十九 失堰
「巫女さま?」
メイがすぐにみこさまの身体を支える。みこさまは力なく地面に座り込んだ。背中に、視線が刺さってくる。多くの人たちが、こちらを見ている。その視線にさらしたくなくて、ザオはみこさまを隠すような位置に膝をついた。
「巫女どの」
ヘイエが横からそっと声をかける。メイは、みこさまを支えた手を離していた。グワンは黙っている。深くうつむいたみこさまは、声を発さず、動かない。神の声を聞いているのかもしれない。でも、今までと何かが違う気がした。なぜか、早くしなければと焦る。
ザオはどこか遠慮している三人を押しのけて、みこさまを覗き込んだ。みこさまの背中をかばえなくなるが、さすがにうしろから顔をうかがうわけにはいかない。
「みこさま、いかがなされましたか」
うつむいたみこさまのまぶたが、震えるのがわかった。
「みこさま」
思わずもう一度呼ぶ。みこさまの顔は青白く見える。まぶたが痙攣するように動き、閉じられていく。気を失っていく人のようだ。無意識に背をさすろうとした手を、握りしめてとどめる。たくさんの人が見ている。自分ではだめだと思った。比較的ましなのはメイだろう。ザオはメイを見た。メイは目を見開いて、戸惑っていた。
「メイ、抱えてくれ」
「えっ、でもこれって」
「運べ」
鋭く命じたそのとき、みこさまの手がぎゅっと草を握りしめるのが見えた。
「巫女さま」
メイが声を上げる。いつの間にか、あたりを静けさが満たしていた。天幕の前からも、背後からも、みこさまに無数の目が向けられている。何かを望むように、食い入るように見つめている。いちいち確認しなくてもそれがわかる。ぐっと喉が詰まる。
かすかな声が、聞こえた。
ザオは唇をかんだ。
来る、とみこさまは言った。
「敵が来る」
ゆらりと上げた顔は蒼白だった。それでも、さきほど閉じられたはずの目は大きく見開かれ、黒々と光っていた。みこさまは突然大きく息を吸って、声を張り上げた。
「敵は城にはこもらない」
ざわめきが広がり、みこさまは背中を丸めて咳き込む。ザオはてのひらに爪を立てた。天幕の前からウェイゴンが駆け寄ってくる。
「城から、出てくる。われらを追い返さんと、攻めてくる」
みこさまは絞り出すように言った。
「しかし攻めてくるのは、囮だ。囮を使い、われらを山間に誘い込もうとする。敵の愚策に、のってはならぬ」
言い終えた途端にくたりと力が抜けた身体を、少し遅れてメイが支えた。
***
みこさまの言葉のとおりだった。進む先に城を持つコウ州の将軍は、城で
シュヌエン国もロウゲツ国の北へ攻め込んでいる今、ほかからのじゅうぶんな支援が望めないからかもしれない。攻月台は総勢三万の兵を有しており、それがつぎつぎに進軍してくる今、すべてが到着して城を包囲する前に追い払っておきたいと考えたのかもしれない。もしくは、約束を違えて国の西側を蹂躙する宿敵に対し、守りになど入らないと決めたのかもしれない。コウ州の将軍を務めるのは、ロウゲツ国皇帝のおぼえめでたい歴戦の名将だ。名をシャ・ジュンという。
攻月台はこれより出陣し、山のあいだの平地を進む。シャ・ジュンが率いるコウ州の軍も、すでに進んでいるようだ。いずれ両軍はぶつかることになる。神の言葉を伝えるみこさまによると、シャ・ジュンの側は囮を使った作戦を使ってくるようだった。
出会い頭に戦って、一度負けたふりをして逃げ出す。逃げる先に伏兵を置いておき、追いかけてきた攻月台を一網打尽にする。高くはないが山が続く地形なので、兵を忍ばせておくのも造作ないのだろう。
カファ国の赤い旗がそよ風に揺れて、澄んだ青の空に映えている。少し上を向けばそんな清々しい景色が見えるが、前を見れば人の壁だ。ロウゲツ国に入った攻月台の兵は、すでに五千を超えていた。そのほとんどが、今目の前にいる。ウンバン砦を出たときよりも圧倒的に多いし、あの戦のときよりも多かった。
ザオは記憶を堰き止めた。今見えるものは今ここにあるものでしかなくて、それを目にして何かを想起する必要はないのだ。してはならないのだ。そうしないための技術は二年前から必要な気がしてきて、わりと早い段階で習得しているし、たいていうまくできる。戦の中で生きるしかないのなら、ひりつく空気や大軍などにいちいち反応してはいられない。
少し前に、みこさまがいる。みこさまは黒の旗を手に馬にまたがり、凛と背筋を伸ばして大軍と向き合っている。みこさま以外に、馬上の人はいない。今はメイも下に立っている。しかし不意に、ひとり高いところに座っていたみこさまが、すとんと地面におりた。その途端に大軍が、前から波が起こったようにひざまずき始めた。
今まで攻月台を負けなしで引っ張って、兵士たちをいたわり、そして多くの人の眼前で神の言葉を聞いたみこさまの力は、絶大だ。敬われ称えられている。
ほかの陣から見に来ようとする人もいたようだ。ある陣の指揮官は、勝手な行動をした者、つまり抜け出して「巫女」を見に行った者は斬ると申し付けたそうだ。同じ陣にいる人たちは、反対に恐れ多くて近づけないというふうだった。そんなことでも思い出していれば、きっと気が紛れる。
この戦について神の言葉を伝えたとき、みこさまの様子は今までと違った。激しく叫んではいなかった。でも確かに、言葉を授けてくれた。カファ国を勝利に導くであろう言葉を。
目の前の波が落ち着くと、みこさまは両手で大きく旗を振り始めた。その場の空気を清めるように、翅がたなびく。尊く黒いその蝶を振り仰ぐ兵たちに向かって、みこさまは呼ばわった。
「神はわれらとともにあります」
声が届かない、遠くにいる人にも見えるように、みこさまは全身で旗を振っている。兵たちは、それをじっと、見つめている。ふと、みこさまが動きを止める。竿に、すがりつくようにして叫んだ。
「この御旗を追ってこい」
背中がぞくりとする。激情をのせた叫びだった。その声にこたえ、雄叫びが上がる。伝染していく。
それは、眩暈がするほどの轟音だった。空と地面が震えて逆転して混ざり合ってしまったみたいだった。堰き止めたはずのものが流れ込んでくる。
どうすればいい。どこに行けばいい。こんなのには本当は、価値も意味も、ない。
突如、脳天を殴られて我に返る。前にいたグワンが、振り返って見ていた。少しあきれたように笑っている。何も言えずに見つめ返す。
「誰も見てねえからってぼけっとすんな」
雄叫びのために声はよく聞こえないが、グワンがだいたいそんなことを言ったのがわかった。
「おれが守ってやるよ、
グワンはからかうように言って、前に向き直る。ザオはゆっくりと深呼吸をした。少し油断してしまった。
グワンの背中を睨む。黙っているがいいのである。聡くてやさしすぎるのだ。この死に急ぎが。
それよりも、とてつもない熱気だ。技術を駆使してザオは感慨に浸る。この声は、相手にも聞こえているかもしれない。このぶんだと、別動隊なしで伏兵にも勝てそうですらある。みこさまは、やっぱりすごいのだ。重たすぎるものを背負って、それを熱心に見つめる人たちに、しっかりとこたえている。太鼓が勝利を告げるように鳴らされる。進軍が開始された。
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