第27話 一人だったら泣いていた
花咲と夜の埠頭を歩く。海と排気ガスの匂いが混ざって臭い。ネオンは夜空から星の煌めきを奪い、燦々と騒いでいる。
神戸の夜は煩雑だ。テトラポット群のように入り組んでいて、きぃの激情を、知ったこっちゃないと弾き返す。ともすれば行き場の失った憤りは涙として表出される。
一人だったら泣いていた。
いまは彼がいる。
手のひらがじんと熱い。ピアノの鍵盤ばかりを感じてきた指先に、彼の温度が伝わってくる。
花咲はきぃとの逢瀬が心底楽しいようで、破顔し、軽快な足取りで歩を進めている。
わからない。なぜ喜んでいる?
きぃは今だって、『いつかは終わる関係性』を儚んでいるくらいなのに。
感情ベースで生きてきたきぃたちだ。二律背反する在り方が、手を取り合えるとはとても思えない。
どうせ君も、いつかきぃから離れていく。
「我ながら卑屈だな」
付き合った瞬間、やがてくる『別れ』を悲しむような。あるいは産まれた刹那、最期には『死んでしまう』と涙するほどの。ほとほとせんなき愚考だが、脳は至って正常に壊れている。
ネガティブなのだ。
きぃは産まれてこのかた、喜びや幸せといった感情を覚えた試しがない。知らないと言った方が正しいだろう。
健常者を羨ましいとは思わない。
ピアニストが、腕が四本生えていないことに不満を述べるようなものだ。
きぃにとって絶望とは、鼓動のように当たり前に働く機構であり。自身で制御すること叶わない。
止めたければ、死ぬしかない。
別に不満はない。
悲しみだって胸の内を満たしてくれると、きぃはちゃんと知っているから。
「血と涙は同じ成分で出来ているらしいよ。つまりきぃは大量出血! 心も同じだよ。血を流さないと、かさぶたで傷口が塞がらない。だからきぃは泣き虫さんなんだね」
返答はしない。一人楽しそうに話し続ける花咲。
きぃは彼のことが嫌いだった。
初めこそ強烈な個性の持ち主であるクネヒトの、金魚の糞程度に思っていた。
認識を改めたのは、結婚を前提としたお付き合いを申し込まれたときだ。こいつは頭がおかしいと瞬時に理解した。
告白されること自体はめずらしくない。
自分で言うのもなんだが、きぃは人より優れた容姿をもつそう。それが原因で女性に好意を寄せられることが度々あった。だがすぐにきぃの欠落に気づき、皆自ずと離れていった。
なのに、なのにだ。
花咲はきぃが拒絶したと言うのに、離れるどころか、よほど詰め寄ってきた。
四六時中付きまとい、きぃに演奏をせがんでくる。
ファンであることにかこつけて、狂信的な熱視線を送ってくる。
家にいるときも、きぃは人と話すことが苦手なのに、お構いなしに語りかけてきて。
無視や拒絶は効果がなかった。彼は度を越してポジティブだから、一切の攻撃が通用しない。
むしろ、『やられたら嫌なこと』をする罪悪感で、きぃのほう参ってしまった。
無駄に泣きたくないから、なし崩し的にきぃと花咲は打ち解けていった。
それでいいじゃないか。
きぃは現状に満足していた。アンバランスな土台の上に片足立ちする関係値で十分だった。
なのにどうして君は。
今更、花咲の道理で跳ねないで……。
崩れてしまう。
「嬉しいなぁ、僕の初めての恋人だよ」
「認めた覚えはない……」
なぜ恋人なんだ。
友達になれないのはわかる。クネヒトとの約束があるとのことだ。勝手にすればいい。
だからきぃは『仲間』と呼び方を変えた。
それではダメなのか? 何が不満なんだ?
