鳴動虚脱

十二  揺面

 「夜襲」

 ザオはグワンの言葉を繰り返した。グワンはひょいと眉を跳ね上げてうなずいた。

 「そう夜襲だって。巫女さまが」

 本営は早朝から緊張感が漂っていた。誰も慌てて走り回ってなどはいないが、動きに角があってぴりぴりとしている。

 「初めて見たけどさ。すごかった」

 グワンがぼそりとつぶやくように言った。

 「やっぱり神さまだって思った。一瞬動けなくなって」

 ザオは軽く唇をかんだ。さきほどみこさまが、神の声を聞いたらしい。喉が破れそうな大声を上げながら、梁から引きちぎった黒い布が身体に絡みつくのもかまわず、床をのたうち回っていたのだという。みこさまのそんな様子を初めて目の前にしたグワンは、大きな衝撃を受けているようだった。今、みこさまは動ける状態ではなく、メイがそばについているらしい。

 「今夜が好機だから、夜襲しろって何回も」

 「そうか」

 砦じゅうに連絡が回っているので、実行することは決まっている。空気が張り詰めているのはそのせいだ。しかし何も、みこさまが叫んだというだけで決定したことではない。もともと今日、ロウゲツ国側の空になった砦にカファ国側の拠点を設けるために進軍し、機会を見て近辺に攻撃を仕掛ける予定だった。黒翅隊コクシタイは、戦で先鋒を務めることが多い。だから攻月台コウゲツダイでいちばん最初に砦に乗り込むことになっていた。そんなときに、それでいい、好機は今夜だという神の言葉を、みこさまが告げたのだ。みんな背筋が伸びて集中していた。

 「なんかひさしぶりだな」

 グワンが言う。さっぱりとしたいつもの口調に戻っていた。ザオはうなずく。攻月台に入ってから戦が起こるのは、これが初めてだった。

 「ソン蛹長ヨウチョウ、ユン蛹士ヨウシ

 低く呼ばれ、すぐに身体を向けて礼をとる。黒の上衣をなびかせて歩み寄ってくるのはウェイゴンだった。ウェイゴンは普段と変わらず、飄々とした様子で言った。

 「任務ご苦労。リョウ蛹士も呼んである。第一蛹ダイイチヨウはここで、引き続き巫女さまの護衛を頼む」

 第一蛹は、進軍には参加しないことになっていた。だから夜襲にも加わらない。

 「御意」

 ザオがすぐにこたえると、ウェイゴンはうなずいて去っていった。

 「おれらずっとお留守番なのかね」

 グワンが少しおどけたように言って肩をすくめる。今、第一蛹の任務はみこさまの護衛だから、もしかするとずっとウンバン砦に残ることになるのかもしれない。しかし、軍団の帰る場所を守ることは大切なことだ。それにウンバン砦の背後にはトラジ大城タイジョウの領民たちが暮らしているから、もしものことがあったときにはここを死守する必要がある。お留守番も気楽ではない。

 「出たいのか」

 戦に。軽くたずねたが、グワンはこたえなかった。返事しろと思って顔を見ようとすると、あらぬほうを向いていて見えなかった。

 「あっ、ヘイエさん!」

 グワンが建物に入ってきたヘイエに駆け寄っていく。捕まったヘイエは穏やかに言った。

 「おはよう。なんかいろいろ動いてるなあ」

 「ひとごとみたいですね」

 グワンが指摘すると、ヘイエは急に、わたし大まじめですという顔をした。

 「ひとごとぐらいがちょうどいいだろ。わああ、なんかすげええ」

 「不謹慎ですよ」

 文句を付けながらグワンは笑っている。

 「冗談じゃない話はさておき」

 ヘイエがぽんと両手を合わせる。グワンが首を傾げた。

 「なんですか?」

 「この戦な、シュヌエン国とミモリ王国も動くってさ」

 ヘイエはさらりと言った。

 「おおそれは」

 口を覆ったグワンと顔を見合わせる。シュヌエン国は、ロウゲツ国と敵対する者同士として同盟を結んでいる北東の国だ。ミモリ王国は半島の東に位置する島国で、シュヌエン国の昔からの友好国だった。それらの国も動くということは、ロウゲツ国は敵国に囲まれて、半島内で完全に孤立することになる。

