三十 溢幻
秩序を乱したとして、ヨンジェは砦の牢に入れられた。斬られなかったのは、その言葉の一部に共感する人が少なくないことを、ウェイゴンが理解していたからだ。みこさまは戸のついた部屋に移され、
ザオは、丸太に腰を下ろしたウェイゴンの前に立っていた。何があったのか、話を聞かなければ、ならなかった。
相手の急襲を迎え撃ったのは、
「あちらは、わが軍を攪乱することを目的としていたようだ。むやみに追いかけて殲滅しようなどとは考えていなかった」
ウェイゴンは言った。
「あれはシャ将軍ではなかった。
ザオは奥歯を噛みしめた。やはり璧府が出てきたのだ。
「璧府など出ては来ぬと思っていたな。隙が生まれていた」
ウェイゴンは遠くを睨みつけている。
「しかし多勢にも、みなよく戦った。正面突破してうしろからまた突っ込むことを繰り返した」
黒翅隊だ。十倍の相手でも、混乱させることは容易にできる。
「もうすぐ切り崩して撤退させられるかと思えるほどだった。しかし」
ひたりと、鷹のような目にとらえられる。今はぞわりと怖気がした。ウェイゴンはザオを見据えたまま、続きを口にする。
「シャ将軍が、城からうって出た。そしてなぜか、璧府の軍を攻撃し始めた」
なぜ。
「混戦になった。何が敵か味方かわからない状態だ。しかし璧府はシャ将軍の兵に過剰に反応していた。同士討ちが始まりわれらはほとんど捨て置かれた」
なぜ。意味がわからない。シャ・ジュンの軍団も戦えるのなら、敵の精鋭部隊をうちひしぐ好機だったはずだ。それを放置して内輪で殺し合うのか。
「なぜそのようなことを」
「わからぬ」
ウェイゴンは唸った。
「わからぬが、それに首を突っ込む義理もないゆえ撤退してきた。詳しいことは
ザオは思わずこめかみを押さえた。それで全滅などせず退却できたなら、よかったのかもしれない。ただ、何が起こっているのかわからない、空恐ろしい。
「半分には、なっておらぬ」
ウェイゴンは言った。
「半分はおおげさすぎる。しかし犠牲が出たことは確かだ。八十六名が戻っていない。捕らえられた者もおるやもしれぬが」
そのときが来てしまうと、思った。
「ソン
ウェイゴンが立ち上がり、ザオの両肩に手を置いた。ずしりと、重かった。そのときが来てしまったと、思った。とても静かに、凪いだ心で思った。ウェイゴンはザオに告げた。
「ユン・グワン
はい、とザオはこたえた。声が出ないかと思ったが、するりと返事をすることができた。もう、わかっていたからかもしれない。
「立派だった」
そう言うウェイゴンの、鋭いままの目をまっすぐに見て、少しだけ笑って見せる。
「ご高配、痛み入ります」
ウェイゴンは目をそらさなかった。いつまでも隊長と見つめ合ってもいられないから、ザオが先に目を伏せた。ウェイゴンは一度ザオの肩をぐっと掴むと、兵士たちのほうへ歩き出した。
天命を悟り果たすために努めた者は、天界に生まれ変わるのだという。空を仰ぎそうになって、下を向く。涼やかな風が吹いてくる。
急に、勝手に唇が歪んだ。理由のわからない笑みが込み上げていた。何も愉快なことなどないのに、どうして笑っているのか、わかろうとも思わなかった。
***
ザオはしっかり地面を歩き、砦の牢に向かった。厩のような建物だ。番人たちに声をかけて、中に入れてもらった。建物の中はひっそりと暗く、小さな音でもやけに響く。通路の両側に古びた木の格子戸が並んでおり、どこも空だった。自分の足音を鬱陶しく思いながら奥へ進むと、牢に唯一の人の姿を見つけた。
ザオは格子戸の前にしゃがみ込んだ。戸の向こうにいるヨンジェは、抱えた膝に顔をうずめている。名前を呼んだが、反応はなかった。
「すまん。何も持ってきてない」
わざと見当違いなことを言ってみる。でもやはり、こたえてくれない。ザオはその場に腰を下ろした。
ヨンジェの様子が気になって、ずっとひとりにしておきたくなくてここに来た。でも今は、何も言いたくなくてあたりまえだ。頼まれてもいないのにのこのこ訪ねてきて、話そうとするなど迷惑だ。でも、すぐにここを離れようとは思わなかった。
「ごめんなさい」
不意に、くぐもった声がした。ヨンジェが顔を膝に突っ込んだまま、言ったのだ。ザオは格子戸に近づいて手をかけ、中を覗き込んだ。
「どうした」
ヨンジェはふるふると首を振る。
「ごめんなさい」
謝ることなどないだろう。ザオはできる限りにそっと、ヨンジェに言葉をかける。
「だいじょうぶだ。ヨンジェはよく戦ってくれた。帰ってきてくれて本当によかった」
「よくないです」
遮るように言って、ヨンジェが顔を上げる。目を見開き唇を噛みしめていた。暗いのに、頬の古傷が開いてしまったかのように、はっきりと見える。
棘にまみれた熱いものが、喉の奥から込み上げてくる心地がした。こいつにこんな顔をさせるのは誰だと、怒りを感じていた。情動を抑え、どうしてよくないのかとたずねると、ヨンジェの顔が歪んだ。
「だって、おれが」
膝をぐっと抱きしめて、ヨンジェは絞り出すように言った。
「ユン蛹士のこと、おれのせいです」
ヨンジェが何を言ったのか、わからなかった。聞き返そうとした。でもその前に、ヨンジェは続けた。
「ユン蛹士がなくなったのはおれのせいです」
背後でかさりと、鼠か何かが動く音が聞こえた。しつこく、ヨンジェは重ねる。
「グワンさんはおれが死なせた」
ザオは首を振った。
「ヨンジェ」
「おれです」
ヨンジェは振り払うように喚いた。
「おれのせいです、おれがいなかったら、ちゃんと帰ってきてた」
そしてヨンジェは、突然に這いつくばった。床に額をこすりつけた。悲鳴を上げた。
「おれが、おれ、グワンさんなんでっ、おれが、なんでグワンさん……っ」
気がつけば、透明な血が流れていた。感触も匂いもしない血が、おもしろいように、あふれだしていた。ああ、死んでしまう。でも、だめだ。こんなのでは、だめだ。ザオは格子戸のあいだから手をねじ込み、ヨンジェの腕を掴んだ。
「ヨンジェ、ヨンジェ違う」
「だめですおれが殺したんですおれが全部おれのせいです」
「頼むヨンジェ、違う」
「だめだこんなの絶対だめだあんな人絶対死んじゃいけないのに死ぬなんて絶対おかしいのになんでこんななんで────」
見えない傷が、どんどん広がってもう、流れる血もなくなっていく。意識が飛びそうだった。わかってしまったから。グワンがしたことが、はっきりとわかったから。でもそのためにヨンジェが、こんなにも自分を追い詰めることなんかないのだ。違うのだ。違う。絶対に、違う。だからザオは、ヨンジェの腕を捻り上げて怒鳴った。
「グワンはおれが殺した」
ヨンジェがぴたりと、自分への呪詛を止める。苦しそうに背中を上下させながら床を凝視している。ザオはそっとその背中をさすった。
「勝手なこと言って悪い。でももうやめてくれ。死にそうだ」
ヨンジェは細かく震えるように首を振った。
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