二十一 乞情
勝ったのは、「神の意志」に従っているのだからあたりまえのことだった。シャ・ジュンが率いるロウゲツ国コウ州の軍団は、「作戦の失敗」により敗走した。そして夜が来た。
戦場となった山間の平地には、血染めになって破れた旗と、血染めになって倒れた人が今もそのままにされている。野戦の場合、終われば近くに住む人たちが金目のものをあさりに来たり、埋葬をしに来たりするのだそうだ。放っておかれることもあるらしい。戦についてシャ・ジュンに聞いたらそう言った。
まだ息のある人もいるだろうが、襲われて身ぐるみはがれるか助けられるか、助けられたとして傷が癒えて生き続けられるかは運次第だとも聞いた。里の人たちは、今日暮らすのにも事欠いている。国や州を守るために戦う人たちでも、関係なく襲うことがあるようだった。身分のある兵士ならなおさらだ。
セリュは広い天幕の中にいた。筒のような形をしていて、屋根は空に向かって突き出している。中は小さな火が焚かれていて、ほんのりと明るくあたたかい。中心には、木の台の上に白い布を敷き詰めた「御座所」が設けられていた。ここは「巫女」の座る場所兼寝台だ。
その台に座り、セリュはじっとしていた。特に何もしていないし何も考えていなかった。それは自覚していたけれど、今は何かをするとか考えるとかいう気にはなれなかった。周りには誰もいない。だから少しだけ、ぼんやりと宙を眺めている。
天幕の前には、当然のようにいつもの護衛たちがいる。外からは、笑い声や大きな話し声が聞こえてくる。「神のお告げ」により、敵の術中に陥るはずだったところを回避して反対に陥れ、見事に勝利したのだ。みんな高揚している。先刻、「巫女」の振る旗のもとで勝鬨を上げた彼らの目は、ぎらついていた。そして「巫女」は、拝まれて、称えられた。
「巫女さま」
不意に声がした。入り口のそばにメイがひざまずいていた。いつの間に入ってきていたのかと驚いたけれど、いつものように澄ました顔をして黙っておく。メイは言った。
「お声がけ申し上げたのですが、お返事を聞き取れず勝手をいたしました。ご容赦くださいませ」
メイが聞き取れなかったのではなく、こちらがそもそも返事をしていなかったのだ。呼ばれたことにも気づいていなかった。返事がなかった、ではなく聞き取れなかったと言ってくれるのは、メイの素直なやさしさなのか「巫女」への周到な気配りなのか、わからなかった。でもきっと「巫女」だからなのだ。少し気持ちが陰って、笑えてしまいそうになる。
「夕餉をお持ちいたしました。よろしければお召し上がりください」
メイはそう言って静かに歩み寄ってくると、器の載った盆を丁寧な手つきで傍らに置いてくれた。ふわりと、やわらかい香りがする。器の中には雑炊が入っていた。ゆらゆらする明かりに照らされて、夕焼けのような色に見える。なんだか急に、力が抜けた。
「ありがとうメイさん」
ぱちん、と音を立てて、火花が弾けた。我に返ったセリュは静止した。メイも、少し首を傾げてこちらを見上げた姿勢のまま、固まっていた。
今、なんと言ったのか。
火の燃える音と人の話す声が遠くに聞こえる。自分の発した言葉が、遅れて頭の中に響く。油断した。やってしまった。目の前の景色が明滅するような気がした。
アン・メイのことは、心の中ではメイさんと呼んでいた。でもそれは、外に出してはいけなかった。いつもそばについていてくれる人たちには、特に気を付けて、ただの人間のようなところを見せずにいなければならない。慣れ合ってはいけない。そうでなければ、「巫女」の神聖さはすぐに薄れてしまうから。シャ・ジュンにそう言われていたし、セリュもそう思っていた。それなのに気が抜けて、メイさんなどと口走ってしまった。
