眠だったよ。起きたらもういなくなっていた」
「きぃ君が担当したパートは絶望の死に様だ。君の言うような微笑ましい一幕で、悲劇のインスピレーションが得られるとは考えずらい」
つまり僕が呑気に寝ている間に、何かがあったのだ。
立ち上がった彼は唱える。
「消失推理、
おそらくフェスタの祝福だろう。
今件の犯人を導き出すことに成功したようだ。
だがすぐには答えなかった。目に見えて動揺していたのだ。
しばらくして、覚悟を定めたような面持ちで僕に向き直る。
「みだれ君。今回の敵は生半可なものじゃない。未だ世界で5体しか確認されていない、最上の熾天使。星5、その一翼。大天使『祈り手』だ」
フェスタは僕へ祈り手の情報を伝えた。金銭は要求されなかった。
なぜならきぃがすでに支払い終えていたからだ。
彼が購入した百万円の情報、その正体こそ祈り手である。
「祈り手は神戸を拠点とするカルト教団の教主だ。信者の数こそ数百人と中規模だが、信奉心は非常に厚い。祈り手の絶大な祝福が所以だろう」
大天使の祝福。つまりは『幸せタッチ』と同位の御業。
「『幸せの合掌』。祈るように合わせられた両の手は、信者に祝福をもたらす。能力はいたってシンプルだ。『対象の幸福を累乗』する」
対象が抱く幸せ値を、何倍にも増大させる。
まさに大天使にふさわしき異能だ。
「みだれ君。『幸せの合掌』、真に恐ろしき点は——」
「いいよ、言わなくて。分かっているから。それよりも早く出発したい」
僕なら勝てる。確信があった。
「一人で行くのか?」
「ランちゃんは対ホームレス天使戦で忙しいし。フェスタがいたら警戒される」
「復讐のためか?」
「なぜ? きぃは曲を完成させて、自分の意思で死んだんだよ。祈り手じゃない。全て当人の責任なんだ。第三者がとやかく言う筋合いはない」
強いて言うのなら。
「僕の幸せのためかな」
僕の人生にはきぃが必要だった。
きぃは得心がついたから死んだのだろう。
だとしても。僕はきぃに、不満なまま生きていて欲しかった。涙を流しながらでもそばにいて欲しかった。
きぃのためでなく。より豊かな僕の人生のために。
損なわれた幸福を埋めるには、相応の代償がいる。
大天使を堕とす。
なかなか刺激的な遊びになりそうじゃないか。
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