三十  溢幻

 秩序を乱したとしてヨンジェは砦の牢に入れられた。斬られなかったのは、その言葉の一部に共感する人が少なくないことを、ウェイゴンが理解していたからだ。ひとまず、騒ぎは落ち着いていた。みこさまは戸のついた部屋に移されて、メイがその前で守っていた。

 今、ザオの前にはウェイゴンがいる。建物の外の、手当てが続けられている横で、何があったのかを話してくれている。聞きたくなくて、でも聞かないとおかしくなりそうだったし、攻月台コウゲツダイの一員として聞かないわけにはいかなかった。

 相手の急襲を迎え撃つ黒翅隊コクシタイと、自分たちも残ると言った攻月台の一部の兵士たちは、合わせて四百名ほどだった。相手は十倍ほどだった。相手は数あるカファ国側の陣の中でも、黒翅隊のいる場所に的を絞ってきていた。そこ以外も含め、今ロウゲツ国にいる攻月台全軍でかかればぎりぎり互角という相手だったが、準備ができていない状態でそれは不可能だった。残った人たちは、小高い場所から矢を放って威嚇し、騎馬であえて正面から突撃して崩した。

 「あちらは、わが軍を攪乱することを目的としていたようだ。むやみに追いかけて殲滅しようなどとは考えていなかった」

 ウェイゴンは言った。顔も傷だらけで、巻かれた包帯に血がにじんでいる。そばにあった丸太に座ってもらい、ザオはその前に立っていた。

 「あれはシャ将軍ではなかった。璧府ヘキフの旗を掲げていた」

 ザオは奥歯をかみしめた。やはり璧府が出てきたのだ。

 「璧府など出ては来ぬと思っていたな。隙が生まれていた」

 ウェイゴンは遠くを睨みつけている。

 「しかし多勢にも、みなよく戦った。正面突破してうしろからまた突っ込むことを繰り返した」

 黒翅隊だ。十倍の相手でも、混乱させることは容易にできる。

 「もうすぐ切り崩して撤退させられるかと思えるほどだった。しかし」

 ウェイゴンはザオの目を見た。鷹のような視線に、今はぞわりと怖気がした。

 「シャ将軍が城から打って出た。そしてなぜか、璧府の軍を攻撃し始めた」

 理解が追い付かなくて眉を寄せる。ウェイゴンは厳しい表情で続ける。

 「混戦になった。何が敵か味方かわからない状態だ。しかし璧府はシャ将軍の兵に過剰に反応していた。同士討ちが始まりわれらはほとんど捨て置かれた」

 意味がわからない。シャ・ジュンの軍団も戦えるのなら、敵の精鋭部隊をうちひしぐ好機だったはずだ。それを放置して内輪で殺し合うのか。

 「なぜそのようなことを」

 「わからぬ」

 ウェイゴンは唸った。

 「わからぬが、それに首を突っ込む義理もないゆえ撤退してきた。詳しいことはシュンに頼んである」

 ザオは思わずこめかみを押さえた。それで全滅などせず退却できたなら、よかったのだろう。でも何が起こっているのかわからなくて、空恐ろしい。

 「半分にはなっておらぬ」

 ウェイゴンは急にそう言った。

 「半分はおおげさすぎる。しかし犠牲が出たことは確かだ。八十六名が戻っていない。捕らえられた者もおるやもしれぬが」

 どんな顔をすればいいのかわからなかった。湧いてくる感情の色も温度もわからなかった。ただ、ぬめっていることだけはわかった。

 「そのことだが」

 ウェイゴンが立ち上がり、両肩に手を置かれた。ずしりと重みを感じた。そのときが来てしまったと、とても静かに凪いだ心で思った。

 ウェイゴンは告げる。

 「ユン・グワン蛹士ヨウシはなくなられた」

 はい、とザオはこたえた。声が出ないかと思ったが、するりと返事をすることができた。もう、わかっていたからかもしれない。

 「立派だった」

 そう言ってくれるウェイゴンの、鋭いままの目をまっすぐに見て、少しだけ笑って見せる。

 「ご高配、痛み入ります」

 ウェイゴンは目をそらさなかった。いつまでも隊長と見つめ合ってもいられないから、ザオが先に目を伏せた。ウェイゴンは一度ザオの肩をぐっと掴むと、兵士たちのほうへ歩き出した。

 吹き抜けた風は涼やかだった。空を仰ぎそうになって下を向く。

 天命を悟り果たすために努めた者は、天界に生まれ変わるのだという。もうそんなところにいくなんて馬鹿なのか。

 急に唇が歪んだ。理由のわからない笑みが込み上げていた。何も愉快なことなどないのにどうして笑っているのか、わかろうとも思わなかった。




***




 ザオはしっかり地面を歩き、砦の牢に向かった。ひとつの建物が牢になっている。番をしていた人たちに声をかけて、中に入れてもらった。建物の中はひっそりと暗く、小さな音でもやけに響いた。両側に古びた木の格子戸が並んでいるが、どこも空だった。自分の足音を鬱陶しく思いながら奥へ進むと、牢に唯一の人の姿を見つけた。

