第36話 とても綺麗な花が咲いた
誰もいなくなった神戸の街。
廃墟とかした都心部で一人、僕は歩く。
やりたいようにやってみた。その結果が惨状だ。
後悔はない。僕は誰もいなくなった荒れ果てを、『天国』と名付けた。
こんな場所だって、ちゃんと楽しめるものだ。
人がいなくなっても空は綺麗だし、息が吸える。
いつからだろう、考えたことが現実になるようになったのは。
今では星空をクジラが泳いでいるし。
流れ星が実はUFOだったりする。
雨なんて降っていないのに虹がかかる。その麓には宝箱が隠されている。
開けてみると妖精がいて、空を飛べるようになる、魔法の粉を振りかけてくれる。
蛇口をひねればジュースがでるし、穴を少し掘るだけで温泉街だ。
無人になってもスーパーに行けば新鮮な食べ物が買えて、いくら食べてもお腹いっぱいになんてならない。
昨日はペットボトルロケットで月まで行った。
一昨日はウルトラマンになってゴジラを倒した。
一眠りすれば夢の中で綺麗なお姉さんと遊べるし、そんなことしなくたって、テテがいつまでも抱きしめてくれる。
僕はこの世界を楽しんでいた。
偽りの世界を、心置きなく。
世界がテテの祝福であることは、早い段階で気づいていた。でも、夢であると自覚したのなら、せっかくだし遊んでみたくなるものだ。
好き放題してやった。
長い明晰夢だった。
楽しかった。
でも、もうお終い。
今夜目覚めることになるのは、なんとなくわかっていた。
朝からどうにも頭がフワフワしていて。
思考は次第に不明瞭になっていくのに。
予感だけは確かだった。
『オーシャンノベル』の扉を開く。
照明に切り取られた、小さなステージ。
僕たちはとうに降りた、栄光の場所。
そこに立っていたのは、『きぃ』だった。
久しぶりの彼は相変わらず綺麗で。
やっぱり好きだなぁって、妙に納得して。
でも、話す気にはなれなかった。
今の彼は演者であり。そして僕は客席についている。
なら、語らうべきは言葉でなく音楽だ。
向こうも承知なようで、一礼だけしてピアノに手を乗せた。
歴史的名曲と呼ばれる数々は、どれも始まりからして馴染み深い。
『孤虫のなみだ』
原曲をジャズ風にアレンジしたこれも相応しく、草原を思わせるきぃの原風景だった。
——開演。
風が吹く、雲はうねり、波が立つ。
雨粒が肌に突き刺さり、草木がザワザワと揺れている。
鈍色の空から差し込むわずかな日差しが海面を撫で、その向こうに佇む漆黒の嵐がまもなくやってくる。
喜びなど一つもないのに、けれど絶景を美しく思うのだ。
きぃは生き返ったわけでない。
アレは僕が望んだ結果の、靄みたいなもの。
触れればきっと霧散する。
だが、音楽は本物だった。
汗を垂らし目を瞑り、苦しそうにもがきながらも演奏する様は圧巻で。
観客は僕だけだというのに、全霊で聞かせに来た。
ピアノで殺しに来ていた。
ゾクゾクした。
いつまでも続けばいいのに。
だが素敵な終わりがあるからこそ、名曲は名曲と呼ばれる。
演奏は、きぃが命をとして作曲した、最終譜面に差し掛かった。
嵐の雷と、深海の静寂なうねり。
鍵盤上で表現されたのは両極端な地球の脈動。
交わらないはずの二点が見事に調和した旋律は、まさにきぃの
パタリ、曲がやむ。
嵐が過ぎ去った。
叫び出したくなる衝動をどうにか抑えた。
今、死んだのだ。
生きとし生けるもののすべてが死に。
永き休符のち——。
最後のワンフレーズ。
翼なき孤虫は運命に涙し、地に落ちた。
けれどその死骸から、とても綺麗な花が咲いていた。
幸せも、不幸も。僕たちは循環している。
曲は終わった。余韻にしばらく浸る。きぃはいつの間にかいなくなっていた。
ありがとう、十分だ。
僕はもう、この世界でやり残したことは何もない。
この世界では——。
「目覚めのときだ」
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