第三楽章
第26話 無責任な詞
ランニングから帰ってくると風呂が沸いてある。脱衣所には着替えがあって、入浴している間に洗濯機が回り出す。きぃが気を利かせてくれたのだ。
かわりに僕が朝食をつくってやる。食パンにマヨネーズをふんだんに塗って、オーブンにかけつつ、フライパンで簡単なベーコンエッグをつくる。焼き上がったトーストに乗せれば完成の簡素なレシピだ。
先に食べ終わったほうが部屋の掃除をして、後者は洗い物をする。
そうこうしているうちに自動乾燥が終わるから、ランちゃんのお洋服だけアイロンで皺をのばし、後は個人の引き出しに放り込む。
ランちゃんは今朝から大阪へ出張中のため不在だが、どうせいても何もしない。
家事がひととおり終わると地下へおり、朝っぱらから酒を楽しむバカと合流し、バンドの練習をする。
きぃはヘッドフォンをつけ、電子ピアノで黙々と自主練。僕はフェスタ監修のもとスティックをふる。
腕が暖まったら、激しめのセッションをお腹がすくまで心置きなくやって、午後の練習に望む。店が定休日だと、ランちゃんの気分次第で音は深夜まで鳴る。
ここまでが天職活動自粛期間中の、大まかな一日のスケジュールだ。
練習を終え、部屋へ戻るときぃが椅子に乗っていた。首には縄がかかっている。倒せばそのまま宙ぶらりんだ。
「頼むよ。一思いにやってくれ」
「自殺するの?」
言葉がきっかけになったのか、きぃの涙腺は決壊し、氾濫する。別に驚きはない。見慣れた光景だ。
けれどどうしてか、今日の表情はいつにも増して虚ろに思えた。
三ヶ月も一緒に暮らしたのだから、僕ですら機微に気づけた。何かがあったのだ。
「死ぬのは個人の自由だよ。好きにすればいい。だからこそ、僕の個人的な意見も好き勝手にのべる」
僕は失礼なやつだ。
人の心へ土足で踏み込んで、触れられたくないはずの恥部を晒し者にする。患部を愛撫し、時に逆撫でする。
相手がどれほど苦痛に思おうが、気軽に、おかまいなしに。
「仲間に頼らないと死ぬ勇気もないくせに、どうして仲間に頼って生きてみようとしないの? きぃには僕がいる。悩み事でもなんでも、話せばいいじゃないか」
僕ならどれほどの苦痛にも寄り添えられる。
ランちゃんならどれだけの苦難をも張り倒す。
僕らはきぃのためならなんだってする。
君の音に惚れたのだから。
メロメロなのだ。
「弱虫くん、僕に君を分けておくれよ」
椅子を蹴り倒す。宙吊りになる前に抱き抱える。
ほら、君は死ぬのが怖いから。だから反射する。首から縄を咄嗟に外している。
地面に叩きつけて、馬乗りになる。抵抗してくるが、僕は意外と力持ち。両腕を押さえつけて、首筋を舐めるように嗅ぐ。
「まるで体臭を削ぎ落としたかのように、入念に洗われた石鹸の香り」
きぃは仕事をしている。週に一回か二回、夜中に出かけては、明け方に帰ってくる。
そんな日は決まって、朝なのにお風呂を沸かす。
「前にいちど、君の脱衣を洗濯にかけたことがある。ひどい香水の匂いがした。参観日にめかし込んでくるおばさん達と同じ悪臭だ。君は何の仕事をしている?」
観念したのかきぃは脱力した。
無駄に美しい泣きっ面を、しばらく眺めていると、つらつらと自己を開示し始めた。
「家族が死んで、引き取り手もなかったきぃは孤児院に入れられた。悪い施設ではなかったけれど、そこではピアノが弾けなかった。どころか、音楽性が死んでいた。道楽を続けるには沢山のお金が必要だとそのとき知った」
親の庇護下から外れた僕たちだ。大いに賛同する。
「施設を出て、なに不自由なく暮らし、いくらでもピアノを弾ける環境。手に入れるために、きぃは手っ取り早く稼ぐ必要があったんだ」
そのために選んだ仕事。
フェスタは『ろくでもないから、詮索するな』と忠告していた。
「体を売った。孤児院にいた姉さんたちのつてを借りて、裏社会の悪い大人と接触して。きぃのほうから申し出たんだ。なんでもするから稼がせてって」
「体を売る? どういうこと?」
「知らないのならそのほうがいい。魂を殺す仕事だよ。自分自身のね」
よく分からないけれど、きぃの諦念がどうにも危うく見えた。
動脈を切り裂いて、流れ出る血をじっと眺めるような。排他的な自傷だ。
「おばさんたちにいいようにされた、もてあそばれた。苦痛で仕方がなかった。きぃを差し出すたびに、自尊心が損なわれていく。息が詰まって、苦しくなって、四肢末端から壊死していく。匂い立つ。堕落した精神の腐臭だ。きぃはピアノを弾くために、人間であることを辞めた」
