深傷空所

二十八 迫夢

 「敵?」

 一瞬凍り付いた空気を動かしたのはグワンの声だった。

 「死ぬ気で奇襲か? 昼間相当ぼこぼこにしたのに」

 涼しい顔でそう言いながら刀を取って立ち上がる。ザオも鎧はつけないまま刀を掴んだ。

 東から敵襲、すぐに来る、と声が聞こえる。陣の東にある城の中から、シャ・ジュンが打って出たのかもしれない。

 見張り台の鐘の音にかぶせるように、銅鑼が鳴らされる。応戦ではない。逃げろと言っている。相当近く、戦える相手ではないのだ。なぜ。援軍か。そんなものは来ないはずだ。いや、考えている場合ではない。

 「みんなすぐ出ろ。あわてず全力退却だ」

 ザオは立ち上がり声を張った。力強い返事が返ってくる。混乱に陥ってはいない。問題ない。グワンと視線を交わし、外に出る。

 空は白み始めていた。周りの天幕からも、兵士たちが飛び出してくる。

 見張り台のある丘の向こうから、大きな気配がする。声を上げてはいないが、近づいてくる。地面のかすかな揺れが伝わってくる。どこからそんな大軍が、とか考えるのはあとだと言ってるだろと自分を叱咤する。

 ザオは槍も掴み、すぐにみこさまの天幕に向かって走った。

 天幕のそばでは、護衛をしていた蛹士ヨウシたちが集まり東を向いていた。中から、みこさまを連れたメイが出てくる。駆け寄ると、メイはあたりまえのように言った。

 「お逃がしする。援護して」

 「わかってる」

 すぐにうなずいてみこさまを見る。少しも動揺した様子はなく、静かに目を伏せていた。ザオは、声をかけようとした。

 「あわてることはない!」

 鋭い声が響き、振り向くと、ウェイゴンが黒の上衣をなびかせて歩いてくるのが見えた。

 「黒翅隊コクシタイがしんがりを務める。コクごとに集まって退却せよ。負傷者を馬に乗せる。それ以外は走れ」

 ウェイゴンは低く通る声で指示を飛ばしながら近づいてくると、ひざまずきつつ黒の上衣を肩から外した。ふわりと広がった黒がみこさまの肩を覆う。

 「わたくしめが着ておりましたが、黒翅隊隊長に伝わる大切なものです。巫女さまにお預かりいただきたく」

 すっぽりと黒に包まれたみこさまは、瞳を揺らすこともなくじっとウェイゴンを見つめている。ウェイゴンは立ち上がり、背を向けながら言った。

 「第一蛹ダイイチヨウは巫女さまをお守りせよ」

 「御意」

 ザオは即答した。

 「黒翅隊蛹士たちよ、東に隊列を組め! 敵の奇襲である、ここで食い止めるぞ!」

 ウェイゴンは激しい口調で叫ぶ。先鋒やしんがりを務めるのは、黒翅隊の仕事だ。

 地面が、空気が揺れている。迫ってくる。

 「巫女さま、失礼いたします」

 メイが言ってみこさまを抱き上げた。メイと一度目を見交わして走り出す。

 ヘイエとグワンはそばにいないが、すぐに追ってくるはずだ。今の第一蛹の責務は、みこさまを守ることだから。

 しんがりを務めるため準備をしながら落ち着き払っている蛹士たちに、どうか武運を、と心の中で伝える。振り返らない。

 黒翅隊以外の兵士たちが集まっている。ザオは天幕からけが人を支えて出てくる人たちの中に飛び込み、ひとり抱えて馬にまたがった。みこさまを抱いたメイも馬に飛び乗る。メイはすぐに馬を走らせ兵士たちの周りを駆けながら呼びかける。

 「黒翅隊第一蛹が巫女さまをお守りします! 巫女さまがおられるからだいじょうぶ、ついてきて!」

 こたえる声が上がる。だいじょうぶだ、奇襲にも恐慌状態になっていない。でもうしろから、大きな圧をはっきりと感じる。近い。

 行く手に何もいないことを確かめている暇はない。

 ザオは馬を進めて先頭に立った。

 挟み撃ちを考えれば、みこさまをいちばんに行かせるわけにはいかない。

 そんなことをされればやや詰んでいる感じになるのだが、少しでも多くの人を逃がしたい。先陣を切る囮は必要だ。

 決死の覚悟ではない。

 想定しているだけだ。

 それに一応、黒翅隊の第一蛹長ダイイチヨウチョウだ。何かあっても切り抜ける。

 「なるべく揺らさないようにします」

 前に乗った人を支えて声をかけ、馬の腹を蹴る。

 うしろで小隊長たちの掛け声が聞こえた。

 攻月台コウゲツダイは退却を始めた。




***




 攻月台は、退いた者は無事に落とした砦までたどり着いた。突如として帰ってきた軍勢を見て、砦に残っていた人たちは仰天しながら門を開けてくれた。想定していた挟み撃ちまではなく、うしろから追われることもなかった。黒翅隊が食い止めて、残りの攻月台兵を逃がすことに成功したのだ。

