二十二 沈憶

 セリュは、自分の中にある乏しい慈愛をありったけかき集めて表出させる「巫女」の微笑みを浮かべた。メイの肩をとんとんと叩いて呼ぶ。メイは下を向いたまま首を振った。もう一度呼んで、首を振られて、それを何度か繰り返していると、やがてメイはゆるゆると顔を上げた。

 目の周りが真っ赤になって頬はすっかり濡れている。そんなメイを見つめてそっと笑みを深めると、メイは涙で揺れる目を大きく見開いた。地面についたままの手を取って、うなずいて見せる。涙を拭ったらしい手は、しっとりと冷たかった。メイはくしゃりと顔を歪める。涙がつぎつぎにこぼれ落ちる。

 巫女さま、とメイが喉の奥で言うのが聞こえた。セリュは微笑んだまま、メイの手を握る自分の手を眺めた。メイを安心させることができたような気がした。メイがさらに遠くなったような気がした。でもそれで、かまわないのだ。「巫女」であり続けることが「天命」だから、それ以外には何もないから。なんの役にも立たないから。

 「巫女どの」

 外から声がかかった。穏やかな声音でヘイエだとわかった。なぜだかは知らないけれど、「巫女どの」と呼ぶのもヘイエだけだし。メイがはっとしたようにセリュを見た。今、我に返ったという顔だ。でも、すぐに手を離すとか、平身低頭し始めるとかはしなかった。セリュはもう一度、メイに向かってうなずいた。

 「こたびの戦、快い勝利をお授けいただきありがとうございます、巫女どの」

 ヘイエがどこかとぼけたように言うのが、少しおかしかった。特に必要がないのに声をかけられたのは、初めてのような気がする。でもそれはたぶん、メイが用件に比して長いあいだここにいるからだ。「巫女」に対して言っているのでも、もちろんセリュに対して話しかけているのでもない。きっと、そろそろ出てこいとメイを促すための言葉だ。

 メイは涙をいっぱいにためて口を結んでいた。言葉が見つからないような、深く感動しているような顔だった。セリュは静かにメイの手を離した。メイは頭を下げると、すっと立ち上がってあとずさり、こちらに背中を向けないように出ていった。


 メイがいなくなると天幕の中は突然寒々しくなって、セリュは脱力した。台に身体を預けて座る。初めて見たメイの言葉と表情は全部、セリュの中にある痛みを思い知らせてきた。加速させた。

 こんなの全然だめだ、役立たずでごめんなさい。でも、見捨てないで。何度思ったか知れない。セリュも、メイと同じ言葉をずっと自分の中で繰り返していた。

 でも、同じではない。外に出てきた言葉が同じだっただけだ。メイの思いとセリュの思いは、同じものではない。メイの心はわからない。セリュにはわからない。セリュには、人を理解することなどできないのだ。大切な人たちのことも、何ひとつわからなかった。

 わからないのに、心がメイの涙に共鳴する感覚があった。わたしもそうだよと、抱きしめて寄り添いたくなった。あなたを苛んでいるのはなんなのと、たずねたくなった。何もわからないくせに。

 それにメイは、泣いていたけれど、出ていく直前には涙の色が変わっていた。「巫女」に微笑みを向けられて、ほっとしているように見えた。やっぱり「巫女」なのだと思った。ここにいるのは「巫女」なのだ。「巫女」でいることは、「天命」を果たすためにもっとも重要なことであって、決して怠ってはならない。だから「巫女」として、敬われ崇められ称えられるほどいいのだ。でもそれが。それを寂しいなどと、思ってしまっている。「巫女」でいることしか、できることはないくせに。

 セリュは台の上で膝を抱え込みそうになって、踏みとどまった。「巫女」なのだ。誰かを、わかりたいとか見たいとか。そんなことができるわけがないと思い知ったから、「巫女」としてここにいる。セリュという名前のひとりの人間を、わかってほしいとか見てほしいとか。そんなことを望む者は、巫女ではない。巫女は巫女であってそれ以外の何者でもない。どこから来たかも、自分の名前すらも覚えていなくて、神の言葉だけを抱いて人々を導くのだ。

 わかっている。でも今は、ずぶずぶと沈んでいってしまいそうだ。底なしの沼にはまったみたいだ。


 なんであんなことしたの。なんで死なせてくれなかったの。

 そう問われた。

 母を病でなくしたセリュときょうだいを自分の子供と同じように大切にしてくれていた、かけがえのない人に、そうたずねられた。

 反乱が鎮められて戦士たちが皆殺しにされたあと、シャ・ジュンの手配によって神殿で暮らすことになってからだった。そのときセリュは、残った人たちは誰も死なせずにすんだと安心していた。絶対に生き延びさせたかったのだ。大切な人たちの亡骸を踏みにじってでも。それがかなったから、これからも全力を尽くしてみんなを守ろうと思っていた。それが族長の娘としても、大切な人がたくさんいるセリュとしても、果たすべき使命だと思っていた。

