三十九 抱懊
滝のそばに、座り込んでいた。細かな水のしぶきを、頬に感じる。本当に微細だけれど、ずっと浴びていれば身体はすっかり濡れてしまうだろう。
滝壺は緑がかった青をたたえてかすかな波紋に揺れている。しなだれる枝は若々しい色の葉を揺らしている。それより少し渋い色に苔むした岩が、そこかしこに見える。少し視線を上げると、清らかな水が雪白の絹織物のように崖を滑っている。神殿で聞いていた水音は、この滝からのものだった。
ここから動く気になれない。ずっとここにいようか。そんなことはできないのに、永久にここで滝の音を聞いていられる気がした。
エナと白い馬とは、さっき別れてしまった。エナは言ったとおりに、セリュを神殿まで送り届けてくれた。何にも妨げられることなく、無事にここまで帰してくれた。
ここまで来てしまえば、誰も追ってはこられないだろう。璧府は神殿に手出しできないし、そもそももう、「巫女」どころではないようだ。カファ国の大神殿も、ロウゲツ国の山奥の神殿に、「巫女」が潜んでいたってわからないだろう。急に眠ってしまって、気が付いたら不届きな「巫女」がいなくなっているわけだけれど、どうだろうか。カファ国の伝説みたいに、蝶になったというふうに思われたりするだろうか。
たぶん、助かってしまったのだと思う。でもどうすればいいかわからなくて、神殿の建物のほうへは行かずにこの滝のそばに来てしまった。
帰ってくることは考えていなかった。死ぬ気だったわけではないけれど、神殿を出たときは「天命」があったとうれしくて、必死になっていた。行ってやるべきことがたくさんあると息巻いていたから、帰りのことなど頭になかったのだ。戦の中でも同じだった。
でも、帰ってきてしまった。何もない、何もできないセリュに戻って帰ってきてしまった。これからどうすればいいのか、見当がつかない。ぼんやりと座っていることしかできない。こんなだから情けないとか、しっかりするべきだとかいう考えは、湧いてきたそばから滝の音がかき消す。だからきっと、ここは楽なのだ。
エナが別れ際に言ったことが、よみがえってくる。
シャ・ジュンの本当の名前。シャ・ジュンというのは、本当の名前ではなかった。
『本当の名前も覚えておいてやってください』
エナは少し寂しげに微笑んでいた。
その名前は、今のロウゲツ国の支配者層である、大陸系の人たちに多い名前ではなかった。シャ・ジュンというのは大陸系の名前だったから、エンヨウ帝国に先祖がいる人だと思っていたのに。でも教えてもらった本当の名前は、半島の、古い部族のものだった。セリュと同じような。すぐに飲み込めずにいると、エナは言った。
『わたくしの父です』
エナは十四のときから、父のもとで間諜として働いていたのだ。それは、父の願いをかなえる手伝いをするためだった。
シャ・ジュンと名乗っていた男は、皇帝への復讐を誓っていたのだと、エナが話してくれた。ほとんどひとつの王国を築いていた彼の故郷は、ロウゲツ国の侵攻を受けたのだという。そして一族が、皇帝の命令によって皆殺しにされた。族長の息子で、まだ幼かった彼は従者に抱えられて逃げ出し、神殿に転がり込んだ。ここだ。
彼は皇帝への復讐を天命としていた。神殿を出て官職を得て、やがて皇帝に仕えるようになった。皇帝に近づいて、信頼させて、それから裏切るつもりだった。でも、復讐を果たす前に一族を滅ぼさせた皇帝は崩御し、その息子が即位する。新しい皇帝は同い年で、彼を、「シャ・ジュン」を親友のように扱っていた。それでも彼はまだ、やらなければならないと思っていた。
エナは少し困ったように言った。
『母が、父は何かに向かって猛進しているけれど、何をしたいのかわからなくてつらいといつも申していたのです。助けになりたいのに、できないと言ったまま死にました。だからせめてわたくしは、父の悲願のために働かせてくれと頼み込んで、こうなったのです』
復讐をするために、彼はずっと進み続けていたのだとわかった。
どうしても、何がなんでも「皇帝」を絶望のどん底に叩き落としたい様子だったのは、長く長く願い続けた復讐のためだった。天命の、ためだった。
『セリュさまが覚えていてくださったら、きっと喜びます』