 ザオは格子戸の前にしゃがみ込んだ。戸の向こうにいるヨンジェは、抱えた膝に顔をうずめて、うずくまっていた。

 「ヨンジェ」

 そっと名前を呼ぶ。ヨンジェは反応しない。

 「すまん。何も持ってきてない」

 ザオはわざと見当違いなことを言ってみた。こたえてくれない。ザオは格子戸の前に腰を下ろした。

 ヨンジェの様子が気になって、ずっとひとりにしておきたくなくてここに来た。でも何を言うかを決めていなかったことに今更ながら気づく。いつも気さくなヨンジェに甘えていたのかもしれない。今は何も言いたくなくてあたりまえだ。頼まれてもいないのに、のこのこやってきたのなら、こちらから何か伝えなければならない。

 ザオは愚鈍で嫌になる頭をひねった。

 ヨンジェは、みこさまが嘘をついていると言っていた。みこさまのことについて考えるのはあとにして、ヨンジェの叫びを思い出す。ヨンジェは、かわいらしい弟みたいな雰囲気を醸しているが、気が利くし機転も利いて、周りを見て的確な判断をすることができる。でも、それがすべてではないことは知っている。みこさまに対して叫んでしまったのは、きっとザオには見えていない何かが理由だったのだ。

 「ごめんなさい」

 急にくぐもった声がして、ザオはちょっと驚いてしまった。

 ヨンジェが顔を膝に突っ込んだまま、言ったのだ。やっぱりヨンジェに、先に喋らせてしまった。ザオは格子戸に近づいて手をかけ、中を覗き込んだ。

 「どうした」

 ヨンジェがふるふると首を振る。

 「ごめんなさい」

 「だいじょうぶだ。ヨンジェはよく戦ってくれた。帰ってきてくれて本当によかった」

 「よくないです」

 ヨンジェは顔を上げていた。目を見開き、唇をかみしめている。暗いのに、頬の古傷が開いてしまったかのように、はっきりと見える。今にも崩れてなくなってしまいそうな痛々しい表情だった。棘にまみれた熱いものが喉の奥から込み上げてくる心地がした。こいつにこんな顔をさせるのは誰だと、怒りを感じていた。情動を抑えてたずねる。

 「どうしてよくないんだ」

 ヨンジェの顔が歪んだ。

 「だって、おれが」

 膝をぐっと抱きしめて、ヨンジェは絞り出すように言った。

 「ユン蛹士のこと、おれのせいです」

 正面から刺し貫かれたようだった。

 「ユン蛹士がなくなったのはおれのせいです」

 透明な血が流れていく。感触も匂いもしない血があふれだしている。ああだめだ、こんなに血を流したら、死んでしまう。

 「グワンさんはおれが死なせた」

 ザオは首を振った。それは違うからだ。死にそうでも伝えなければならない。絶対に。

 「ヨンジェ」

 「おれです」

 ヨンジェは振り切るように喚いた。

 「おれのせいです、おれがいなかったら、ちゃんと帰ってきてた」

 ヨンジェが床に這いつくばるようにしてうずくまる。

 「おれが、おれ、グワンさん、なんでグワンさん……っ」

 取り乱すヨンジェを目にして胸が張り裂けるような悲鳴を聞いて、頭が真っ白になりかける。でもだめだ。そんなのではだめだ。ザオは必死になって、格子戸のあいだから腕をねじ込みヨンジェの腕を掴んだ。

 「ヨンジェ、違う」

 「だめですおれが殺したんですおれが全部おれのせいです」

 「頼むヨンジェ、違う」

 「だめだこんなの絶対だめだあんな人絶対死んじゃいけないのに死ぬなんて絶対おかしいのになんでこんな」

 痛い。見えない傷がどんどん広がってもう流れる血もなくなっていく。あんまり痛くて意識が飛びそうだ。体のことじゃないのにこんなのおかしい。

 わかってしまった。グワンがしたことが、したかったことがはっきりとわかった。ザオはヨンジェの腕を捻り上げるようにして怒鳴った。

 「グワンはおれが殺した」

 ヨンジェがぴたりと自分への呪詛を止める。苦しそうに背中を上下させながら床を凝視している。ザオはそっとその背中をさすった。

 「勝手なこと言って悪い。でももうやめてくれ。死にそうだ」

 ヨンジェが細かく震えるように首を振った。

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