第19話 私のお気に入り
「スリー、ツー、ワン、レッツジャム」
開幕はきぃの旋律から。
すかさずフェスタの弦が揺れる。
音階は脳に痛みをもたらした。
電撃が脊椎をなぞり、一直に伝播した。
『My Favorite Things』
とある映画の作中歌であり、ジャズの巨人ジョン・コルトレーンがアレンジを行ったコレは、誰しもが一度は耳にしたことがあるだろう。超有名曲だ。
名曲がなぜ名曲と呼ばれるのか。所以を思い知らされる。
身震いする。
きぃの触れる鍵盤から、青白い海のさざ波を見たからだ。生物のあらかたが畏怖する、大海のうなり。
浸る猶予はない。すぐにドラムの出番だ。
彼らの演奏を壊してはならない。
プレッシャーが深い没入となって、両手に緻密な神経を通わせた。
フェスタの合図に合わせてシンバルを叩く。僕の役目は目立つことでも、皆をリードすることでもない。ただひたすらにリズムをキープし、彼らの支柱となる。自己中心性だけを求められている。
それでいい。これがいい。生き様を示せ。
「ビビんな、いくで!」
最後に参加したランちゃんのサクソフォン。一音を、僕は生涯忘れることがないだろう。
ランちゃんは熱い子だ。すこぶる赤色の爆発だ。
いつも怒っていて、いつも挑んでいる。
社会だとか、世界だとか、漠然とした、及びもつかないほど巨大に膨れ上がったナニカを睨みつけて。噛み殺す機会をじっと伺っている。
そんな女の子がランツ・クネヒト・ループレヒトだ。
なのに。なのに。なのに。
始まりの息吹は、なのに。
優しさに満ちた、底抜けの博愛に満ちた。
淑女のフレーズだった。
「YES!!」
フェスタが歓声を上げる。
欠陥品、じゃじゃ馬、個人主義者、厭世家。
壊れた個性の集合は、なのに驚くほどスムーズなまとまりを見せた。
静かで、感傷的な、仄暗く、青く。
音楽の神秘だ。
僕たちのカルテットが産声を上げた瞬間だ。
『どや、ほんまに吹けるやろ』
『そんなものか、まだまだやれるはずだ』
『あたりまえ。お前こそ遅れをとるなよ』
『誰に向かって言っている?』
『『見くびるな』』
言葉はない。アイコンタクトすらとらない。
二人のセッションはまるで会話をしているようだ。
永遠にも感じられる数分。深淵の底、岩肌に咲く一輪を愛でるように。赤と青。絶望と怒りの狭間で静かに泳ぐ。
衝撃が走る、ランちゃんが演奏を急に止めたのだ。
驚く僕を、フェスタの低音とランちゃんの眼力がいさめる。
『本番はここからだ』
『絶対に手、とめんなよ』
主旋律がランちゃんからきぃに切り替わった。ソロパートというやつか!
ランちゃんはテコテコとピアノに近づいていく。彼の演奏を独り占めにする気だ。
テンポは早くない。流れは雄大だ。
光も届かない深い海の底、海流はだが地球規模のうねりとなっている。ごうごうと、悲観が人知れずグルーブする。
僕は悪感情を抱かない。
文豪たちがいくら巧みな表現で詩にしても、僕には何も届かない。
なのに、なぜなんだ。
なぜ君の演奏を聴いていると、たまらなくドキドキする。胸が張り裂けそうで、生きているのが罪深い行いのように思えて。咎めてくる。
困惑が演奏に出ないよう努めるのに必死だった。
早く。早く解き放ってくれ。
息苦しい。押しつぶされる。
パラパラパラ。パラパラパラ。
音階が気泡のように舞いあがる。
闇に潜む醜いラブカが、才能だとか、努力だとか、そんなものに見切りをつけて。
五線譜よりもずっと深い水底で、ワルツを踊っている。
どれほどの感動を、水圧を、群青を。
きぃ、もう耐えられないよ——。
「ブ——————」
あぁ。
低音はまさしく噴火であった。
海底火山が目覚めたのだ。
マグマ溜まりが溢れ出す。
高音による水蒸気爆発。発生した気流で瞬く間に海上へ打ち上げられる。
窒息しそうになった絶妙なタイミングで、ランちゃんが演奏を再開した。
きぃの求めた変革の正体はこれか。
この熱か。
眩暈がする。圧力の変化で内臓が破裂しそうだ。
始まるのだ。圧巻のソロが。
「ブ——————」
真っ赤だ。
きぃの海すら利用して、反射させて。
水平線の先にある赤が金色の輝きを撒き散らす。
全身を駆使し、両頬をパンパンに膨らませて。
あらんかぎりの音圧がサックスベルから放たれる。狂ったように紡がれる。スウィングする。
複雑怪奇な少女の内側が、沸々と音を立てて晒されていく。外気に触れると化学反応を起こす。
きぃとランちゃんの音が絡み合う。
昂り、恍惚、発情。並べてみてもいまいちピンとこない。
これはいったいなんという感情だ? 僕は無垢にも音楽で男になった。
音と自我の境界が曖昧に蕩けていく。
みだれという強烈な個性すら、演奏を脚色するだけの顔料になりさがる。
簡単なドラムスの三拍子が。
鼓動のような弦の揺らぎが。
泣き声に近い静謐のメロディが。
怒号が。
グロテスクに混ざり、しまいに弾けた。
「……」
演奏が終わっても皆は口が聞けないでいた。
今起きた出来事の真相を噛み砕くのに、しばらくの時を有したのだ。
「……きぃの勝ちだ。カルテットのリーダーはきぃがする。クネヒト、花咲、今後ともよろしくお願いします」
彼のうやうやしいお辞儀に。ランちゃんは無言で、無表情で、ただ頷きだけを返した。
貴重な瞬間だ。ランちゃんがおそらく、有史以来初めて、負けを認めた現場に立ち会えたのだから。
見ものだった。あとでおちょくってやろう。
「クネヒト。いい演奏だった」
ランちゃんはふと我に帰り、悔しさに発火するほどの赤面を見せたのち、女の子らしく泣きわめき、そして大いに喜んだ。
『My Favorite Things』
和訳すると、『私のお気に入り』になるらしい。
この瞬間が、僕の生涯で随一のお気に入り。
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