十一  始叫

 梁がむき出しの天井と目が合う。ふと浮かび上がるように、なんの前触れもなく、眠りから覚めていた。あたりはひっそりと薄暗く、まだ夜は明けていないようだ。目を閉じて眠ろうとしたけれど、意識がやけにくっきりとしていてかなわなかった。たいていいつもそうだ。なまあたたかい温度を持った掛布を剥いで、身を起こす。夜にもまぎれないほどに黒い布が、目の端に映る。

 壁にもたれて座り、セリュはじっと朝が来るのを待つ。

 隣の部屋ではアン・メイが休んでいる。部屋の外にはユン・グワンが控えている。セリュは、一日じゅう絶えることなく必ずしっかりと、守られていた。監視されていた。

 そんなことは、気にするようなことではなかった。ここにいる、理由があるからそれだけでよかった。与えてもらった「天命」を果たすことができればそれで。監禁のようなことをされるかもしれないと、事前に言われていたし。今の状態は、想定よりもましだった。だから、自分がほとんど閉じ込められていることはいっこうにかまわない。

 でも、彼らのことが少し、気の毒ではある。日がな一日「巫女さま」を見守らなければならず、不自由するはずだ。今まで別のことをしていた時間を「巫女さま」につぎ込むのだから。考えても栓ないことだけれど。


 それからセリュは、ひたすらに時間を食べていた。何も味のしない時間だったけれど、とにかく黙々と消費した。いくら食べても減らない気がした。もう食べられないと思うころに、かすかな物音が聞こえた。メイが起き出したのだとわかった。そっと床を這って黒い布をめくると、障子戸はやわらかな乳白色をしていた。朝が来る。

 このくらいになると、メイはいつも支度を始める。人がいつ目を覚ますかと、耳をそばだてて聞いているわけではなく、聞こえてしまうのだ。こちらで勝手に、あら起きた、などと思うのはなんだか申し訳ない気もする。でも、彼女の気配がすると、ふっと力が抜ける。そんなに力を入れているわけでもないけれど。この静けさに封じ込められたような世界に、ひとりではなかったのだなと思えて、指先がじわりとあたたかくなる。

 しかしグワンは、いるはずなのにちっとも気配を感じない。昼から夕方にかけてそばにいるリョウ・ヘイエは、黙っていても何かしらの空気を発していて安心感があるのだけれど。グワンに関しては、生きているのかときどき心配になる。朝日が昇るころには耳に心地よい声で挨拶して出て行くので、ああ無事だったとわかるのだ。今日はだいじょうぶだろうか。


 このウンバン砦に来てから、十日ほどが経っていた。先日、諸輔集議ショホシュウギというお偉方の会合が開かれ、ロウゲツ国との戦を始めることが密かに合意されたらしい。もうカファ国側は戦に向かう準備が整っている。本当の出番がやってくる。やっとだ。今日には出陣することになっている。そして最初は、夜襲と決まっている。


 それにしても、本当に諸輔集議などというものが開かれていることには驚いた。今回の諸輔集議については、毎日事務連絡をしに来てくれるチャン・ウェイゴンから教えてもらったのだ。カファ国に諸輔集議というものがあることは知っていたけれど、名ばかりなんだと思っていた。ちゃんと中身があったようだ。戦をする前に各地の偉い人がきちんと集まって話し合うなんて、なんだか律儀だと思う。カファ国は、ロウゲツ国とはずいぶん仕組みが違っている。

 ロウゲツ国は、カファ国のように地方の有力な部族が自分の勢力圏を治めるのではない。皇帝が、中央が何よりも強いのだ。多くの部族を束ねた国だから、それでは不満が溜まることがある。止められずに噴き上がることも。皇帝は、それを過激な力で押さえつける。


 セリュは背中を預けていた壁から離れ、敷布の上に座った。セリュがやることは何もない。「天命を受けた巫女」は、甲斐甲斐しく世話を焼いてもらえるからだ。ウンバン砦の人たちは、セリュを完全に神聖な存在として扱うことにしているようだった。

 最初に訪れた攻月将軍コウゲツショウグンの陣所では始め、牢屋のようなところに入れられた。でも、しつこく「神の言葉」を叫んでいると、その場所に人々が集まってきて話を聞いてくれるようになった。巫女に導かれたかつての大王の、聖なる軍団を源流に持つ、黒翅隊コクシタイのもとへ行かなければならないと訴えた。そこでカファ国を導けと、「神はお命じになった」から。しばらくそうやっていると牢から出してもらえて、多くの人から拝まれた。そしてすぐに、黒翅隊のいるウンバン砦に移してもらえたのだ。

 ウンバン砦では恭しく丁重に扱われている。専属の護衛が四人もついている。しかしそれは、突然神の名前をかたって現れたこちらを、警戒しているからでもあるとわかっていた。でも「天命を受けた」ことは本当だし、ここの人たちが「神の意志」を完全に無視することができないことも知れていた。だから「巫女さま」として堂々と振る舞っていた。

 アンゲ砦への襲撃により、カファ国はついにロウゲツ国への攻勢開始を決めた。「巫女さま」などいなくても、アンゲ砦が攻められればそうなっていた。でも「巫女さま」がいるから弾みがついた。これで終わりではない。ここからが、始まりだ。黒翅隊は、攻月台コウゲツダイはカファ国は、「巫女さま」に、存分にのっかってくれる。


 静かに目を閉じて待っていると、部屋の外から声がかかる。

 「巫女さま」

 メイだ。少し低めて落ち着いた声が、明るく華やぐことがあるのを知っている。グワンと仲がよさそうに話しているのを一度聞いたのだ。「巫女さま」に接するときの彼女は、静謐な声音をして冷静そのものだけれど。

 「お目覚めでしょうか」

 はい、とこたえると、障子戸が滑る音がして黒の幕がすっと開いた。水を張ったたらいと手拭いを持ったメイが入ってきて、優雅な所作で挨拶した。

 「おはようございます巫女さま」

 そっとうなずいて見せる。そばに置かれたたらいの水をのぞく。メイが上手に運んできてくれたので、水面は波立つことなく凪いでいた。

 「新しいお召し物と朝餉をお持ちいたしますので、少々お待ちくださいませ」

 いつもそうしてくれるからもう言わなくてもわかるのだけれど、メイは必ずそう言う。彼女は床に手をついて低頭し、静かに出て行った。とても丁寧だけれど、度が過ぎて嫌味というまでではない。心から敬ってくれているような気がしている。

 最初は、メイも含めてみんなどこかよそよそしかった。でも近頃は、敬意を表す様子が自然になったと思う。グワンとヘイエと、それからウェイゴンや、ときおりやってくるファン・シュエからも、同じような空気を感じる。香を焚きに来てくれる医者もそうだ。ここで関わってきた人たちは、まだそれくらいだった。

 「巫女さま」は、今のところ、おおむねうまくいっている。しかし慢心はならないし、それに何やら、妙なのがひとりいた。あれはいったい何がしたいのだろうか。ふとよみがえる声に不快さを覚えて、セリュは手拭いを手に取る。一度水に浸してきりりと絞ってある手拭いは、ひんやりと冷たく心地よさを感じた。でもすぐに、手を離す。

 メイさん、持ってきてくれたのにごめんなさい。グワンさん、驚かせるだろうけどごめんなさい。

 きっとほとんど年の変わらない人たちに、心の中でそっと告げる。

 立ち上がり、床を踏み抜くように音を立て、黒の幕にすがりつく。衣の裾にひっかかったたらいの中身が波になって、あっという間に床に広がる。

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