二十七 崇酔
仰向けになって、空に向かって突き出した天井を眺めていた。
ザオは天幕の中にいた。天幕は兵士の数に比してじゅうぶんな数を持ち運べるわけではないので、結構狭い。すぐ隣には一緒に戻ってきたグワンが、こちらに背中を向けて横になっている。
グワンはちゃんと、自分で歩いてここまで帰ってきた。茂みを出たところにいた見張り番たちに、かろやかに声をかけていた。そのあとは、何も話さなかった。ザオは、自分が何か言わなければならないとわかっていた。でも、何も言えなかった。
グワンが今まで見せなかったものを見せてくれたから、自分の中身も開くのが筋だと思った。できなかった。皮と骨と肉を裂いて、心臓を取り出すことはできなかった。グワンには刃を突き立てて、掻き回して抉り出したくせに、自分に同じことをするのは躊躇した。
グワンはザオに刃を向けようともしなかった。何も言わせなかった。何もたずねなかった。内側をさらけ出せなかったのはそのせいだなどと思うのは、救いようがないほど矮小だからだ。
ザオはグワンが言うような、父の死に心を痛めてときどき遠い目をする、まっすぐでまっとうな人間ではない。父が、死んだことはわかっている。まだ生きているとか思ったことはない。でも、死んだのだと実感したことはなかった。亡骸を見たし、弔いの儀式も参列したのに、父の死はぼやけている。
もっともらしい反応はしたのだ。エンヨウ帝国から返された亡骸を見て泣いた。喉がふさがって息ができなくなって頭ががんがんして、前後不覚になっていた。
でも、その死が身に染みることはなかった。父は死んでもまだ、死んでいなかったから。「ソン・リシェン」がのこっていた。しかし「ソン・リシェン」だって死んでいる。だからそれは、亡霊だ。
「ソン・リシェン」が討たれてから、
「ソン・リシェン」は、死んでいるのに多くの人を突き動かしたのだ。もちろんスレンの手腕のせいでもある。現在攻陽将軍を務めている彼の、あのときの言葉は、凄まじく人の心を打つものがあった。しかしやはり、「ソン・リシェン」の存在と喪失は大きく、仇討ちは大義だった。
人々は熱に浮かされていて、特にザオの周りにいた人たちはおかしかった。ソン将軍の仇を必ず取るから安心してくれと言った。多くの人に父を慕ってもらって、そう言ってもらえて、震えるほどうれしい場面のはずだった。それなのになんだかぞっとした。頼むからやめてくれと言いかけた。でも、帝国を退けるか攻められ続けるかの瀬戸際だとわかっていたから、そんな水を差すようなことは言えなかった。
眩暈がするほどの轟音は、人々の雄叫びだった。空と地面が震えて逆転して混ざり合ってしまったみたいだった。魅入られそうな粘度に浸された刃が、ぬらりとつやめいて。凍った風が大波のように、背後から押し寄せる。
目指すのは、鈍く光る敵陣。そうしなければ即刻絶命するかのように、ただひたすらに猛進する。敵兵たちのまとう鎧が、魚の鱗のように見える。近づいていく。ああ、何をしてももう遅い。止まらない。父を慕った、父が遺した人々は熱の塊となって、ちらちらと光る敵陣になだれ込む。
そんなことしかできなくなったみたいに、斬り裂いて刺し貫いて引きちぎって叩き潰して。斬り裂かれて刺し貫かれて引きちぎられて叩き潰されて。そのあいだ、幾度も幾度も。何人もの人に。抱きつかれた。体当たりされた。押さえつけられた。その人たちの一部が飛んで視界があまりにも鮮やかに、染められた。
かばわれた。何人もの人に。その理由は、とても単純なもので。
「ソン・リシェン」だった。
「ソン・リシェン」の亡霊が、人々を鼓舞して熱波のようにした。呪いをかけていたのだ。
「ソン・リシェン」の亡霊のために、たくさんの人が傷ついた。命を落とした。
「ソン・リシェン」の亡霊は、その息子にとりついていた。人々はザオのうしろに、「ソン・リシェン」の姿を見ていた。亡霊の姿を見つめていた。そして亡霊のために戦って、亡霊を守って死んだ。
帝国軍がひいていったあと、たくさんの人に、素晴らしい戦いぶりだったと言われた。烈火のごとく敵を屠り、その声で仲間を奮起させたと言われた。まるで、ソン・リシェン将軍のようだった。さすがはソン将軍のご子息だ。ソン将軍が導いてくださったのだろう。そんなふうに称えられた。
そして「ソン・リシェン」は、救国の英雄になった。素早く動いて帝国軍に果敢に攻撃をしかけ、最期は身を捨てた作戦でカファ国を守った大将軍。「ソン・リシェン」の人気は国じゅうに広がっていった。
