第9話 上を向いて歩こう。涙なんて零れないくせに
ドス黒いうねりがもくもく空を汚していく。
野次馬の喧騒とサイレンがひどくうるさい。
バチバチと炎が。
パチパチと心が。
花咲家の日常がそれは激しく燃えていた。
「みだれくん! 大丈夫かい!?」
近所の人が僕の存在に気づく。混乱と同情のいり混じった声音は火事場ですら無駄に通った。
「お巡りさん、この子の家なんです!」
血相を変えた大人らがわらわらと駆けつけてくる。
のちに僕は保護されて、楽しかった物語に一端の目処がつくのだ。それはそれで愉快だが。
みだれは強欲らしい。
だから今だって求めている。
テテに触れられるような──。
「爆発を!」
ドカン!
ガレージのシャッターを突き破って、スズキのハスラーが飛び出した。
どよめきをよそに、荒い運転で観衆をかき分け、僕の元へ一直に。
「乗れ!」
あぁランちゃん。
君がハンドルをとると、ただの軽自動車ですらスポーツカーにおもえてくる。
乗り心地だって、F-1レースくらい刺激的だった。
急発進。急旋回。急停止。
サイドミラーが電柱と駆け落ちした。
「あはは! 死んじゃうね!」
後方から赤灯が追随する。カーチェイスにすらならない。
なにせランちゃんだ、頭のネジがトロけています。常にベタ踏みでガソリンを沸かし、フェンスを破壊して公園を縦断する。
瞳の色が赤いから、きっと赤信号だって見えていない。
「アタシの隣で死ね!」
そんなだから、十分後には廃車になった。
パパが新車で買ったお気に入りのハスラー、今は溜池の底にある。
大事故だ。
どうにか窓から脱出できたものの、危うく死ぬところだった。
土手で衣服を絞る。冷めやまない興奮が地面にポトポトと落ちる。
警察に追いかけ回される経験なんて、人生でそう得られたものじゃない。あぁ、なんてスバラな一日なんだ。胸が高鳴り、頬も火照り、なのにいまだ日暮れ前だという事実に、吐き気を催すほどの感動を覚える。
「アハハハ。楽しかったわぁ〜」
同感だ。ところでランちゃん。
「どうしてお家を燃やしたの?」
あの燃え方は尋常でなかった。全焼させてやるという強い意思がなければ起こり得ない規模だ。
放火魔は溌剌と答える。
「家に帰ったら、みだれパパの会社の人が見舞いに来てた。休みの電話が怪しまれたらしいわ」
そして死体が発見されると。
「警察に見つかった変死体がどうなるか知っとるか? アタシはよー映画見とるからわかんねん。バラバラに解剖されて、隅々まで調べられる。犯人が捕まるのならそれもええけれど、相手は目に見えん人外や。アタシは二度も大切な人を傷つけられたくない」
だから燃やした。火葬し、弔った。
彼女には彼女なりの正義があった。
けれど残念だランちゃん。
僕は本を読んでいるから知っています。火災程度の熱量で、人間はお骨にならない。放火なんてものは、疑念も遺恨もちゃんと残ってしまう。僕の家族はミディアムレアだ。ランちゃんはいつだってみんなを困らせるね。
「それに──」
それに大抵、君の二言目は碌でもない。
「みだれの帰る場所なんて、もうなくてええ。つまらん人生には飽き飽きしていた。そんなもんホカしてしまえ。なぁみだれ、アタシとどうにかなっちまおうぜ?」
差し伸ばされた手のひら。取ると二度と平穏には戻れない。──確信があった。
ランツ・クネヒト・ループレヒト。
「まったく君は最高だな」
歩き始める。二人で。刹那的に生きる。羽ばたく。
渡り鳥のいくすえに帰路はない。宿木もなく、雨風を凌ぐ屋根すら必要ない。なぜなら翼は、きっと雲よりも高く飛べるから。
ドンドン。
ランちゃんがマンホールの蓋を蹴った。
蓋の多くには所在地が記されている。
「ここ、もう神戸市やんけ」
「お隣だもんね」
肝心なのは目的地である元町までの距離だ。
兵庫県はなにせバカ広い。県庁所在地の神戸も見合って広い。
手持ちはない。車も沈んだ。さてどうしよう。
「アタシ、授業で習った。車の時速って、一時間走らせたらたどり着く距離のことやねんて」
「なんどか家族で遊びに行ったからわかる。僕の家からだと、車でだいたい五十分かからないくらいかな」
「うわ。およそ時速四十キロと計算しても……」
僕は毎朝十キロのランニングをしている。なのでその距離間は掴みやすかった。
え? 意外に近いの?
