三十八 還道

 瑞々しい香りと青い草の色が、まろやかな風と一緒に白い世界を塗り替える。真っ白な幕にさえぎられていたものたちに一気に包まれて、目の前がくらりと揺れた。

 幕を上げた人は、白い衣を着ていた。その顔を見て、血の巡りが止まった気がした。

 どうしてこんなところに。

 「セリュさま」

 地面に下ろされた輿のそばに膝をついたのはエナだった。理解が追い付かなくて何も言葉が出ず、セリュはただひざまずくエナを見下ろした。大神殿から来た巫女たちと同じ白い姿のエナは、立ち上がるとセリュに手を差し伸べた。

 「まいりましょう」

 どこへ、とも聞けないままでいるとそっと手を取られる。ひんやりしているけれどやさしい手に、思いがけず安心してしまって、セリュは腰を浮かせていた。はっとして、首を振る。

 エナが少し困ったように眉を下げた。セリュはもう一度首を横に振った。どうしてエナがここにいるのかは知らない。でもきっと巫女の格好をして、行列に紛れ込んでいたのだ。なんだかろくでもないことをしようとしている気がした。エナは輿の中に上半身だけ入ってきて、ささやくように言った。

 「セリュさま、みな目を覚ましてしまいます。早く」

 目を覚ましてしまうとはなんなのか。

 咄嗟に背後の布をまくり上げ、ぎょっとした。周囲の人々はみんな倒れていた。白い巫たちや兵士たちが、地面に横たわったり、木や輿などそばのものに寄りかかったりしていた。お互いにもたれ合っている人たちもいる。手足を投げ出している人もいる。みんな、目を閉じていた。

 「みな寝ております。しかし油断なりません」

 エナに抱き上げられ、幕の中から出された。だめだと思った。エナは何か大変なことをしているとわかった。これはいけないと焦るのに、身体が動かない。

 エナはセリュを軽々と抱えたまま、眠っている白い人々のあいだを歩いていく。白い馬にセリュを乗せて、うしろにひらりと飛び乗った。馬はなんだか途方に暮れたような様子で、地面を前足で掘っている。

 「エナさま」

 セリュはやっと声を出した。うしろのエナを振り返ったとき、馬が走り出した。

 「エナさま、これは」

 「のちほど説明いたします」

 木々のあいだの草原を走り、倒れた人々からどんどん離れていく。大神殿からの使者たちを、眠らせたのはエナだろう。きっとあらかじめ、口に入れるものに薬でも混ぜていたのだ。こんなことをして「巫女」を連れ出して、見つかったらエナはひどい目に遭うのではないのか。泣きたいくらいに焦りが膨らんでいく。でも、白い集団から遠ざかっていくことに、泣きたいくらいにほっとしてしまう。どうすればいいのかわからない。セリュは奥歯をかみしめて馬の首にすがった。白い馬は文句も言わずにひたすら走っている。エナとセリュを、どこか遠くへ逃がそうとしてくれているのだと錯覚しそうになる。

 「ご安心ください。必ずお守りします」

 エナがきっぱりと言った。




***




 でこぼこして水気を含み、滑りやすそうな道の上を、エナの引く馬が慎重に歩いていく。セリュは馬に乗ったまま、黙っているしかなかった。馬が走りやすい草原を抜けて、山の中に入っている。周囲は高い木々に囲まれて日陰になり、足元は少しぬかるんで傾斜のきつい道なき道になっていた。

 自分も歩くと言い張ったけれど、それでは遅いのだとはっきり言われた。セリュはもともと深窓の姫君とかではないし、山奥の神殿で暮らしていたので山道には慣れている。でも、敵地にも忍び込めるくらいに鍛えているエナにかなわないことはわかっていた。だからおとなしく、エナが引いてくれる馬に乗せてもらうしかない。

