第2話 九相図の花
「みだれに『幸せ』をおしえたげる。神から遣わされた天使だけが、その正体を知っている」
いうとテテは食器をかたし、蛇口をひねった。洗い流しているのは皿の汚れだけだろうか。シンクは深い
「幸せにはルールがあるんだ。『不幸からしか生まれてこない』という、ただ一つの真実さ」
稚児に歩き方を教えるくらい、慈愛に満ちた笑みにさらされ、少し動悸する。
「他人の不幸は蜜の味、なんて甘ったれた認識の話をしているわけじゃない。神が定めた高次の法を、私はさしているんだ。もう一度言う。『幸せは、不幸からしか生まれてこない』」
テテはコップに水をそそぎ、傾け、床に零した。一見とんちきな挙動すら、洗練されて見えた。
彼女の仕草はいちいち美麗だ。美しく、鋭利でいて、振るまえば人が傷つく。
「地球上の水は循環しているという話を、理科の授業でならったかい? 太陽に熱された海面は蒸発する。そして雨雲になる。積乱雲は嵐を呼び、川を産む。川はどこへ向かっていく? 水は姿を変え、呼び名を変えたとしても、最期には必ず母なる海へたどり着くんだ。つまり、地球上の水は増えることも減ることもなく、一定の水準を
零れた水も、血だまりも、百年後はしょっぱい。
「『幸福』はこれに似ている。人類が得られる幸せの最大量は決まっていて、必ずしも均等に分配されているわけじゃないんだ。四年生ならわかるよね」
幸せな僕がいる一方で、不幸に溺れた父がいた。家族と穏やかなひと時を過ごすかたわら、ニュースでは他人が死んでいる。
「人類によって消費された幸せは、地球によって代謝されるんだよ。そうしてできあがった代謝物を、神は『不幸』と名付けた。これ、マジの話なんだぜ」
「裕福な家庭に産まれて来る子がいれば、貧困に喘ぐ子らもいる、みたいな話ですか?」
「少し惜しいね。お金持ちでも不幸な人間はいるし、紛争地すら幸せな唄がある。幸福の基準なんて人それぞれだから。みだれならわかるんじゃない?」
空が綺麗。息が吸える。花が赤い。ご飯がおいしい。お姉さんがえっち。
小さなことで大きな幸せを得られる僕と。
娘が死んだ程度で怒れる両親。
「ここからがミソよ。地球によって分配された不幸を人類が享受したとき、不幸は再び幸せに還るのさ! 幸せが不幸に。不幸は幸せに。ぐるぐる、ぐるぐる」
幸福は呼吸している。
酸素が燃焼されて二酸化炭素になるように。
光合成によって再び酸素へ戻るように。
幸せが→不幸せになり→再び幸せをうむ。
「つまり僕が幸せを感じられるのは、別の誰かが不幸になってくれているからなんですね」
「へぇ~。みだれ、頭いいんだ? 呑み込み速いね」
「うん! たくさんの本を読んでいます。パパの書庫は僕の遊び場なんだ」
たまたま家族の
「私たち天使がもつ役割は、循環をより活発にすること。言い換えれば、より多くの人を幸せにすること」
さらに言い換えるのなら──。
「多くの幸せのために、多くを不幸にしよう。だからテテは僕の大切を殺したんだ」
「うん、だから私は天使なんだ」
むごたらしく凄惨に、これ見よがしに傷つけた。
母の叫びは父の怒りは、きっとめぐりめぐって、知らない誰かを笑わせている。
たしかにそれは──。
「とても素敵なことです」
「へぇ……」
だって、テテの話が真実なら。
『人の幸せが、自分の幸せだと思えるような子になりなさい』
人の幸せも、不幸も、理解できなったこの言葉も全部、綺麗に裏返るじゃないか。
すれば──。
『自分の幸せが、誰かの不幸だと思える』し。
『誰かの不幸が、自分の幸せだと感じる』はずじゃん。
自分の幸せにしか興味がもてず。
他人の幸せにも共感できず。
けれど不幸が、あるいは幸せが。
循環して。一巡して。
僕の幸せに還元されているというのなら──。
『人の
完結する。
両親の教えを全うでき、頭ん中ハッピーになれる。
「話はおしまい。ところでみだれ、天使に興味はないかい?」
「? テテに? 興味津々です」
えっちなお姉さんは大好きなのです。
「あは。嬉しいけれど違うな。私は『天使になることに興味はないかい』と、尋ねたんだぜ」
天使の役割→多くの人を幸せにすること。
あるいは、多くの人を不幸にすること。
どちらであっても『他人のため』だ。
バカボンがなっている。
『それでいいのだ。それでいいのだ』
僕は僕が幸せならそれでいいのだ。
幸せのメカニズムを知ってなお、天使になるメリットはない。
「どうだろう? わかんない」
同時に断る理由もない。
僕は僕のために能動する優しさだってあるんだ。
なのでテテ、強烈な一撃をくれ。
目が逸らせなくなるくらい、生き甲斐と言っていいほどの、『天使になる理由』をおくれ。
そしたらきっと、僕という花は綺麗に咲ける。
「たまには本気で勧誘しなくちゃね。傾聴しろ。衝心しろ。残酷な世界で唯一、天使だけが、『幸せを増やせる』んだぜ」
テテはいった。人類が得られる幸せの最大量は決まっていると。その循環を海に喩えもした。
なら、海はどこから湧いた?
岩とガスの星だった地球は、いつ青を獲得した?
「全人類、日に日に数が増えている。人口爆発ってやつだ。つまり『幸せ』の受け皿は拡大し続けていて」
「なのに総量は変わらない」
ようは人が増えるほど、一人当たりが受け取れる幸せ、不幸せの値が減少していく。幸せでも不幸でもない。そんな生に価値はなく。
「ならば私の存在理由だ。天使が生みおとす
天使だけが総量を増やせるという。
「自分の幸せにしか興味が持てないみだれ君。天使になれば、君は絶対に、今よりももっともっと確実に合理的に論理的に性的に神秘的に、『幸せ』になれるんだぜ」
僕は世界で一番幸せな子供。あくまで子供。
ところで子供は成長盛り。伸びしろたくさん!
まだまだ幸せになれるってこと!?
空が綺麗。嵐が引き裂く。
息が吸える。吐けば臭い。
花が赤い。蹴散らす。
ご飯がおいしい。ママの愛情は今から殺人鬼の糞になるよ。
ならば僕は、世界で一番、誰かを不幸にしているとも言える。
「みだれはただあるだけで他者を不幸にする。私がこの家に降りたのも、そして家族が死んだのも。あは。きっとぜんぶぜんぶ、君のせいなんだぜ」
テテは僕を『人でなし』と呼んだ。
「みだれ、君は天使にむいている」
そう、その一言だけでいい。
「なる!!」
バチン。
強烈な一撃。
テテの両手が僕の頬を叩き、引き寄せた。
「神から遣わされた天使だけが、『幸せ』の正体を知っている」
距離が近い。おでこ同士が口づけをした。
「ならば天使を堕せ」
その距離は、小学生がときめくには十分に過ぎた。
「それが天使になるための、唯一無二の方法だ」
お姉さんがえっち──。
どれほど魅惑的な女性でも、死ねば醜く腐敗する。
けれど死が、いつだって綺麗な花を咲かせてくれる。
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