二十九 歪気

 聞くなりザオは立ち上がり鞘を投げ捨てた。抜き身の刀をヘイエの喉元に突き付ける。

「ひえっ?」

 ひっくり返った声を上げたのはヘイエではなくメイだ。ヘイエは旗を捧げ持ったまま、いつものようなやわらかい笑みを保っている。

「どうしたザオ」

「斬るぞ」

 気力を振り絞って低い声を出す。するとヘイエは笑みを深めた。

「あれまあ、急に怖い蛹長ヨウチョウさんになっちゃって」

「黙れ」

 尊大に命じながら、切っ先が震えるのを止められない。ザオは、声が裏返らないようこらえながら問うた。

「リョウ・ヘイエ。黒翅隊コクシタイ第一蛹ダイイチヨウの役目はなんだ」

「巫女どのをお守りすることですね、ソン・ザオ第一蛹長ダイイチヨウチョウさま」

「ふざけているのか……?」

「ちょっと心外です」

「それはこちらが言いたいことだ。その役目は隊長から与えられたものであり攻月台コウゲツダイ引いては国にとっての重要事である。果たすべき貴官は、今まで何をしていた」

「巫女どののおそばにおらず、陣に残っておりましたね」

「そうかリョウ・ヘイエ、命令に背き役目を放棄した自覚があるのだな、秩序を乱す者はヨウの──」

 お待ちくださいなソン蛹長、とヘイエが片手を上げる。ザオが一瞬黙った隙に続ける。

「ソン蛹長、これって巫女どのの御前でする話ではないかと思うのですけど。あと、鞘も払いすぎて廊下の隅のほうにぶっ飛んでいきましたよ」

 ザオは振り返った。うしろでは、みこさまがじっとどこかを見つめており、メイが下手物を眼前に突き出されたような顔をしていた。そしてヘイエの言うとおり、ずいぶん遠くのほうに鞘が転がっていた。

「はい、慣れないことをする前にとりあえず落ち着きましょう」

 ヘイエがゆったりと言う。ザオはようやく地に足がついた心地がした。引っ込みがつかない気もするが、引っ込むしかない。引っ込みたかったのだ。刀を置いてみこさまに頭を下げ、鞘を拾いに行った。

「おぉいヘイエ」

 大きな声が飛んできて、ザオは鞘を取り落とした。第一羽長ダイイチウチョウの声だった。

「そんな血だらけ土だらけで巫女さまの御前に出るなって、ファン飛長ヒチョウがお怒りだぞぉ」

 それを聞いたヘイエは、わぁまずいなとつぶやく。みこさまに向かって言った。

「これは失礼いたしました、巫女どの。しかし早めに御旗をお届けしたいと思いまして」

 みこさまがすっと立ち上がり、ヘイエから旗を受け取る。そして、深く頭を下げた。

「わ……もったいない……」

 ヘイエはなんだか高い声を上げながら平伏する。メイはごしごしと頬を拭っていた。それを見ると、ザオも力が抜けてしまった。

 帰ってきた。ヘイエもガン羽長も、ファン飛長も帰ってきてくれた。その続きを、今は考えたくなくて目を閉じる。ヘイエがみこさまの前を辞する気配がした。部屋に静けさが戻った。

「ソン蛹長、アン蛹士ヨウシ

 ザオははっとして目を開けた。みこさまの声だった。みこさまは旗を持って、こちらに背中を向けていた。

「外に出て、みなさんに会いたいのです。ついてきてくれますか」

 みこさまの言葉に、ザオはすぐにこたえた。

「もちろんです。お供いたします」

 みこさまはかすかにうなずいて、歩き出す。すぐにあとを追ったメイが、ふとザオを振り返って、笑った。ぐしゃぐしゃした感情を押さえつけながら、でも全部が嘘ではないその笑顔に、ザオは小さくうなずいてこたえた。




***




 建物から出て少し下った広い場所に、兵士たちが集まっていた。黒翅隊の蛹士もいて、けがの手当てを受けている。帰ってきたのだ。奇襲の勢いや、少しも追われなかったことからして、黒翅隊の誰も帰ってこないことまで考えていた。黒い鎧の姿を見るだけで勝手に手が震える。前を歩くみこさまは、蛹士たちから少し離れた場所で立ち止まった。

