第14話 喜怒哀楽

 ポチャン。


 ピアニスト君を湯船につける。目を覚ましたようで、僕たちを視認し一瞬ギョッとする。

 ただ、またすぐにポロポロと泣き始めた。


「絶望だ。きぃの日常が死んでしまった」

 

『きぃ』と名乗った彼は、精気が抜け落ちた顔を水面に沈めた。


「ええことやん。アタシはアイスランド産の関西人、ランツ。こいつはただのみだれや。よろしゅう」


 ランちゃんにはキツく言ってある。『彼が泣いちゃっても殴るなよ』と。


 彼女はどうやら、きぃと名乗るピアニスト君と仲良くなりたいようで。ならば暴力などありえないと、親でも教えない常識を説きほどいたところだ。


 言い換えればそこまで。僕だって友達の作り方なんてしったこっちゃない。


「ど、どうしてきぃの部屋に勝手に入ったんだ。君らの目的はなんだ」


 僕らに問い詰めているようだが、端っこで小さく震えている、威厳などない。


「怯えないで。僕たちはフェスタの指示でここに案内されただけ。今日からここに住めとね。殴ってしまったのも謝るよ。こちらとしてもいきなりのことで、気が動転してしまったんだ」

「そういうことや」

「その割には、明確な意思を持った殴打だった。とても痛かった……」


 嫌われているな。当然だ、ぶん殴ってんだから。 


「ランツさん。君は女の子だ。なぜ平然とお風呂に入っている」

「泣き虫を男だと思っていないから。そういうお前はなんや? 魅力あふれるアタシに欲情でもしたか?」

「訂正する。きぃも簡単に暴力を振るう動物を人間だと思えない」


 ん? なぜバチバチの舌戦をしているの?

 仲良くなりたいんじゃないの?


 本意はここから、『僕たちと友達にならないか』と提案したいところ。

 だが僕にはそれができない大きな理由がある。


『ランちゃん以外と友達になってはいけない』


 縛りがあるからだ。

 ランちゃん。頼みの綱は君なんだよ?


「そもそもアタシは、お前の演奏が気に入らんのや。もう二度とあんな演奏すんな。もし次やったらその指へし折ったる」


 ん? は? 


 ……さすがだよランちゃん。

 君はいつだって一線を越える。

 人道を踏み外してくる。

 なぜここで喧嘩を売る必要がある?


 思い返せば僕のときもそうだったなぁ……。


「い、言うじゃないか。きぃはあの演奏に全力を出した。きぃは一度だって、ピアノに嘘をついたことがない」


 だまれ。そういわんばかりにランちゃんは湯を叩いた。


「確かに技術やアドリブ力、表現力には目を見張るもんがあった。認める、お前は天才や。やからなおのこと気色悪い。哀愁に塗れて、悲しみばかりが沈澱する青、身震いするほどの。キショいんは、そこまで止まりなところや。お前の演奏には答えがない。絶望、のち一縷の希望。あるいは死。そういったオチがあって初めて、観衆に聴かすにたる曲になる。つまり構成が終わっとるんや。趣味で弾くんやったら文句も言わん。ただお前はステージに立ってもた。ほならちゃんと責任を果たさんかい。尻切れ蜻蛉な演奏すんなや」


「し、素人に何がわかるっていうんだ……」


「そーや、素人や。素人でも看破できるお前の浅慮を詰めてんのや」


「口だけは達者だな。君は卑怯だよ。貶める側がなぜそんな顔をする?」


「アタシの心に空いた穴、どないしてくれんねん……」


 ランちゃんを見て目を見開いた。驚きが声に出なかったのは奇跡だった。


 泣いていたんだ。

 悔しそうに。情けなさそうに。

 まるで、年相応の女の子みたいに。

 今夜の演奏のように、彼女は啜り泣いていた。


 ランちゃんは頭がおかしい。

 だが僕とは明確に違うところがある。

 彼女は人間なのだ。


 親しかった友人の家族が死んだ。

 友人のために自らの人生をぶち壊した。

 放火、強盗、恐喝。犯罪行為にも手をそめた。


 それでもなお、きぃの演奏に感応できる。

 悲しみに共感できる、人の心がある。


 一番大切な部分は捨てちゃいない。


 激動に揺れた日々だった。ならば摩耗しきった心の罅に、さぞあの演奏は沁みただろう。


 傷口に消毒液を垂らす。

 なのに誰も絆創膏を貼ってくれない。

 もどかしい。やるせない。ズキズキとした痛みばかりが野晒しだ。


 素晴らしい演奏だった。だからこそいまだ本領を発揮しきれていないきぃに対し、ランちゃんは強い憤りを覚えている。


 ぶん殴ってしまうくらいに。


 まったく不器用な子だ。

 