 「さっき兵舎にいたら、本営からの伝令で聞いたんだけどさ。おまえたちここにいたから聞いてないかもと思って」

 「ミモリもですか」

 つい、ヘイエの言葉にかぶせて聞いてしまった。同盟相手のシュヌエン国はともかくとして、特に国としての関係は深くない、ミモリ王国まで協力してくるのか。

 「らしいな」

 ヘイエはさして驚いた様子もなくうなずく。

 「こっちについたか」

 グワンがつぶやいた。ミモリ王国の王は、エンヨウ帝国の皇帝に貢物を送り、王として認められて国内での権威を保っているらしい。そしてエンヨウ帝国は、ロウゲツ国を支援している。ミモリ王国は、カファ国と結んだシュヌエン国と、ロウゲツ国と結んだエンヨウ帝国との板挟みになってきた。だからのらりくらりとして、どちらからの協力の求めにも応じない姿勢だったはずなのだ。その態度が変わったらしい。

 「今回こそはほんとにやっちゃうのかもなあ」

 ザオが、きっとグワンも口には出せなかったことを、ヘイエがのんびりと言葉にした。

 そうなのかもしれない。ロウゲツ国との三十年の戦が、勝利で終わる可能性がある。グワンとザオは押し黙ったが、ヘイエはいたって平気そうに続けた。

 「帝国も、あれから半島のこと放置気味だし、ロウゲツ国は孤立無援状態になるだろうな」

 そのとき、乾いた高い音が響いた。

 びくりとして見ると、奥の部屋への木戸が開け放たれていた。そしてそこに、みこさまが立っていた。真っ白な衣が浮かび上がるように映えている。目を奪われる。今まで考えていたことも全部、頭からさらわれる。誰も何も、言わなかった。ただその姿を見ていた。

 白い光を建物の隅々にまで染み渡らせたみこさまは、あの強いまなざしをまっすぐ前に向けて、口を開いた。

 「わたくしもお連れください」

 凛と清い声が空気を震わせる。波紋が広がるように響き渡る。

 「隊長どの」

 純白の裾をさばいて足を踏み出し、見つめる先にはきっとウェイゴンがいるのだろう。でも、みこさまから目を離せなくて。わからない。みこさまはさらに言った。

 「神は、戦士たちとともに戦うことをわたくしにお命じになりました。ですから、わたくしは戦士たちを導かなければならないのです。黒の御旗のもとで」

 足音がして、ウェイゴンがみこさまに近づいていく。板の間の下にひざまずく。戸の奥で、みこさまを追ってきたらしいメイが控えているのが見えた。ウェイゴンが、みこさまを見上げることなく下を向いたまま言う。

 「巫女さま、御身を危険にさらすわけには」

 「いいえ」

 みこさまは鞭打つように隊長の言葉をさえぎった。

 「この身のことなど取るに足りない。なにゆえわたくしを置いていこうとなさいますか。わたくしは神の言葉を戦士たちに伝えなければなりません。それが神にお授けいただいたわたくしの天命です」

 「ありがたきお言葉でございます」

 「ありがたくなどありません。天命を果たそうとしているだけのことです」

 「しかし巫女さま。お加減が思わしくなくていらっしゃるのでは」

 「まだそのようなことを言うのですか。ロウゲツ国の賊どもが去った砦への進軍は、もはやただの拠点づくりではなくなったのですよ。そのまま敵を攻め滅ぼすのです。そこにわたくしもいなければなりません。ゆえにお連れください。わたくしも戦士たちとともに戦います。神がそうせよと仰せです。それでも置いていきますか。神のご意志に逆らいますか。チャン・ウェイゴンどの」

 たたみかけるみこさまに、ウェイゴンは深く頭を垂れ、こたえた。

 「巫女さま。どうして、神のご意志に逆らうことなどできましょうか」

 それを聞いたみこさまが、ふわりと花がほころぶように、頬を緩ませた。

 「黒翅隊隊長チャン・ウェイゴンどの。あなたとともに戦えること、大変光栄に、うれしく思います」

 ウェイゴンは深い敬意を表したまま、こたえを返さない。

 あたりの空気は澄んでいた。癒され浄化されたようだった。その場にいたみんな、微笑みを浮かべて立つその姿に魅了されていた。みこさまが、尋常な様子でこんなにも多くの言葉を発するのを聞くのは初めてだった。微笑むのを見るのも初めてだった。そばにいたザオもそうだから、ほかの人たちは一層、驚いているだろう。そしてその言葉は、勇敢で力強い決意だった。

 ウェイゴンに親しげなまなざしを注いでいたみこさまが、ふと、顔を上げる。止まってしまう。目が、合ったから。

 途端、みこさまの微笑が揺らいだ。睫毛が伏せられる。

 心臓が跳ねた。

 ああ、やっぱり、今。

 しかしつぎの瞬間には、みこさまは再びやわらかな笑みを浮かべていた。

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