二十三 滲和
「巫女」は神の言葉を聞くから、神とつながっているから、自分の存在の価値と意味がはっきりとわかっているから、絶対に揺らがない。沈んでしまうこともない。だから、いつまでも座り込んでいるわけにはいかない。セリュは無意識に襟元を握りしめていた手を離して、メイが持ってきてくれた雑炊の椀を取り上げた。今日はシャ・ジュンの軍勢に勝ったのだ。日は暮れたけれど、みんなまだ静かにはならない。これをいただいたら外に出て、戦った人たちをねぎらって回ろうと決めた。とりあえず食べる。そうすれば気持ちも変わるはずだ。腹が減っていては何もできない。
口に含んだ雑炊は少し冷めていた。でも雑穀のいろいろな食感がして、やさしい味だった。戦場で、食料を含めた物資は貴重だから、「巫女」を優遇する必要はないと言ってある。神の意志である。きっとカファ国建国時代の巫女も、偉そうに豪華な食事を運ばせてはいなかったはずだ。そんな巫女はきっと敬われない。だからセリュの食事は兵士たちと同じものだ。器は、ほかの人よりきちんとしているのだけれど。それからこんな、「御座所」を設けられてしまっているのだけれど。やはり「巫女」は特別な存在なのだ。恭しく扱ってもらっているのは、上首尾ということでもある。ふさぎ込むべきことは何もない。
食事を終えると、セリュは立ち上がって衣と髪のかすかな乱れを整えた。一度目を閉じ、「巫女」となって天幕を出る。
入り口の近くに、ヘイエとソン・ザオがいた。ソン・ザオに顔を見られないようにさりげなく身体の角度を変える。ふたりは「巫女」の姿を見ると、同時にひざまずいた。黙って歩き出すと、黙ってついてくる。
藍の夜空の下、あちこちに天幕とかがり火が置かれている。みんな天幕の中に引っ込むことはなく、外でいくつもの輪を作っていた。食事をしながら喋ったり笑ったりしている。ゆっくりあたりを見回す。あれからメイがどうしたのかが気になった。歩き回りながらさりげなく姿を捜すことにする。
「あっ、巫女さまだ」
兵士のひとりが気づいた。表情だけでは見えるか怪しいので、少し首を傾げながら笑って見せる。巫女さま巫女さまと、たくさんの人がこちらを見始めた。ゆっくり歩み寄っていくと、人々はざわめく。広がっていくのは動揺ではなく、歓迎の空気だ。
一緒に戦に出るうちに、人々は親しげな目を向けてくるようにもなっていた。「巫女」をともに戦う仲間として敬愛しているようだ。最初はなんだか、恐ろしいものを見るような顔をしていた人も多かったので、大きな変化だった。微笑みながら、輪になった兵士たちのあいだを歩いていく。あちこちから巫女さま、と呼ばれる。声の聞こえるほうには顔を向けなかった。「巫女」は、呼べば振り向くような存在ではない。
歩いていると、ふとひとりと目が合った。セリュと同い年くらいの、まだ少年と呼べるような兵士だった。頬に大きな古傷が走っている。彼は「巫女」と視線がぶつかっても、多くの人のように目をそらしたり笑顔になったりはしなかった。じっと、見据えてくる。誰かひとりと見つめ合っておくわけにはいかないので、すぐにそっと目線をずらした。そのとき、銅鑼を鳴らすような声が響いた。
「巫女さまも召し上がるかぁ?」
思わず顔を向けると、立派な体格の兵士がどっかりと座っていた。周囲の人たちが、何言ってんですかとあわてている。
「巫女どのはもう召し上がってますよ」
ヘイエが代わりにこたえてくれた。
「そうかぁ残念だなぁ」
戦場でも聞き覚えのある声だった。よく響いて、ほかの兵士たちを鼓舞する声だ。残念だなぁじゃないですよ、ほんとにやめてください寿命縮む、などと言われて、その人は豪快に笑う。注意していた周りの人たちも、結局一緒になって笑っている。笑い声が広がる中、ゆったりと歩みを進めつつ、何気なく、斜めうしろを見る。そのとき突然に、とく、と鼓動が揺れた。
ソン・ザオがいた。セリュはソン・ザオを見ていた。なんだかやけにやわらかな表情で、周りの人たちを見つめる横顔だった。まるで、この瞬間がいとおしいと、言っているかのようだった。
それはセリュが今貼りつけている、取り澄ましたような笑みではなくて。内側からじんわりとにじんできたような、ほんのかすかなやわらぎだった。静かに目を伏せて前に向き直る。もう二度と振り返ってなるものかと誓う。
それから「巫女」の顔で陣中をしばらく回った。重いけがを負ってしまった人たちのもとへも行った。近づかせてもらえなかったけれど、血の匂いがした。その空気を静かに吸って、吐いて、息をした。
***
台の上に仰向けになって、空に向かい突き出した天井を眺めていた。
