畏愛慈眼

二十  暴花

 いくつもの青い旗を掲げた軍団が、目の前に迫っている。シャ・ジュンが率いる軍勢だ。敵軍と対峙し、兵士たちのあいだの空気は張り詰めていた。うかつに動けば身体が切れそうなほどだ。息をすることすら、なんだか申し訳なく思えてくる。今は心も体もぬるむ、やさしい季節だというのに。

 それでも、怖くはなかった。何度か経験して戦には慣れていた。人の血や死にも。そもそも、人の亡骸を踏みつけて蹴り飛ばしてけらけらと笑うことができたのだ。戦など恐れるはずがない。そして何より、これは「天命」だ。

 わたしは「巫女」なのだ。

 黒い騎馬兵に囲まれた、馬の上で。力を込めて旗を振ると、黒い蝶が舞う。翅の鳴る音が、静寂を破る。

「見よ!」

 あたり一帯に響き渡る声で呼びかけたのは、攻月将軍コウゲツショウグンだ。

「黒の御旗を見よ!」

 最前列付近にいる将軍は、馬首を巡らせ旗を示し、攻月台コウゲツダイの兵士たちに声を飛ばす。

「われらには神が、巫女さまがおられる!」

 その大音声に触発され、周囲で熱が湧き起こるのがわかる。旗を振り続ける。熱を煽る。遠くからも、見えるように。ロウゲツ国軍にも、シャ・ジュンにも、見えるように。

「神のお導きを受け、カファ国を取り戻すのだ!」

 将軍の叫びに兵士たちが力強く呼応する。山のあいだで反響し、空気を何度もぐらぐらと揺らした。

「正しき戦ぞ!」

 そうだ。これは正しい戦だ。

「叫べ! われらの声で敵も尻込みしておる!」

 兵士たちの声が大きくなっていく。心臓も震えるような叫びだ。カファ国勢は音の塊になっていた。声を上げていないのは、そばにいる四人くらいだった。この人たちはたぶん、「巫女」のいちばんそばでむやみやたらと絶叫するわけにはいかないのだろう。

 すぐ前の馬に乗っているのはヘイエだ。広い背中になんとなく安心感があった。すぐうしろにはメイの気配を感じる。この人の操る馬に乗っていれば、まず危ない目には遭わない。そして両脇には、あとのふたりがいる。グワンは、前を見つめてうっすらと笑みを浮かべているように見えた。ずいぶん余裕だ。確かにこの戦、余裕だけれど。もうひとりのことなどは、見なかった。

 雄叫びの壁の向こうから、別の音が聞こえてきた。ロウゲツ国側の兵士たちも叫び声を上げているのだ。ふたつの音の塊が、厚い雲のように頭上を覆っていく。ぶつかり合ってせめぎ合う。人の声なのに、人の声には聞こえなかった。潮騒か、瀬鳴か、瀑声か。あるいは、無音。

 空を何かが飛んでいく。ほっそりした鳥みたいなそれは、鏑矢だった。鏑矢を合図に、前列のほうで怒号が上がり、一斉に矢が放たれるのがわかった。そしてこちらにも飛んでくる。降り注いでくる。防壁となる盾に、見覚えのある矢が大量に突き刺さる。そして槍を手にした最前列の兵士たちが突っ込んでいく。槍の穂先がぎらりと、獣の歯のように光るのが見えた。そして両軍がぶつかる。

 「巫女」の周囲も進み始めた。旗の竿を握りなおす。「巫女」はみんなにちゃんと見えるように、旗を掲げていなければならない。この御旗を追ってこいと、言ったから。本当は、追ってこいではないと思う。先陣を切るわけでもないのに。でも言葉の綾だから、許してほしい。

 この戦は必ず勝つ。

 騎馬隊の突撃を命じる太鼓が、遠くで聞こえた。メイが馬の腹を蹴る。周りを固めた黒い騎馬兵とともに、走り出す。ほんのりとあたたかい風が、頬を撫でて通り過ぎていく。向こうから、青い旗を背負った騎馬兵が向かってくる。目をしっかりと開いて見つめる。突き進んでいく。

 黒と青がぶつかる。青の馬は悲鳴を上げて棹立ちになり、青の騎馬兵は地面に叩きつけられ、青の歩兵はほとんど視線も送られないまま倒れた。

 黒翅隊コクシタイは隊形を保ったまま、武器を曲芸のように華麗に扱い、笑ってしまうような勢いで道を開いていた。中心で守られた「巫女」は刃を向けられることもない。目の前のロウゲツ国兵たちがまばらになったところで、「巫女」と専属護衛の四人は黒い鉄壁の中から離脱した。そしてもと来た道を戻る。戦場は馬も人も入り乱れて混戦となっていた。砂埃の中で、打ち合い組み合う兵士たちが見える。むせかえるような熱い空間を駆け抜けながら、声を張る。これが「巫女」の使命だ。

「カファ国だ! 勝つのはカファ国だ!」

 駄々っ子みたいな言葉は単純で、大声で言いやすい。あまり凝ったせりふは、戦う人たちに聞かせるのにも、叫ぶのにも向かないことがわかってきていた。

「カファ国の勝ちだ! 進め!」

 こたえてくれる声が上がる。青い紋の鎧を着た人たちが、なんだあれはと呆気にとられた様子で見ている。黒の精鋭に囲まれた神憑りの娘が叫ぶことで、戦意の高揚と喪失の両方をかなえることができる。と、シャ・ジュンが言っていた。きっとそのとおりだ。

 それでも、声を上げながら向かってくる青い兵士たちがいる。うしろのメイが、こともなげに槍を片手でさばく。その一閃で、人々は地面に沈んだ。ずっとうしろにいてもらってわかった。アン・メイという人は本当に、精鋭なのだ。「巫女」が前にいる状態で馬を操りながら、槍を使う。最初はちょっと信じられなかった。でも今は、そもそもメイが対応すべき相手はほとんどいなかった。周りの三人がすべて遠ざけている。飛んでくる矢も、ただの棒切れみたいに切り落とされている。この三人も、相当な手練れだった。やはり黒翅隊なのだ。選び抜かれた猛者たちで構成される黒翅隊は、ロウゲツ国でも有名なくらいだ。だからロウゲツ国兵たちが恐れているのは、「巫女」だけではない。

 隊列がほとんど崩れてぐしゃぐしゃになっている中、整然と並んで走り回っている四頭の馬と、その上のわけがわからないほどやり手な黒の武者たちと、それに守られ旗を掲げて絶叫し続ける「巫女」。全てがきっと、異様だ。

 しばらくすると、手出ししてくる人もいなくなってきた。地面は赤黒く染まり、ぼろきれのようになった青い旗があちこちに落ちている。青い兵たちが倒れている。そろそろ潮時ではないか。ロウゲツ国側が作戦どおり、負けるふりをして退くのによいころかと思えた。

 銅鑼の音が聞こえてくる。ロウゲツ国が、退く合図だ。退却していくロウゲツ国兵を、カファ国兵が追撃する。でもその先には、追いかけてきたカファ国兵たちを包囲する伏兵がいる。ロウゲツ国側は、そう思っている。でもそんなものはいない。潜ませていた伏兵は、黒翅隊が先頭に立つ別動隊の奇襲を受けている。退却するロウゲツ国兵たちにできるのは、本当に、逃げることだけだ。

「追え! カファ国の勝ちだ!」

 「巫女」として、馬の上から怒鳴り続けた。


 だって、セリュには、これしかない。

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