「みこさま」

 つい呼んだが、その声が自分のものではないように揺れていて戸惑った。そのせいで、どうして呼んだのかを忘れてしまった。みこさまはこたえず、また歩き出す。

 そのとき不意に、低い声がした。その声は、巫女さま、と呼んだ。ふ、と一瞬身体が揺らぐ。ご無事で、とメイが悲鳴のような声を上げる。まっすぐに歩いてくるのは、ウェイゴンだった。ウェイゴンはいつもよりずいぶん遠くで、みこさまにひざまずいた。

「上衣をお預けしましたが、戻ってきてしまいました」

 ウェイゴンは、飄々とした様子で言った。顔も身体も布が当てられており、傷が多いことがわかる。でも、いつもどおりだ。つい笑ってしまって、視界がぼやける。そうだ、みこさまに上衣など預けるから死ぬ気だと思ったのだ、もう会えないかと思った。

「巫女さまにも、ご無事で何よりでございます」

 ウェイゴンの言葉に、みこさまは小さくうなずいた。片手でするりと上衣を外し、ウェイゴンに歩み寄って差し出す。ウェイゴンはそれを大切そうに受け取った。いつも羽織っていると思っていたら、黒翅隊の隊長に伝わるものだったのだ。ザオは今まで知らなかった。

 ウェイゴンが上衣を丁寧にたたみ、兵士たちを振り返る。そのときに、初めて気づいた。あたりは静まり返っていた。動きを止めて、こちらを見ていた。

 いつもみこさまがやってきたときに広がる、歓迎の空気ではなかった。みこさまに対して敬意を表すような、研ぎ澄まされた静寂が満ちているのでもなかった。あたりを沈めているのは、何かが掛け違ったような、微妙に歪んでいるような、どこか薄気味悪い静けさだった。ザオはぞくりと背筋が寒くなるのを感じた。

 ふと、みこさまの真正面に、ヨンジェが立っているのを見つける。よかった無事だった、立っていられるのだ。気持ちが上向いたときだった。ヨンジェが口を開いた。

「巫女さま」

 その声は、よく響いた。

「ご無事で何よりでございます」

 横にいた兵士が、ヨンジェの袖を引っ張った。

「ご無事だったのですね」

 感情を抜き取ったような声音は、聞いたことのないものだった。

「なぜですか」

 サイ蛹士、とウェイゴンが唸るのを無視して、ヨンジェは続けた。

「なぜお言葉を授けてくださらなかったのですか」

 ザオは息を詰めた。違和感を覚えていないわけではなかった。みこさまの様子も今までとは少し違った。でも今は考えても栓ないことと、意識して切り捨てていた。今回、みこさまは伝えていないのだ。奇襲を知らせていない。神の言葉を授けていない。

「サイ蛹士。何を言っている」

「隊長もお思いのはずです。今まですべて、お知らせくださっていたではないですか。どうして今回だけ、しかも奇襲なんて、なぜですか。神のお声が聞こえなくなったのですか」

 口調が激しくなり、ヨンジェがみこさまに向かって足を踏み出す。周りの人たちが押さえた。ヨンジェは抵抗しながら叫んだ。

「巫女さま、神の言葉が聞こえておられないのですか。どうなのですか。それとも最初から、すべて嘘でしたか、そうだよな、嘘だったんだろ、嘘だったに決まってるよ!」

 ウェイゴンがヨンジェの名前を怒鳴る。呼ばれていない人たちが恐れをにじませるその迫力にも、ヨンジェは引かない。

「黒翅隊は半分になったぞ! 黒翅隊じゃないのに残ってくれた人たちも死んでる!」

 ザオは唇を噛みしめた。

「おまえが嘘ついてたせいだ! 間者だ! おれたちを嵌めた!」

 誰もヨンジェの口を塞ごうとはしない。誰もヨンジェを連れて遠くへ行こうとはしない。ウェイゴンがヨンジェに近づいていき、腕を掴んだ。捻じ曲げるような力がこもったのがわかった。ヨンジェは悲鳴を上げる。

「だってあたりまえだろ、神がカファ国のためだけに言葉を授けるわけない!」

 その場が凍り付く。

「なんでカファ国の味方だけするんだよ。そんなのは神じゃない!」

 唇が切れて血の、味がした。

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