それからは、人々の視線はザオを通り過ぎていくようになった。みんなうしろの亡霊を熱心に見つめている。「ソン・リシェン」は、ずっとザオのうしろにいる。「ソン・リシェン」は、いなくならないのだ。だから父の死もぼんやりとして、しっかり掴むことができないままでいる。
人が亡霊の中に何を見ているのか、わからない。人がなぜ亡霊のために戦ったのか、わからない。人がうしろにいる亡霊を、ほとんど崇拝していることが、わからない。
それでも最初は、一時的なものだと思っていた。そうではなかった。亡霊を飼い続けなければならないらしかった。途方に暮れた。目の前が真っ黒な気がした。そしてわかってしまった。亡霊を、背負って生きていくことが、天命なのだ。
いつか亡霊と同化して、蘇らせるためにこの身はある。そのときのために、努めなければならない。目の前が真っ黒でもいい。真っ黒な道を歩くのが天命だから。いずれ「ソン・リシェン」になるのだ。ソン将軍と呼ばれて、戦って死ぬ。ザオが存在しているのは、それを成し遂げるためだ。それ以外に価値や意味はない。
天命を悟ったのだから、果たすために生きていこうと思った。でも、心の切れ端が言うことを聞かなかった。切り落としたのにしつこく残っていて、そんなの無理だと喚いていた。
母と妹が案じてくれていることは、伝わってきていた。心配させるくらいに、様子がおかしいことを自覚していた。でもきっとふたりは、ザオがおかしいのは父が同じ戦場で死んで、守ってくれて死んだ人もいたせいだと思っていたはずだ。
しかしそうではない。父の死などとは向き合ってもいない。守ってくれた人の死で自分を責めてもいない。戦が起これば人は死ぬ。相手の兵士たちだって、ザオのせいでたくさん死んでいる。違うのだ。「ソン・リシェン」になることが天命なのに、駄々をこねていただけだ。
攻月台でも、亡霊は強かった。ザオはまだあきらめきれなくて、
黒翅隊は実力による引き抜き制だが、別の入隊方法もあると言われていた。噂で聞くか聞かないかくらいだったが、早く入りたくて、その道が実在することにかけた。それは、隊長のチャン・ウェイゴンに勝負を挑んで、勝ったら入隊が許可されるという道だ。
黒翅隊の
猛禽のような目で、手加減しない、殺すかもしれないと言われたが、裏の道が実在したことに興奮していて別にどっちでもよかった。真剣でやり合った。負けたら、ウェイゴンが慈悲をかけてくれたとしても、ザオは死ぬと思った。気が付いたらウェイゴンの手から刀がなくなっていて、あんたやるやつだから入隊許可、と告げられた。
黒翅隊に入ると、亡霊のことを見つめる人はほとんどいなかった。黒翅隊は、身分や性別は関係なく、すごいやつはすごいという風土なので。謎の裏道を使って入隊するのは非常に稀な例だったらしく、そのことのほうが亡霊より強かった。
グワンと一緒になっても、グワンは何も言わなかったしうしろを見て喜ぶこともしなかった。ザオは、自分はこれから絶対に、人のうしろにある亡霊類似の何事かなど、完全に無視するのだと決意した。誰にも頼まれてはいないが、そうしたかった。人が背負った、背負わされたものを見て陶酔するのは嫌だった。
でもときどき、本当にこれでよかったのかと考えてしまう。亡霊に熱いまなざしを注ぐ人たちを思い出してしまう。思い出さないように遮断する技術を身に着けたが、失敗することもある。今ザオは天命に背いているし、そんなザオには本当は価値がないのだとわかっていた。ときどきぼんやりしてしまう。だからグワンの言うように素直に、親父さんのことを思い出しているのでは決してないのだ。
それを、言えなかった。全部ぶちまければいいのにできなかった。言おうとすると本当に心臓を抉り出そうとしているような気がして、声が出なかった。
声が出なかった。グワンの抱えたものの正体を、何も知らなかった。見ようとしていても、見えてはいなかった。わかろうとしていても、わかってはいなかった。グワンもメイもヘイエも、みこさまのことも、何も。
どうしてこんなに拙いのだろう。亡霊が消えかかっても、どうせこんなやつと一生付き合わなきゃならないのだ。不運である。解せぬ。
そのときだった。ザオは跳ね起きた。天地が逆転するような音が耳を貫いたのだ。天幕の中の兵士たちも一斉に起き上がる。人の声が聞こえる。敵襲、と叫んでいる。
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