さきほど陣の中を歩いていたとき、メイを見つけた。メイは仲間たちと一緒に朗らかに笑っていた。今は天幕の外にいて守ってくれている。
天幕の周りの警護は、
今日はいろいろなことがあって、疲れているはずなのになかなか寝付けない。何か、大事なものでも探しているみたいに天井を見つめていると、急に思い浮かんできた。今日あった出来事の中で、思い出すほどの重要さなどないこと。自分に嫌気がさした。
ソン・ザオなどには、近くに来てほしくなかった。最初からずっとそう思っている。わけのわからない人だ。邪魔だった。初めて顔を合わせたときからそうだった。
黒翅隊の人たちに「巫女」として認めてもらうというのは、なかなかの難関だと考えていた。シャ・ジュンが、黒翅隊は神憑りの娘ひとりに、簡単に絆されはしないだろうと言っていたのだ。だから
初めて対面したウェイゴンやシュエがはっとしたように目を見張るのを見て、ソン・ザオが呆然とするのを見て、成功したと思ったのだ。それなのに突然、ソン・ザオは黒い幕の向こうから名前を聞いてきた。「巫女」には名前などない。「巫女」にそんなことをたずねるのはおかしい。こちらを混乱させようとしているのかと勘ぐった。でもその直後に、第一蛹ごと部屋からつまみ出されたので、そうではないらしいとわかった。妙な人がいた、要注意人物だと思った。
それからもソン・ザオは、障子戸を隔てて何度も話しかけてきた。牽制するため、わざと名前を呼んでみたこともあった。でも効果はあまりなかった。暇ではないかと聞かれたときは本当に思った、この人はなめているのか。部屋では、神殿でやっていた瞑想をしていたのだ。
人と慣れ合わないよう、本当に必要なときしか声を出さないようにしているのに、ソン・ザオは懲りずに話しかけてくる。やはり独自に何かを調査しているのかと考えた。絶対にあれに隙を見せてはならないと決めた。
ある日には、理由も説明せずに、戸を開けてくれなどと言ってきた。ついに、何かの実力行使に出ようとしているらしいことにあきれた。もちろん反応しなかった。
でも、ソン・ザオの声はいつも真摯だ。戦に出るようになり幕と戸に隔てられなくなると、まっすぐに目を見てくることに気づいた。威嚇ではなくて、何か伝えようと、受け取ろうとするような目だ。だから邪魔だった。初めから、ずっと、邪魔だった。
「巫女」として扱ってほしい。全員例外なく必ずそうしてほしい。でも「巫女」としての信頼が高まるほど、心細くなっていくのが止められない。だから油断すれば、まっすぐな目をしたあの人にすがってしまう気がする。そんなことをしたら、「巫女」ではなくなる。ただのセリュに戻ってしまう。そしてただのセリュには、ひとつも値打ちはない。
「巫女」が神の言葉を賜る場面を多くの人に見せておこうとしたとき、本当に頭がくらくらしてしまった。たぶん、それまで行軍続きだったからだ。いつものように暴れまわって見せることができないけれど、まあそれもいいかとぼんやり考えていた。神の声を聞く「巫女」の姿を知っている人たちは、座り込んだ「巫女」を見てそのときが来たと思ってくれたらしかった。でもソン・ザオはきっと、そんなふうに見てくれていなかった。やたら切羽詰まった声で呼んで、メイに何か命令していた。
初めての戦の夜に、なぜか震えてしまった。戦など怖くないはずなのに止められなくて、旗の竿を握りしめながらなんだか泣きそうだった。そんなときにソン・ザオが、急に手だけを伸ばしてきて竿を握った。ぐっとその手に力が込められた。だいじょうぶだと伝えるみたいに。
あの人は、いったい何がしたいのだろうか。全部、どうしてかわからない。神を信じていないのか。でも「巫女」を無下にしようとはしないし、なんのつもりなのか本当にわけがわからない。
普段は愛想がなくてどこか抜けているようで、周りの人たちに笑われて不機嫌そうにしていたり、世話を焼かれたりしているのを何度か見た。確かに空気を読めないところがあると思う。かと思えば、あんなにもやわらかい表情をする。あの顔を向けられた人たちは、きっとみんな気づいていない。もしかすると、本人も自覚していないかもしれない。飾りけがなさすぎた。無防備すぎた。
あの人が近くにいると、わかりたいとか見たいとか、わかってほしいとか見てほしいとか、思ってしまう。だから、本当に、邪魔なのだ。「天命を受けた巫女」だけを見つめて、あとは捨て置いて、ほしいのだ。
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