蝶逢小春
四十
風と旗が、駆け引きをしていた。旗は風に応じたり、無視したり、風は吹いたりやんだり。何やら長いあいだ、じりじりとやっているようだ。さっきからちらちら見ているが、お互いにもっとこう、歩み寄れないものか。しかし、そんなくだらないことを考えてもいられない。軍議中だ。
卓子の上には、大きな地図が広げられている。大陸の一部と半島と、東の島が描かれたものだ。地図の上には、砦や城がある場所に、国ごとに色分けされた石が置いてある。カファ国は赤、シュヌエン国は緑、エンヨウ帝国は黄、ミモリ王国は橙だ。半島のほとんどは赤い石で染まり、北東の一部に、緑の石が並んでいる。
「海から都を攻める策について、どう思われるか」
卓子の周りの面々を見回してたずねると、すぐに返事が返ってくる。
「ロウゲツ国しかり、都が落ち皇帝を捕えれば国は混乱に陥ります。こちらになびく者も現れるでしょう。われわれ
「しかし、シュヌエン国にはミモリ王国が協力することが必定です。ミモリ王国の水軍は強力です。船は小型ですが、そのぶん機動的でよく連携も取れています。海から攻めるのは慎重になるべきかと思います」
「エンヨウ帝国に協力を仰ぎ、ミモリ王国に圧力をかけさせるのはいかがでしょうか」
かつてともに戦った相手を、いかに効率的に攻撃して屈服させるかについて、話し合いが進んでいく。同盟を結んでいたため、長く休眠していた対シュヌエン国機関である攻雪台は、今はカファ国の軍事の中心だった。
話が進むにつれ、地図上の半島に置かれた緑の石が、どんどん赤に置き換えられていく。そしてついに、半島の石がすべて赤色になった。
「ソン将軍」
呼ばれて振り返る。箱を抱えた兵士が立っていた。箱には、たくさんの文が入っている。
「えと、こちらいつものです。今回もこんなに」
文に埋もれながらそう言った兵士から箱を受け取り、肩を叩いてねぎらう。
「いえ、とんでもないことです。それにしても、もてる男も大変ですねえ」
彼はわりあい本気で気の毒そうに言うと、ぴしりと拱手して去っていった。
たいてい兵士たちが預かってきてくれる文たちをまとめるため、ソン将軍への文入れの箱が攻雪台に設置されているという状況だ。今でも改めて考えると、ちょっとびっくりしてしまう。ソン将軍が蘇ったため、就任したばかりのときからこの調子だった。
文の内容は、あたたかいものだ。応援している、いつもありがとう、早く半島を統一してね、尊敬しています、ソン将軍。
忙しくてなかなか見る時間が取れないし、返事などはできない。ときどき箱を持ってきてくれるのだが、その中身を整理して、厚かましくも与えてもらっている個室に置いておくことくらいしかできないのだ。攻雪将軍としての仕事で返すしかない。
たまに、退役してシュエと一緒になったヘイエとか、攻雪台所属となった
都の屋敷から来る文は箱には入らないから、母や妹がときどき送ってくれるものは直接手渡される。将軍さまになったのはいいが、ちゃんと食って寝ろといつも命じられる。それと同じように、ロウゲツ国平定戦での大けがから回復したシュエや、行商人の用心棒を始めたヨンジェや、メミ
今は少し時間があるから、部屋に戻って箱の中の文を見られる。そういうときを見計らって渡してくれたのだろう。
部屋に向かおうとすると、突然ふわり、と風が吹いた。一枚が地面に落ちてしまった。小さくて、すぐに飛んでいきそうだ。急いで箱を抱え直し、拾い上げる。すると、ひらり、と風に誘われるように、紙が開いた。そして何かが、ふわり、と顔のほうに飛んでくる。咄嗟に目を閉じる瞬間、何やら紫みたいな色が見えた気がした。でも目を開けたときには、もう何もなかった。なんなのだ幻術なのか。開かれた紙に、何気なく目を落とす。
見えたのはソン蛹長、という文字だった。懐かしい呼び方だった。懐かしいとか言ったって、まだそれほど経っていないのだが。もうソン蛹長ではないのに、引き寄せられるように、残りの文字をたどる。ほんの一行だった。
あなたは、どうしてあんなにやさしい目をしていたのですか。
息が止まった。ほかのものは消えた。滑らかな文字の深紫色と、紙の淡く濁った白色と、そのさらりとした手触りだけを、感じていた。
やっと吸い込んだ空気は、少し震えていた。このやわらかな、流れるような文字を書いた人が誰なのか、わかった気がして。願望とか夢想とか、そんなものなのかもしれないけれど、でも。
そのたった一行の、そこに見出してしまう意味が、そこから立ち上ってくる記憶が、指先から流れ込んできて身体の内へ染みとおっていく。静かにあたたかくて、あまやかで、痛い。
あなたは、どうして。
その続きを聞けなかった。あなたは、と言って、何かを見ようとしてくれたのに。
もし、あなたが。
その続きを言えなかった。本当に蝶になって飛んでいってしまったと言われたあの人の、ひとりの人間としての表情を、垣間見ていたのに。ほんの少しだけ、でも確かに、目にしていたのに。何も見えなくてわからないからと、あきらめた。
ザオは地面に座り込み、膝の上に箱を置いた。自由になった両手で、そっと、紙に触れる。
なんの、ことなのか。何を言っているのか、まったく要領を得ない。やさしい目とかしたことはない。どうやったらできるのだろうか、教えてもらいたい。
だから、これは違うのだ。あの人ではない。これはきっと、届け先を間違えてしまったものだ。ソン蛹長と書いてあるし。今の黒翅隊に、ソンという蛹長はいないのだろうか。聞いてみたほうがいいかもしれない。
だいたい、蝶になったのかもしれず、そうでなくてもこちらを絶妙に煙たがっていたし、今どこにいるのかも、無事なのかもわからない人だ。そんな人から文が届いたなどと考えるのは、夢を見すぎにもほどがある。
でも、それでももしも。今もどこかで生きてくれているのなら、今、あのときの続きを伝えてくれたのだとしたら。
今度こそ、お名前くらい教えてくださってもよくはなかったかと思うのですが。いつまでみこさまと呼べばよいのですか。それでこれは、いったいどういう意味なのですか。結構な謎なのですが。謎だけど。ひょっとして。
自惚れだけど、もしかして見てくれていたのですか。自分でもわからないようなところを、見てくれていたのですか。
細柳のような線でしたためられた文字を、ひとつずつなぞりかけて、手を握りこむ。
よろしい。空想にふけるのは、もうおしまいだ。
紙を閉じ、箱の中に戻した。指先が離れる瞬間に、離すのが惜しいと、思った。
「ソン将軍」
呼ぶ声がする。立ち上がり、振り返る。目の端に、黒い翅がちらつく。強く風が吹く。声にこたえるべく、歩き出す。
<了>
翅を負う 相宮祐紀 @haes-sal
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