「車を運転しなくても。財布からお金を盗まなくても。普通に歩いて行けちゃう距離じゃん」
カーチェイスは必要なかった。不必要に命を危険に晒しただけだった。
「……ま、えっか。楽しかったし」
うん、楽しかったらなにをしてもいいのだ。
かくして、長ぁぁい散歩、もとい冒険がこれより始まる。
****
道中のおしゃべりは淡白だった。
テテとの会話内容。これから向かう元町の店、『オーシャンノベル』のことなど、重要な説明に終始した。
とくに『みんなを不幸にしてやろう』という思惑の共有は重点的に。
ランちゃんはとても乗り気だった。自分で言うのも何だけれど、そうとう倫理観が壊れていますね。
三時間ほど歩いた頃には陽も沈み。疲れた足とは裏腹に住む虫くれが、意気軒昂と喘ぎはじめた。
お腹すいた……。
「コンビニ、あるね」
長い国道の半ば、ポツンと佇む電飾看板は、なので繁華街のネオンほどに明るく見えた。二匹の虫は吸い寄せられる。
「金ないやん。万引き? 早速店員さんを不幸にしようと?」
「それはダメでしょ」
「へぇ、そのくらいの良心はあるんやな」
「心まで貧しくなった覚えはないよ」
「ええこっちゃ」
万引き? そんなダセぇことしてやんない。
ランちゃんと遊ぶんだ。もっとド派手な、面白い不幸じゃなきゃ釣り合わない。
「強盗しよう」
「アッハ!」
二人で手頃な木の棒を拾い、ピロリンピロリン♪ ドアが開く。
店員さんに伝説の剣を突きつける。
「「強盗だ!」」
「手を上げろ」
「銃捨てな」
店員さんは明るい髪色のギャル子さん。メイクばっちし。装飾された爪はウルヴァリンほどに鋭利だ。
これはそうとう手強いぞ。
「え、なに君たち」
「飯を出せ!」
ランちゃんが叫ぶ。ぐりゅりゅうぅ。なんてタイミングで僕のお腹が鳴る。
「えぇ? 取ってきなよ」
「金がない!」
僕たちの状況を察した様子のギャル子さん。
「え〜。それで強盗? マジでいってんの? かあいい〜」
言うとギャル子さん。なんと奥から廃棄予定の食品をたんまりと持ってきてくれた。
「ウチ、今日でココ辞めんのよね〜。彼ピと蒸発すんの」
つまり無敵な人のわけ。
「君たちもどうせ家出でしょ~。えへへ、おんなじ。ウケる。なので廃棄品くらい、いくらでもくれてやる〜」
「なんていい人!?」
というわけで初めての天職活動は、全員が幸せになるというオチに終わった。
二人で食べたカップラーメンは、どうしてかいつも以上に美味しく感じた。
シーフードが血中を泳ぎ、四肢末端にいたるまで夢心地を伝播する。内臓が笑顔笑顔だ。
小休憩を終え、国道は山林へと向っていく。時間はすでに深夜だ。街灯はなくなり、深い闇が辺りを支配していた。
「みてみ、星めちゃ綺麗や」
初夏の夜空はだから自己を主張し、牛乳をまぶしたみたいに白く煌めいていた。
寒気がするくらいの静けさだ。おかげで、彼女のたてる音のすべてに集中できた。心音の一つさえ聞き逃さない。
ずっと一緒だもん、わかるよランちゃん。
君は今、僕の家族のことを思い出してくれているね。星空のせいでおセンチになったのかな?
緊張の糸が切れて、張り詰めた強気も霧散して、鉄面皮を剥がした先の、少女の表情は寒色だ。
未来のカンバスは、どんな絵の具でも試せる白だけれど。夜はその黒地に、過去を投影させたがる。
どちらもとっても優しいのだ。
「なぁみだれ、アタシ、おかしいかもしれん。今な、めっちゃ楽しいねん。お前の家族、死んでもたのに。人生、ほとんど詰んでもーたのに。お前と冒険できている今がワクワクで、心がグチャっとなって、泣けてくる」
彼女は強い女の子だ。そのつぶやきは自己で解決できる範疇だろう。僕はただ頷くだけ。
ランちゃんが『上を向いて歩こう』の鼻歌を啜る。
涙なんて流したことのない僕だから、全然共感できない歌詞だけれど。メロディがたまらなく暖かくて、大好きな曲の一つです。
ランちゃんは歌い、僕の手を握る。寂しい時の握り方だ。指を絡めて、決して離さないように強く。
冒険はまだ続く。
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