乱逆皓皓
十 捨盾
湿った土が、衣にじっとりと染みを広げていく。焦げたような甘いような混濁した異臭が、ぬるい風に乗って流れてくる。ひっくり返った笑い声と調子はずれの歌が、反響して聞こえてくる。
かがり火が、燃えている。あざ笑うように弾けながら、燃えさかっている。炎が落とす紅蓮の影の奥、遠い場所に、鎧をまとった男がひとり、座っている。
その姿は、火炎の向こうで蜃気楼のように揺れている。幻を見せられているのかと、錯覚しそうになる。でも、確かにそこにいる。こちらを、じっと観察している。
不意に男が、すっと手を上げる。すると視界の端から、ぞろぞろと兵士の行列が入り込んできた。無数の何か、塊が載った板を、ふたりがかりで持った列。男とのあいだに、板がいくつも並べられていく。それがなんなのかすぐにはわからず、目を凝らしていると、背後で息を飲むような音がした。そしてあたりは異常なほどに、静まり返る。
つぎの瞬間、すべてがわかった。わかった。だから、いとおしい塵芥は、ひとつ残らず捨て去った。
目の前に、転がっているのは。ああなんて。なんて憐れな、愚かな人たち。裏切り者。謀反人どもめが。
立ち上がって板に駆け寄る。そこに置かれているのは、反逆者どもの首だった。
大漁、ではないか。
足を踏み出す。板の上を、踊るように駆ける。蹴飛ばして散らす。蹂躙。冒涜。やめろと誰かが叫ぶ。懇願している。衣を、腕を掴まれる。
止まると、思っているのか。
男が炎の奥で、こちらを見つめているのがわかる。
見ろ。みんなわたしを見ろ。皇帝に仇なす謀反人どもと、わたしたちは違う。もっと見ろ。目に焼き付けろ。わたしたちは生きる。何をしてでも、生き延びる。
澄んだ色の三日月が、浮かんでいた。きっと泣いていた。それを渡殿から見上げていた。遠く、なぐさめるような水音が聞こえていた。月が泣いているから、静かに寄り添って、一緒に涙を流しているのだ。だからわたしもと、動かずにじっと三日月のそばにいた。そうしていると、いつの間にか隣に、誰かが立っていた。
「トゥイ・ムルシュ・セリュさまですね」
その人はたずねた。夜に咲く花の、せつなげな香りのような声だと、おかしなことを思った。思いながらその人の問いに、あたりまえのようにうなずいていた。けれども横を見ることはできずに、月ばかり見つめていた。
「こちらをお読みください」
冷たい手に手を取られ、ざらりとした紙を握らされた。
「また、まいります」
いつの間にか、その人はいなくなっていた。
満ちそうな月を眺めていると、その人は迎えにきた。会いにきただけかもしれないけれどもう、一緒に行くつもりだった。今度はきちんと姿を見たその人は、袖と裾が動きやすそうに絞られた深い緑の衣を着て、同じ色の布で口元を覆い隠していた。でも、エナという名だと教えてくれた。エナは、あの男のもとへ連れて行ってくれた。
「トゥイ・ムルシュ・セリュどの」
男は、丁寧にそう呼んだ。月は形を変えても、声を出さずに泣いていた。こぼれた光が皓々と、ふたり向かい合う部屋の中を照らし出していた。
「三年ぶりですね」
凪いだ声音に、ぬくもりを感じることはできない。十三のときの記憶に残るものと、そのまま同じだった。
「ご息災でしたか」
男は、セリュにたずねた。近づきすぎず、遠慮しすぎない親しみのこもった調子は絶妙だった。セリュは男の目を見つめながら、微笑んでこたえた。
「はい。おかげさまで、みな健やかに過ごしております、
男は少し困ったふうに眉を曇らせた。
「それはようございました。……ところで文は、お読みいただけましたか」
無論だ。読んだから、だからここに連れてきてもらった。男のそばで控えているエナは、じっとうつむいている。
「拝読いたしました」
セリュの返事に男はうなずき、しかし改めまして、と居ずまいを正す。
「わたくしは三年前に、璧府大将の任を解かれまして。今はこの、コウ州にて将軍を務めております」
セリュは静かに頭を下げた。
「御状にてお知らせくださっていたのに失礼いたしました。お会いいたしましたとき、璧府大将さまでいらしたものですから」