 ザオが前に乗せていた人は、全身傷があるうえ足が折れていたようだった。雑にさらわれて馬に乗せられ痛かっただろうに、ほんとに揺れなかったですとお礼を言ってくれた。

 砦に入り、みんな放心状態になっていた。砦に残っていた人たちも、それを見て呆然としていた。奇襲があったのだ。まだ、誰がどこからどうやって攻めてきたのか、何もわかっていない。

 シャ・ジュンなのだろうが、昨日の戦でかなり痛手を被っているはずだ。それでも攻めてきたのだろうか。勝ったと思わせておいて攻撃するという、かつての攻陽台コウヨウダイのような手を使ったのだろうか。もしシャ・ジュンではなくどこかの援軍だとしたら、北から攻めていたシュヌエン国が敗れたのだろうか。そんな知らせは届いていなかった。ならば、璧府ヘキフか。璧府が動くとは考えにくかったが、そこを突かれたのかもしれない。考えても本当のことはわからない。

 それでも、朝は来ていた。眩しい朝日が昇り、やがてやさしい光で砦を満たした。空は澄んだ青を取り戻していた。そしてずいぶん日も高くなり、あたたかい風が吹いている。

 ザオはメイとともに建物の中に入り、みこさまのそばにいる。まだ何があるかわからないので、いつでもふたりがかりで守れるようにだ。部屋に壁はなく、四方を木の廊下に囲まれている。箱のようだった。

 黒の上衣に包まれたみこさまは、背筋を伸ばしてまぶたを閉ざしていた。膝に置かれた手は黒に隠れていて、見ることができない。

 メイは黙って口を引き結んでいた。顔色が悪い。ふたりとも常の様子とは違っている。こんなときに、ザオでは気の利いたことをしてやれない。

 焦燥で、じりじりと身体の内が焼ける。誰も、追いかけて帰ってこない。第一蛹には、隊長の命令を無視して務めを放棄している者がふたりもいる。秩序を著しく乱す者を斬るのは、蛹長の仕事なのだが。帰ってきたら一度ずつ叩き斬ってやろうか。

 どうして、一緒に来なかったのか。

 どうして、帰ってこないのか。

 これ以上考えてはいけない。

 そんなことを思っても仕方がない。

 これは戦だ。

 戦をしているのだから、いつなんどきでも、死ぬかもしれない。

 今までも、何人も死んでいる。大きなけがを負っている。重くはなくとも、傷のない人はいない。

 黒翅隊は精鋭の集まりであり、危険な仕事を担う部隊だ。もしものことがあれば、攻月台の盾となるものだということはじゅうぶんわかっている。しんがりを務めることも、ウェイゴンが命じなくてもみんなそのつもりだった。メイもきっと同じだった。ザオもそうだった。でも今の第一蛹の仕事はみこさまの護衛だから、ここまで退いてきた。

 黒翅隊が無事ではなくても、それは責務をまっとうしたのみだ。称えるべきことだ。

 だから。

 でも。

 わけもなく歩き回って叫び出したいのを、手に爪を立てて抑えつけようとする。

 だめだった、そんなのでは足りない。

 身体の中で羽虫が金切り声で絶叫している。あまりにも気色が悪くて吐き気が込み上げてくる。こんなの耐えられない。昏倒させてほしい。頭をどこかに打ち付けたい。

 「巫女どの」

 不意に声がした。幻聴が聞こえ始めた。意識まで遮断する技術を会得したと思った。

 ぎしりと床が軋む音がする。

 「ヘイエさん」

 メイの声が高くなってこぼれた。

 部屋の前の廊下に、ヘイエがひざまずいていた。黒の鎧だけでなく全身が、血と土にまみれている。うっすらと、気高い獣のような気をまとっていた。幻覚、ではない。戦って、帰ってきたのだとわかった。その手には、黒い翅の旗があった。

 「おそばでお守りいたしませず、申し訳ございません。しかしこれ」

 ヘイエは旗を横倒しに持って、みこさまに向かって差し出した。穏やかに微笑んだ。

 「ひょっとしてお忘れかなと思いまして。余計なお世話だったでしょうか」

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