『花咲はこっち側にきちゃだめだよ』
警告はとても空虚だった。自罰にしか聞こえなかった。
「昨日は最後の仕事だった。目標金額まで達したら、きっぱり辞めようと考えていた。君らがいたから決断できたんだ。今のきぃには花咲やクネヒトが。仲間がいる。きぃだけが独り傷つく必要はもうない。なんなら、三人で天職活動でもすればいい。楽しみだ。楽しみだ。ささやかな希望を抱いてしまったのが間違いだった」
きぃが震えている。激しく動悸し、怯えている。僕の知らない恐怖という悪感情だ。
「最後の客は男だった」
吐き気を催しているのか、顔色が悪い。
「どおりで報酬が良いわけだ。粘着質な笑みをダラリと垂らした、嗜虐心溢れる暴力的なサド。きぃはなすすべもなく辱められ、強姦された」
意味の分からない言葉の羅列。だがすべてに痛烈な実感がこもっていた。
きぃはいまだ痛いのだ。できたてホヤホヤの傷は熱発し、極彩色に爛れている。
「穢された。貶められた。汚物に落ちた魂に価値はない。きぃなんて死んでしまえば良いんだ」
僕には彼の気持ちがわからない。一切共感することができない。
そんなことはきぃだって分かっている。
ならなぜ僕に対して弱音を吐く?
求められているからじゃないのか?
無責任な、優しいだけの慰めを。
頬に手をあてる。口を耳元に近づける。
「きぃは綺麗だよ。汚くなんてない」
「顔のことは話していない」
「もちろん。君の内面こそ美しいんだ。川や海とおなじさ。透き通っていて、煌めいていて。なのに深い紺碧の水底は見通せない。気になっちゃう。だからつい手を伸ばしてしまう」
僕が持たない海ほど暗い感情たちを、きぃは大事そうに抱きかかえている。羨ましくて、求めると、その深さに溺れてしまいそうになる。
「意味が分からないな」
「当然じゃないか。これは僕の主観だ。僕だけの感動だ。君と共有することはできないよ」
「だとしたらつまらない感傷だ。耳あたりの言い駄文を並べただけの、自慰にも近い作詞だね」
「気分を害したかな? 君の海は高波でさえ美しいね。僕はきぃの価値に心底惚れ込んでいるようだ」
「響かない。きぃには花咲の言葉のすべてが、乱れた音階にしか聞こえない。届かない。足りない」
「なら僕は、この思いを証明しなければいけないね」
「やれるものならやってみろ」
ずっとうらやましかった。きぃはランちゃんだけに挑むことを許していた。
比肩する才能をもつ彼女は、きぃに対等に扱われていた。
ようやっと僕の番だ。
「僕はね、いつだって本気なんだ。僕の恋人になって欲しい。その思いは──」
今も変わらない。
きぃにくちづけをした。
にひひ。
してやったりだ。彼はとても驚いている。
僕は恋愛についてよくわかっていない節がある。
いつだってテテに恋しているし、常々ランちゃんを愛しています。
それらと同じ丈で、きぃを僕のものにしたいという独占欲も確かにある。
あの才能を僕のものにしたい。独り占めにしたい。
持て余すこれら激情のまえに、性差など意味をなさない。
よって、僕はきぃの恋人になりたい。
「汚くなんてないよ。君が綺麗だと思うから。ほら。僕はきぃをためらわない」
何度だって触れ合える。
僕にない全てを持つきぃだから。
僕の全てがきぃを欲している。
「……もっと乱暴に扱えよ。他の奴らみたいに消費しろよ。優しくするな、泣けてくる」
「好きな人に乱暴しろだって? 笑える冗談だ」
はにかむ僕を押しのけ、きぃはスッと立ち上がる。ハンガーラックにかけられた上着をはおる。
「どこにいくの?」
「花咲にあてられて、死ぬ気も失せた。今は火照りを冷ましたい。海の夜風を浴びてくる」
「そうかい」
大人しく見送る僕を、怪訝そうにみつめるきぃ。
「なにをしている?」
「ん?」
「きぃのことが好きなんだろ。べつにいいよ。花咲ならいい。ついてこいよ」
「へぇ。デートの誘いかい?」
「しいていうのなら、セッションかな」
いいね、僕たちらしくて。
一緒に外へ出る。気ままに歩く。清々しく横並び。
音楽仲間意外の関係性で、きぃと出かけたのは初めてのことだ。
手はぎゅっと握られている。
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