エナはそう言って、白い馬を撫でていた。馬はそうかなあ、と言うように鼻息荒く首を傾げていた。ふたりでそれを見て、笑ってしまった。
エナは戦の行く末を見届けると言って去っていった。その前に、セリュはエナにお礼を言った。エナはやはりどこか、かなしそうな目をしてセリュを見つめた。でも一度背中を向けると、振り返らずに歩いていった。馬は放した。ひとりでも国に帰れるだろう。寝ている人たちのもとに戻るかもしれない。エナがセリュを逃がしたことは、黙っていてくれるはずだ。
やっぱり、ちっとも動く気にならない。教えてもらった名前を、つぶやいてみる。復讐を成し遂げるために突き進んで生きた人なのだ。絶対にやり遂げなければならないと、ほとんど妄信していたのだ。そんな気がする。
嫌いだと思った。そんな、周りの見えていないやつは嫌いだ。自分が絶対にやらなければならないと、やれるのだとかたくなに信じ込んでいるやつなど大嫌いだ。虫唾が走る。
ふっと、笑ってしまった。あの人のことを、憎いと感じたことはなかった。再会したときは少し棘のある態度を取ってみようとしたけれど、取ってみようと言っている時点で棘の威力はほぼないだろう。
静かに涙を流し続ける月に照らし出された、どこまでも沈着な姿と声を思い出す。もう一度、名前をつぶやいて、呼んでみる。
さようなら。
目を閉じる。視界が暗くなると、今までよりも滝の音がくっきりと、聞こえる気がした。それは戦場で聞いた雄叫びにも似ていた。周りの空気が震えて、形を持つような感覚を思い出す。今もきっと、
わからなかった。これからどうすればいいのかわからなかった。わからない。全部、わからない。「シャ・ジュン」がどうして復讐にこだわっていたのかも。エナがどうしてあんなかなしそうな目をするのかも。ほかにも、全部、みんな、たくさん。
わからなかった。わからないままだ。わかるわけがなかった。すべて、「天命を受けた巫女」には関係がないことで。セリュには理解できるはずのないことだった。誰のことも、理解できない。
だから、今からどうしていいかもわからないのだ。だから、セリュがどうして存在しているのかもわからないのだ。
人に与えてもらった「天命」のためにすべきことは、もう終わってしまった。悟った天命は、果たすことができないと知ってしまった。逃げ出してしまった。なんの価値もないし意味もない。どうして存在しているのか、本当にわからない。
わからないけれど。それなのに、「巫女」として存在する理由が大きくなるほど不安になった。価値と意味が欲しくて「巫女」になることを選んだのに、「巫女」にすっかり塗り潰されて食われてしまいそうで心細かった。存在する価値も意味もないはずのセリュが消滅するのが、怖かった。
わかってほしいと思ってしまった。見てほしいと思ってしまった。わかりたい、見たいと思ってしまった。そんなこと思いたくなかったのに。思っても仕方ないのに。でも。
お別れになってしまう前に、話がしたかった。聞きたいことがあった。でも踏みとどまった。あとずさってしまった。聞きたかった。
あなたは、どうして。
ふと、滝壺のほとりに、ささやかな色を見つけた。霧のような水しぶきに揺れている、小さな花だった。立ち上がってそばに寄る。かよわそうだけれど実は力強くて、凛と咲くこの花が好きだ。こんなところにも咲いていた。とても細かな雫をのせて、光っているように見える。
ほんの少ししか取れないけれど、蜜も甘くておいしい。小さいときは、道端に咲いていたこの花を摘んでよく蜜を吸っていた。あるときルタが、そんなの何が小便したかわかんないよ、と教えてくれてから控えているのだけれど。ずっと見ていても変わるものではないのに、長いあいだ、その小さな花を見つめていた。
ふと、かすれて震えたような、声が聞こえた。その声は、セリュを呼んだ。よく知っている声だった。身体の奥で熱い塊が生まれて膨らんで、中のもっと熱いものがあふれだしてきそうになる。目の前の紫がにじんで揺れて、早く返事をしてはと、やさしくあと押ししてくれる。
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