「僕はきぃのピアノに惚れたのです。君の奏でる音が僕の心をくすぐるんだ。手放したくない」
なるほど。花咲は『別れる』ことを前提としていないから、より強固な絆をきぃと結ぼうとしているわけか。
「花咲の恋愛観など知るよしもないが、そもそもの話、きぃたちは男同士だろ。結婚はできない」
「あら、偏見がおありで? 今どき男同士なんて珍しくもないでしょ。君は差別主義者なのかい?」
言ってくれる。こちらは法律の話をしたまでだ。
レイシズムなど断じてありえない。きぃは己が真なる意味で平等主義者であると自負している。
「きぃは同性愛者を差別しない。きぃは障害者を区別しない。肌の色で識別しないし、ルックスで分別しない。身分職柄で軽蔑しないし、人格を侮蔑しない。きぃは諸事万端の偏見と告別している」
「なら、どうして他人を拒絶するの?」
「きぃは平等に人のことが嫌いなんだ」
「かっくいい」
他人だけじゃない。自分自身含めて等しく嫌悪の対象だ。
「ねぇねぇ。きぃは僕のことも嫌いなの?」
「もちろん。特段に憎んでいる」
クネヒトはまだわかりやすい。性格はとことん合わないし、意見もつくづく通じない。そこは両者了解しているからこそ、音楽という一貫したテーマだけで通じ合っている。
だが、花咲に関しては破格だった。
共感できる要素が何一つない。
天地よりも大きな虚構が二人を隔てている。
歩み寄ろうとするたび、彼岸との距離に絶望する。
「えへへ、愛憎渦巻くってやつだ。うれしいね」
「どういった思考回路をしているんだ?」
いつもこうだ。花咲の個性に圧倒されて、きぃのほうが折れてしまう。彼もわかっているから、ぐっと歩幅を寄せてくる。今夜はやや強引だ。
「僕はきぃが大好きなのです」
「うざったい。なのにどうにも、この手を離す気になれない」
断じて恋人と認めるつもりはないが、手放すには惜しいと思ってしまう自分がいる。
こんなにも他人に執着されるのは、初めての経験だから、きぃ自身も戸惑っている。
「このまま、僕と駆け落ちしちゃおうか」
「帰るのが遅くなるよ」
「大丈夫。夜遊びにドキドキできる、僕たちは悪い子だ」
花咲がいつもの調子で茶化すから、身の震えは潮風と共に霧散した。
初めての男相手は怖かったし痛かった。
抵抗できない圧迫感と、支配される劣等意識に狂いそうだった。
思い出しただけで死にたくなる。
花咲がそばにいてくれなかったらと思うと、身の毛がよだつ。彼の底抜けな笑顔は、ただあるだけできぃのしるべとなって行く先を照らす。
絶望している暇さえくれない。
彼が向かったのはハーバーランドの船着場だった。
この日は都合よく遊覧船が出ていて。乗船後、早々に甲板へ出た。
船に乗るのは初めての体験だ。揺れが少し怖かった。フワフワとした浮遊感、いたたまれない夢心地。どうにもゾワゾワする。
いっぽう花咲ははしゃいでいる。涼しい風をめいいっぱいに浴びて。きぃなら立ち竦むほどのドス黒い夜の海を、興味深そうに覗き込んでいる。落ちやしないか勝手にヒヤヒヤした。
しばらくすると揺れにも慣れてきたので、見晴らしのいいベンチに二人で腰掛ける。
「はぁ。全く君は自己中心的だ。きぃの気持ちなどお構いなしに詰めてくる。どうしてそんな奴が、他者を幸せにするための天使なんかになろうとしているんだ?」
「『他人の幸せが、自分の幸せだと思えるような子になりなさい』。両親の教え。素晴らしいよね。そうなれたら、僕は今より倍幸せになれる」
「天使が持つ精神性こそを目指しているわけか。花咲のご両親は偉大だね」
「殺されちゃったけれどね」
「君はそう言うことをさらっと……」
その後きぃは花咲のあらましを聞いた。
残酷な境遇と、笑うことしかできない花咲の精神に同情した。
だからつい、打ち明けてしまった。らしくもなく、弱音を吐いた。いつも一人で泣いていたくせに。
「きぃも同じだ。きぃも家族を殺されたんだ」
「知りたい!!」
彼の瞳はキラキラと輝いていた。
後悔した。
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