「……きぃの指は、すでに折れている」

「!?」


 きぃは僕らに左手をみせた。

 言われてみればたしかに、人差し指と中指が、歪に曲がって、小刻みに震えている。


「素人に気づかせない程度の腕はある。でも、それをカバーするのに必死で、観客のことを失念していたのかもしれない」


「どうして……」


「フェスタに拾われたってことは、君たちもきぃと同じで、社会から爪弾きにされてきた子供なんだろ。なら、わかるはずだ。異端者がどういう扱いを大衆から受けるのか」


 天才は普遍的な価値観のもと、平等に孤独である。

 ランちゃんの言葉だ。


「学校でイジメを受けた。音楽室で演奏をしていたときのことだ。ガタンと、きぃの平穏は音を立てて、ピアノの蓋ごと閉じられてしまった」


 沈黙が流れた。きぃの美しい輪郭を伝って、雫がポトンと一滴おちた。僕にはそれが蒸気の粒か、涙なのか。区別がつかなかった。

 どちらにしても意味は同じだ。


「……ちょっち頭冷やしてくるわ」


 ランちゃんは言うとお風呂場を出た。

 何か思うところがあったようだが、僕は無垢に感心していた。


 骨折していてもあのレベルなのかと。


「言い訳がすぎた。卑怯なのはきぃのほうだ。確かに指の違和感はまだある。けれど痛たみはとっくに失せている。きぃだってわかっているさ。あの演奏が聴くに耐えないものであることくらい」


 素人の批判を受け入れないのなら。

 素人の賞賛も受け付けてはならない。


 僕は褒め言葉を抑え、あえて彼の言葉を否定しなかった。


 膝を抱えて涙するきぃは、その後つらつらと内情を吐露し始めた。十二分に演奏で聴いたというのに。僕にはちっともきぃの気持ちなんてわかってあげられない。


 だから以降の言葉は、彼の独白である。


「いつもこうだ。いつもいつもきぃは我が身可愛さに他人を傷つけてしまう。自分の心が弱いのを言い訳にして、他者の思いを蔑ろにして。さっきもあんなことを言う必要はなかったはずだ。不必要な暴言だった。同情なんていらないのに。図星をつかれて意地を張った。あまりにも小さい。矮小な魂だ。やり方も間違っている。自虐で流した血を晒して、幹部をつまびらかにして。目を背けてくれるってわかっていたから、見てほしくないから見せつけた。悲しみは誰よりもわかるはずなのに、いつも辛い、苦しいって泣いているはずなのに。しょせんどこまでいってもきぃは自分のためにしか泣けないから、喜んで誰かの苦悩を許容する。誰よりも悲しんでいるという免罪符片手に、他人の苦痛を是正する。相手に寄り添うことのできない腐った性根の持ち主は、近づいてきた善良にすら糞を投げつけ否定する。怖くて怖くて仕方がない。離れていくことよりも、失望されることよりも。優しくされることの方がよほど怖い。それに値しない人間性がきぃだから。一人で勝手に泣いているから。どうかお願いだから、もうほっといてくれ。絶望には慣れた。だからどうか希望で照らさないで。どうにも眩しい。図星、図星、図星なんだよ。結局のところ、あの子の言葉は全部正論だ。きぃの演奏には答えがない。だってきぃ自身が答えを見つけられていないから。きぃは絶望のを知らない」


 一つも理解できない文字の羅列。

 知らない言語に直面して、僕はただ圧倒されていた。彼は度を越したネガティブなのだ。


「きぃは産まれてきてから一度も笑ったことがない。きぃは一度も幸せを感じたことがない」


 ゆえに絶望以外の演奏を弾くことができない。彼はピアノに嘘をつかない。


 運命的なこの出会いは神の。テテの思し召しに他ならず。


 僕と正反対の性質を持つきぃは、つまるところ——。


「だからどうか関わらないで。別にいいだろう? どうせ全員、きぃよりは幸せなんだから」


 世界で一番不幸な子供であり。

 世界で一番、他者を幸せにしている。


 ほしい──。


『関わらないで。関わらないで。関わらないで。関わらないで』


 僕にない全部を持つきぃに、みだれは心底惹かれました。


『関わらないで。関わらないで。関わらないで。関わらないで』


 うるさい。だまれ。


『花咲みだれは、ランちゃん以外の人間とになってはいけない』


 だから僕は、テテがそうしてくれたように、きぃの顔をギュッと引き寄せた。


「僕と結婚を前提に付き合ってはくれないか」


 僕にはこれしか思いつかなかった。

 唯一、ランちゃんときぃ、両方を取る強欲な手段。それは『きぃと恋人になること』。


「は?」


 第一楽章 完

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