涙もはじいてしまうような磨きこまれた床を見つめていると、平らな声が言った。
「かまいません、お顔をお上げください」
顔を上げて見たその目は、とても穏やかだった。そして底知れない。
ロウゲツ国の都にあって皇帝を守りながら、国じゅうに目を光らせて。反旗を翻す者があれば、駆け付けて徹底的に叩き潰す。それが
「やはりあなたはよい目をしていらっしゃいますね」
シャ・ジュンは何気ない様子でそう言った。
「あなたにまたお会いできて、まことに喜ばしい限りです」
セリュはにこりとした。
「わたくしも、将軍さまに再びお会いできまして大変うれしく思います」
シャ・ジュンも口元を緩め、やわらかな表情になる。そして何かを壊さないよう気を配るかのように、そっと、セリュに問う。
「ここに来てくださったということは、ご協力いただけるということで、よろしいのでしょうか、ムルシュどの」
滅ぼした部族の名で、生き残りを呼ぶのだなとぼんやり思いながら、セリュはくすりと小さく笑って見せた。
「もちろんです。将軍さまからの御状を拝見いたしましたとき、あんまり光栄で震えましたもの」
シャ・ジュンは、月が落とす影の中で薄く微笑んだ。
「心強いことだ」
ひとりごつような言葉にこたえて、深く頭を下げる。
「将軍さまにお救いいただいた命です。将軍さまのお志のためお捧げいたします。それがわたくしの、『天命』と心得ます」
人には、神から与えられた使命がある。それを知り、果たすために、人は絶えず努力しなければならない。知ることができなくても、果たすことができなくても、懸命に努めた者ならば天界に生まれ変わることができる。しかし努めることもせず漫然と生きる者は、死後永久に消え去る。
三年暮らした神殿で、そう教えられた。さすが教えの本場の神殿と言うべきなのか、今まで信じてきたものよりも、なんだか厳しかった。でも、だいじょうぶだと思った。自分はもう、天命を知っていると思った。大切な人たちを守ることが、天命だ。
ロウゲツ皇帝の抑圧に屈したくはないと立ち上がった父も、兄も、大切な人たちはたくさん殺された。璧府の軍に残らず首をはねられた。そのあと、戦いに加わることはなかった一族の者たちとともに、璧府大将の陣に引き出された。死ぬ前に肉親に会わせようと、運ばれてきたのが板に載せられた首だった。
絶対に嫌だった。もう絶対に、嫌だった。絶対に死なせてたまるかと思った。残った大切な人たちは、自分が守るのだと思った。だから、大切な人たちの亡骸を、その尊厳を、侵した。
こいつらは裏切り者。謀反人、反逆者。皇帝陛下に刃を向けた逆賊。人じゃない。死んで当然の塵屑だ。
狂ったように叫んで笑って踏み荒らした。でも、錯乱してはいなかった。自分でも不思議なほど、ひどく冷静に周囲を見ていた。みんな死んだように呆然としていた。しばらくすると璧府の兵たちが、涙を流しながらすがりついて止めようとしてきた。でも、まだ生きている最愛の人たちを助けられるのなら、その行為もたいしたことではなかった。
そうやってみんな、命だけは助かった。シャ・ジュンが、皇帝には皆殺しを報告し、ひっそりと神殿に放り込むという判断をしたからだ。政治に関与することを疎まれた神殿は、山奥に追いやられている。しかしそこは聖域になり、皇帝ですら簡単に手出しができなくなっていた。シャ・ジュンの手配で、そこへ逃げ込んだ。
守ったと思った。大切な人たちを、守り切ることができた。これからも必ず守ると誓っていた。それが、天命だから。
でも、守れてなんかいなかった。自分は誰ひとり、守れるような人間ではなかった。それに気づいていなかった。自分に、酔っていただけだったのだ。守れていなかった。守れない。それならもう、なんのための存在かわからない。
だから本当に、震えた。シャ・ジュンからの文を読んで、ここに役割があったと、息ができないくらいに泣いた。
そうだった。残虐で、耽美な夢が、いつの間にやら明晰になり、思考が混じって目が覚める。
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