どうしよう、とぼんやりと考える。あわてるわけにはいかない。そう、メイさんと言ったくらいたいしたことではない。何食わぬ顔を通すことを決めて、メイを見つめる。彼女は大きな目をさらに見開いて動きを止めていた。けれど突然に、がばりと頭を下げた。
「もったいないお言葉です!」
メイの声は、ひっくり返っていた。普段「巫女」に接するときの落ち着きが、どこかへ飛んでいってしまっている。
「あっでも、でもえっと、やっぱりいろいろだめですっ」
メイは下を向いたままひどくあわてている。素知らぬ顔をすると決めたのに、どうすればいいかわからなくなる。
「巫女さま、すごくうれしいんですけどでも……」
そこまで言ったメイは口をつぐみ、そして平伏した。セリュは思わず立ち上がった。この人は何をしているのか。
「ご無礼いたしました、どうかお許しくださいませ」
メイは地面に伏したまま言った。絞り出すような、懇願するような声だった。泣いてしまいそうに聞こえた。
「やはりわたくしのような者は巫女さまのおそばにいてはいけませんでした。これよりはもう御前にまいりませんのでどうか」
悲痛な叫びが突き刺さってくる。どうしてそんなに謝るのだろう。この前食べ物を配ったあとも、メイは懸命に謝っていた。言葉にしない気持ちを汲んでくれて不思議な気持ちだったけれど、セリュは怒ってなどいなかったのに。今だって、許してくれと乞われるようなことをされた覚えは、セリュにはない。
でも「巫女」は。「巫女」の考えを勝手に推し量ることは無礼なのかもしれない。さきほどメイは、「巫女」に対して礼を失したのかもしれない。ここにいるのは、この身は「巫女」だ。
でも気が付くと、セリュはしゃがみ込んでメイの背中に触れていた。鎧を外した背中は、今はもう戦場を駆けまわる武者のものではなかった。セリュはそっとその背をさすった。「巫女」でもきっと、信じてくれる人に怖い思いをさせることは望まない。
「巫女さま……」
メイが小さな声を漏らす。震えていて、もう泣いてしまっていることがわかった。じわじわと、静かな痛みが胸の中で広がっていくのを感じる。何食わぬ顔で耐えられるけれど、それでも確かに蝕んでくる痛み。気づかないふりをしているうちに、もうずいぶん進んでいたことに気づかされた。
「巫女さまは、お怒りになっていないのですか」
メイの声はあんまり頼りなくて、おびえた小さな女の子みたいだった。セリュはなるべくやさしく、メイの肩を撫でた。
「巫女さま、許してくださいますか」
あやすように肩を叩く。メイはひどく心細そうなまま、問うてきた。
「わたし、わたしのこと、見捨てないでくれますか」
思わず動きを止めそうになる。セリュはきゅっとメイの衣を掴んだ。それでは足りずに両手で肩を包んだ。
「わたし、役立たずだけど、こんなの全然だめで、でもごめんなさい、許してください」
メイは肩を震わせながら言った。
「見捨てないで、ください……」
心が軋むような声を聞いて、セリュは喉を通る空気が震えるのを感じた。込み上げてきたものをぐっと飲み下して、メイの肩をさすり続ける。
「ここにいるの、わたしの天命だと思うけど、でも、戦えるだけだから、たぶんそれができなくなったら、捨てられます」
メイはしゃくり上げていた。
「みんな、シュエさまも」
セリュは唇をかみしめた。
「神さまには、見捨てられないように、しなきゃいけないから」
だから、「巫女」に見捨てないでと言う。
「ごめんなさい……悪い子で役立たずで、ごめんなさい……」
セリュは覚えず天井を仰いでいた。メイがどうしてこんなことを言わなければならなくなったのか、ひとつも知ってはいない。人のことなどわかりはしない。でもメイが求めているものを、今の自分は簡単に与えることができてしまうのかもしれない。絶対に、セリュにはできないことだ。でもきっと、「巫女」にならできてしまう。
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