 全員、誰かをなくしていた。同じ境遇だった。だからみんな同じ気持ちだとも、思っていた。


 神殿に入ってすぐのころは、命の危機を抜け出してみんなとりあえずほっとしているようだった。戦った人たちの亡骸を蹴散らしたセリュの意図も、わかってもらえていた。母のように育ててくれたアグと、アグの娘で幼馴染のルタは、ありがとうと言ってくれた。つらいことをひとりでさせて申し訳ないと言ってくれた。みんな、セリュを責めなかった。感謝してくれた。

 でもしばらくすると、少しずつ崩れ始めた。悪い夢を見たり、突然つらくなったり、起き上がれなくなったりした。そして小さな子供たちは、板切れの上に石を並べ、粛々と運んでめちゃくちゃに蹴散らすという遊びをするようになった。そんな様子を見て、さらに傷ついてしまう人もいた。セリュはみんなを元気づけたくて、声をかけて回っていた。

 アグも、急に倒れてしまった。セリュは妹のロカを連れて、毎日アグのいる部屋を訪ねた。

 ある日、いつものように部屋を訪れると、ルタがアグにすがりついて泣いていた。

 『お願い母さん、お願いだからそんなこと言わないで……』

 ルタは悲鳴のような声で必死に訴えていた。

 『嫌だよ母さんお願い……』

 セリュは咄嗟に駆け寄った。母のようなその人を、ルタと一緒になって抱きしめた。前よりも細くなった身体が小刻みに震えていて、愕然とした。

 『セリュ』

 アグは消えそうに小さな声でセリュを呼んだ。

 『うん、アグさん』

 痩せた身体にすがりついたまま返した声は、かすれてしまった。

 『母さん……?』

 ルタがつぶやき、直後戦慄するような気配がした。

 そして大切な人はセリュに問うた。

 なんであんなことしたの。なんで死なせてくれなかったの。

 『母さん!』

 ルタが血を吐くように叫んでセリュを押しのけた。

 床にしりもちをついたセリュは、母親にとりすがっている幼馴染の背中をぼんやりと眺めた。すると突然うしろから手を掴まれて引っ張られた。妹だった。引かれるままに部屋を出て、神殿の長い廊下で立ち止まると、まだ八歳だったロカは言った。

 『セリュ姉ちゃんはわたしたちのこと守ったよ』

 何も返せないセリュを、ロカはしっかり抱きしめてくれた。慕っていた人たちを殺されて、首だけになったその亡骸を見せられて、姉がそれを目の前で狂ったように冒涜しても、ロカは気丈だった。反乱から三年間一度も、セリュを責めたことはない。それどころか励ましてくれていた。

 『生きてなかったら何もできないでしょ』

 そうだと思った。絶対に死なせたくなかったのだ。

 セリュは、アグの部屋に通うのをやめなかった。でも必ず部屋の前にルタがいて、アグに会わせてもらえなかった。我慢できなくなり理由をたずねると、ルタはうつむいて、言った。

 『母さんは死んじゃいたいんだよ』

 それは、わかった。でもそんなのはだめだから、セリュは訪ねているのだ。それを伝えようとすると、ルタは顔を上げた。ルタは初めて見る表情をしていた。目に涙をためて、ひどく軽蔑したようなまなざしをセリュに向けた。

 『生きてるほうがつらいんだよ。生きててほしいなんてあんたの勝手じゃん。だいたい誰が生かしてくれとか頼んだの』

 身体に、穴があいた気がした。そこからさらさらとおもしろいように、何かがこぼれていった。信じてきたものが、いちばん大切だったものが抜け落ちていった。

 『なんか知らないけどずっと、わたしがみんな守りますみたいな顔して。神さまかなんかのつもりなの。なんにもわかってないくせに』

 なんにもわかってない。

 わかっていない。

 『あんたには無理だよ。あんたには無理。なんにもできてないし、なんにもできることないよ。みんなほんとはそう思ってるよ』

 ルタの声が、ひどく遠く聞こえた。

 ああ、そうだったんだと、思った。

 守れていなかった。守れないのだ。

 わかっていなかった。わからないのだ。

 ルタ姉ちゃん、とロカがつぶやいて、ルタに抱きついた。でもセリュには、ルタの顔は見えなかった。見られなかった。


 それから、神殿の長の高巫コウフに頼んで、神に仕える巫女になる手ほどきを本格的に受けるようになった。神殿の中でも、みんなとは離れた場所で暮らした。巫女になりたかったのではない。みんなの顔が見られなくて逃げたのだ。

 そうしているとある日、シャ・ジュンの使いでエナがやってきた。何もできていなくて、できることがない無価値のセリュにとって、シャ・ジュンの言葉は「天命」だった。

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