みだれの心に天使はいない
海の字
第一楽章
第1話 胎動
まずはじめに妹が死んだ。
笑顔がみるみる膨らんで。緊張した風船に、まち針を刺すみたいに、パンッって弾けた。花火みたいな赤だった。思わず拍手をしてしまった。
次にママ。
布で口を閉ざされていた。
なのにママの叫びは痛いくらいに鳴っていた。
爆発すると、脳と、血と、頭蓋のかけらが頬に触れた。
いつも撫でてくれるママだった。最期も同じなんだ。
パパなんてすごかった。
両の腕と足を椅子に縛られ、身動きを封じられていたのに。
怒りのパワーで拘束をちぎり、犯人に襲いかかってみせたのだ。
でも犯人がパパを叩くと、同様に破裂した。
キラリ、舞う血しぶきの中で。ふと、僕は両親の教えを思い出していた。
『人の幸せが、自分の幸せだと思えるような子になりなさい』
家族は死んだ。もれなく果てた。みんなは幸せだったのだろうか。
慕ってくれた妹。大好きでした。
抱きしめてくれたママ。大好きでした。
おぶってくれたパパ。大好きでした。
みんなまとめて、さようなら。
「君で最後なわけだけれど、動揺しないんだね」
犯人が僕に語りかける。
およそ殺人鬼には似つかわしくない、優しい声色で。
でも主張しているのは返り血の赤だ。
「怒りもしない、悲しみもない。いやむしろ、喜んでいるのかい……?」
彼女の薄いほほ笑みが傾く。奥底をまさぐる翡翠色のまなこと目が合う。
澄んだ海に飛び込み、みなもが揺れる、そんな
だからつい本音が溢れた。
「綺麗な人ですね」
雪原を思わせる白い柔肌と、昼と夜のあいだ色とおんなじ金髪。髪先は引き締まったくびれまで伸び、背は高く、四肢はしなやか。踝に届く窮屈なワンピースが、躰の曲線を強調していた。
北欧の姫君のようでいて。
壁画の女神のようでいて。
えっちなお姉さんだ……。
「あは。あえて後者を否定させてもらうよ。君、私が人に見えているのかい?」
そんなわけがない。
「いいえ、きっとあなたは天使です」
彼女は正真、翼の生えた天使様だった。白無垢の羽が連なり、なんと頭上には五つの光輪さえ浮かんでいる。脚色ない、ステレオタイプな天使像だ。
今朝、我が家に天使が舞い降りた。
僕を人質に取り、家族全員を拘束すると、すみやかに団欒を爆破した。
リビングは血の海とかし、濃厚な死臭が鼻につく。
両足がお暇だから、チャプチャプとママで遊んでみる。
「普通、家族を殺された子供は、泣き叫び、恐怖するものだよ。なのに君はいたって平静だ。むしろ喜々としたきらいさえある。あぁ、家族のことが嫌いだったんだ?」
「変なことを言いますね。大好きですよ。愛していますよ。かけがえのない僕の親愛です」
どこにでもある、ありふれた家庭です。
ならば真相を突き止めた名探偵みたいに、天使は納得の指をたてる。
「ひょっとして、君には人の心がないのかな?」
『人の心』。
知らない定義だ。
でも、僕にはちゃんと『僕の心』がある。
「んー、どうだろう。哀しいのかな。寂しいのかな? わかんない。でも、つらくはないよ。僕、はちゃめちゃポジティブなんです。だからとても今が嬉しい」
「嬉しい? どうして?」
「人生一度きりの死を、こうも劇的にしてくれた。なんと天使様の手で。それもド派手に! きっと一生忘れないよ。大好きな家族だったから、僕はなおのこと嬉しいのです。どうもありがとう」
天使様が、家族の死を特別なものに仕立ててくれたのだ。
頭をさげる。感謝をのべる。幸せな面持ちで。万感のほほ笑みで。
つらくはない。何せ僕は一度もソレを確かめたことがない。
泣いたことなんてない。産まれてこの方、涙を流したことがない。産声ですら喜色い音だったに違いない。
つまり不幸になったことがない。
僕は世界で一番、幸せな子供なんだ。
「そのほうが、よほど人でなしでしょ」
言うと天使様は僕の拘束をとき。
「すこし話をしよう」
食卓につく。
「これ、ママが作ってくれたんだ? とってもおいしそうだね」
今朝の献立はオムライスにコーンポタージュ。甘いミロに湯気が立つ。
「はい。冷めちゃわないうちにいただきましょう」
両手を合わせる。
さっきから腹の虫がすこぶる溌剌なんだ。
「それ、マジで言ってんの?」
「? 食べ物を粗末にしてはダメなんですよ」
「あっは」
幸運なことに、今日はなんとおかわりができる。二人で四人前だ。
口の中で愛情がほぐれていく。
「うん、おいしい。思った通りだ」
「ええ、ママの手料理は僕の自慢なんです」
ごはん前に朝刊を読むのが日課のパパ。
『午後は雨みたいだから、傘を忘れずにね』。
それくらい自然な流れで──。
「片づけ終わったら、君を殺すね」
「痛くしないでね」
会話をする。
殺人鬼と被害者の二人。
有りようはひどく歪で、不自然に思えたが、僕にはピタリとはまるパズルのピースだ。
「君、面白いね。今回は標的にウジでなく興味が湧いたようだ。私にその
「名前は花咲みだれ。小学四年生です。天使様は?」
「私はまだ生まれたばかりだから、名がないんだよね。みだれがつけるといい。大切にするよ」
天使様はてのひらで家族を殺した。そして手を合わせて食事をいただいている。初めましての握手をするのもその手なら──。
「初めまして、テテ」
握手。
「どうぞよしなに」
食器のかすれる音。咀嚼音。規則正しい秒針の刻み。田舎なもんで、若鶏の挨拶が遠方から。
午前八時。いつも通りの音階と、どうにもならない家族の死体。
今朝の献立はオムライスにコーンポタージュ。皿の上に赤子の死体たちがのっている。
「せっかくみだれと知り合えたんだ。ただの殺人鬼と思われるのは釈然としないから、釈明がしたい。いいかな?」
「人殺しは強制なのに、言い訳は許可制なんだ」
「どこの法廷でも同じことでしょ? 裁判官、よろしいですか?」
「許可する」
僕の家庭には厳格なルールが一つだけある。
ごはん中にテレビをつけてはいけない。漫画を読まない。スマホも触らない。
なぜなら食事はママの腕を褒め称える、神聖な儀式であると共に。
楽しい会話の時間であるべきだから。
「家族が全員死んでも、話し相手になってくれる人がいる。僕は幸せ者だね」
花咲みだれは、一度も泣いたことがないし、一度も不幸を覚えたことがない。
空が綺麗。息が吸える。花が赤い。ご飯がおいしい。
些細な事象のいちいちに感動し、幸せになれる脳。
そして花咲みだれは──。
「どうかしているね」
一度も他人に共感されたことがない。
一度も他人に共感したことがない。
だから僕は他人の不幸なんて心底興味ないし。
そこの死体が幸福かどうかすら、もうどうでもいい。
僕が幸せならそれでいい。
『人の幸せが、自分の幸せだと思えるような子になりなさい』
そうあれたなら、なんて幸せなことだろう、とも思うよ。
家族はもれなく死んだ。
僕の人間性は産まれてきてさえいない。
僕の心に天使はいない。
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