第18話 すくい上げる手

 ……次に俺の意識を呼び覚ましたのは、皮肉なことに、俺を刺して崖から蹴落としたふたりの幼馴染の声だった。


「いたか!? ユーメ!」


「いいえ、こっちには……この辺りに落ちたはずなんだけど……」


 ふたりの声と、何かをかき分けるガサガサという音が耳に届く。

 辺りは暗くなっていた。早朝から出かけたはずなのに、日没まで気を失っていたらしい。

 刺された背中は、痛みを通り越して、熱さ以外の感覚を失いつつある。


「死体を見せなきゃミルエッタも納得しねえだろ……ブロスの野郎、いったいどこに……」


「やっぱり、突き落とすよりも寝込みを襲った方がよかったんじゃないの?」


「ブロスのしぶとさはお前も知ってるだろ? 最近はやけに体を鍛えてやがったし、俺らじゃこうでもしないと確実には殺せねえよ……くそ、見つからねえ」


「暗くなってきたし、今日はもう無理よ。一旦帰って、ミルエッタにはありのままを報告しましょう」


「……仕方ねえか。明日また出直すぞ」


 ふたりの足音が遠ざかり、やがて消えていく。

 そうしてから手を動かしてみると、すぐに指先が草木に触れて、視界が開けた。

 どうやら藪の中に落ちたらしい。そのおかげで、クリザとユーメには気づかれずに済んだようだ。

 状況を再確認すると、胸の奥から言いようもない悲しみがこみ上げてきた。


 ……俺は、全てを失ったんだ。


 あのふたりが、ミルエッタに命ぜられて俺を殺そうとした。

 俺は、死んでも悲しむ人がいない人間だから──そんな自己正当化の言葉もつけて。

 怒りよりも、ただただ悲しくてたまらなかった。


「……み、ず……」


 力を振り絞って地を這い、薮から抜け出す。

 すぐ目の前に小川が流れており、せせらぎの音が聞こえていたのだ。

 カラカラに乾いた喉を潤そうと、頭から小川に身を乗り出す。


 そのまま身を滑らせ、俺は川に落ちた。


 力の入らない体が流され始め、鼻と口から入り込んだ水が肺に侵入する。

 激しく咳き込みながら、俺は再び“死”を感じた。


 ……このまま、死にたい。

 俺の周りで漂っている無数の泡に溶けて、消えてしまいたい。

 そんなことを思いながら、目を閉じた。




 ……馬の蹄が地面を踏み鳴らす音で、再び目を覚ました。


 また長い間気絶していたのか、太陽の光が頭上から照らしていた。

 うつぶせに寝転んだ体が、一定の周期で揺さぶられる。

 この振動には覚えがある。馬車のものだ。


 俺は身を起こそうとしたが、背中に鋭い痛みを感じて動けなくなった。


「ぐっ……!」


「動かない方がいい」


 すぐ横から、しわがれた老人の声がした。

 そちらに首を向けると、品の良さそうな老人が座席に座ってこちらを覗き込んでいた。


「……あなたは……?」


「ここから遠く離れた町で酒場をやってるだけの、ケチなジジイだよ。今は旅行の帰りでね。君が川上から流れてくるのを見て、とっさに助けた」


「……そう、ですか」


 お礼を言うべきかどうか判断がつかず、俺は暗い顔で頷くのが精一杯だった。

 ここで助けてほしくなんてなかった。いっそ、あのまま──。


「死んでいた方がよかった、か?」


「……!?」


 考えを言い当てられ、俺は目を剥いて老人を見つめた。

 老人は困ったように苦笑する。


「君の背中に深々と突き刺さったナイフを見れば、何が起きたのかは想像できる。よほど背中が無防備でなければ、そうは刺さらん。……裏切られたんだろう? 信じていた誰かに」


「……わかっているなら、このまま死なせてください。俺には家族だっていない。もう……何も、残っていないんです」


「それは違うな。君にはまだ、命がある」


 老人は真っ白な太い眉を一直線にして、力強く言い切った。


「つらい目に遭いながらも、君は生き残った。それにはきっと意味がある。まだやらねばならないことがあるから、君は生き残ったのだ」


「……そんなの、ただの悪運です。たまたま死ななかっただけですよ」


「そうでもないぞ? なぜなら、君の助けを必要としているジジイがここにいるからの」


 老人は自分の顔を指さして、ニッと笑った。


「君のように健康そうな若者が、死を選ぶなんてもったいない。死ぬくらいなら、ウチに来て働いてくれんか。ちょうど人手不足で困っとるんだ」


「……それが、俺のやるべきことだと?」


 この老人が、優しさで俺を誘ってくれているのはわかる。

 だがその気持ちをすぐに受け入れる気にはなれず、俺は聞き返した。

 老人は、力強い笑みから柔和な笑みへと表情を変えながら答える。


「わしが君に与えられるのは、せいぜい腰掛け程度のものだよ。自分が本当は何者なのか……何ができて、何をすべきなのか……そんなもの、いざというその時が来るまで、本人にもわからん。だが、これだけは言える」


「……なんです?」


「わかる前に死んだら、永遠にわからないままだ。……それでは寂しかろう? せっかく生まれた命だ。本領を発揮するまでは……とりあえず生きたらどうだね。死ぬのはいつでもできるが、死んだら生き返れないからな」


 老人は一瞬だけ寂しそうな目をしたが、すぐに元の笑みに戻って続ける。


「それまでは、うまい酒とメシを客に出して、喜ばれる暮らしをしてみないか? 酒場は楽しいぞう」


「……いいですね。楽しそうだ……本当に」


 自分の声が震えているのがわかった。

 涙でぐちゃぐちゃに歪んだ視界を塞ぐように目を閉じて、俺は何度も頷き返した。


 それが、俺と『黄金郷エル・ドラド』のオーナーの出会いだった。




 それから俺は、事件のあった地から離れた町へと移り住み、酒場『黄金郷』で働き始めた。

 慎ましくも幸せな日々の中で、俺は自分が失ったものに時折思いを馳せながらも、新たな安寧を得ることに成功した。


 少し経った頃に一度だけ、『ミルエッタが、ブロスという男を捜している』という噂が耳に入ったことがあった。

 俺の死体が見つからなかったのを不審に思い、確実に殺すつもりで捜し始めたのだろう。

 オーナーが手を回して俺の存在を隠してくれると、やがてそんな噂も聞かなくなっていった。


 だが、それから10年の月日を挟んで、再びミルエッタと再会することになろうとは、夢にも思わなかった……。

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