 葉擦れが川のせせらぎのように聞こえる。地面や馬の身体に、ちらちらと木漏れ日が舞う。エナのまとう純白にも、模様のように細かい光が落ちていた。

 「セリュさま」

 歩みを止めることはないままのエナに呼ばれた。

 「はい、エナさま」

 こんなことをさせてしまって、どんな顔で存在すればいいのかわからない。せめて、心を込めて返事をする。

 「お聞き及びやもしれませんが、殿の策は璧府ヘキフに露見いたしました」

 エナは淡々と言った。

 「璧府の密偵に掴まれました。砦がつぎつぎに落ちたことで怪しまれていたようです。捕らえられ吐かされた者がいたらしく。攻月台コウゲツダイとの野戦のあと、城に璧府が乗り込んできて殿はその場で処刑されました。深く関わった方々も」

 セリュは瞑目した。馬を引きながら足元の悪い斜面を歩いていても、エナは平静だった。

 「そののち璧府大将ヘキフタイショウが攻月台の陣を攻めました。攻月台を追い払うためと」

 エナが言葉を切り、急に低い声でつぶやいた。

 「あなたさまを捕えるためです」

 あそこにいなければ、なくなった人たちは死なずに済んだのだ。でもどこにいたって、必ず誰かは死んだ。

 「しかし何も知らなかった兵たちが」

 エナの声が、どこかせつなそうなものになる。

 「殿が皇帝陛下を裏切るはずなどないと怒り、璧府を背後から攻めました」

 セリュはゆるりとまぶたを上げた。

 「黒翅隊コクシタイもよく戦いました。おかげであなたさまをオウ・シュンスイごときに渡さずに済みました」

 エナは、璧府大将の名前だけは憎々しげに吐き捨てた。

 「オウは殿のために戦った兵たちを統率することができておりません。反抗する者を殺して回るわけにもいかない。城は混乱しております。攻月台が攻めれば落ちましょう。それが済めば都は火の海です」

 シャ・ジュンは皇帝のために戦ったのだと信じていた人々がいたから、違う形ではあれ策が実ろうとしている。シャ・ジュンは慕われていたのだろうか。どろりと、胸の内で何かが渦巻く。

 「ですから、オウはもう『巫女』どころではありません。それなのにカファ国大神殿某が首を突っ込んで、都に連行などと。セリュさまを害す気なのです。許せません」

 エナの声が揺れていた。やはり大神殿に着いたら処刑されるのだなとわかった。

 「しかしもう心配はありません、セリュさま。わたくしが必ず、あなたさまのおられた神殿までお送りします」

 「どうして」

 覚えず口からこぼれていた。突然、寒いと思った。風はあたたかいはずなのに、急速に身体が冷えていく。

 「璧府に届けてくれるのではないのですか」

 エナが凍り付いたように動きを止める。馬が不思議そうにしながら立ち止まった。どうして。シャ・ジュンだけでなく、計画に関わったと知られた人たちは処刑された。セリュも加担していたのだ。璧府は「巫女」としてシャ・ジュンに協力したセリュを捕えようとしていた。今までの話からして、目的地は璧府大将のいるシャ・ジュンの城しかないのではないか。

 「何をおっしゃっているのですか」

 馬上のセリュを見上げるエナは大きく目を見開いていた。

 「何をめちゃくちゃなことを」

 めちゃくちゃなどではないと思った。

 「なぜあなたさまは、すぐにそのようなことをおっしゃるのですか」

 エナの声は震えている。怒らせてしまった。でもエナはまた、とても、かなしそうな目をしていた。

 「エナさま」

 「何もおっしゃらないでください。神殿にお送りします。あなたさまが暮らしておられた神殿です。戻って、もとのように過ごしてください。あなたさまはもう『天命を受けた巫女』ではありません」

 「巫女」としての「天命」を終えて、そのあと残るものなんか何もないのに。帰っていいところなどないのに。

 それにエナが今、セリュの身柄を大神殿から奪って、もとの場所へ帰そうとしているのは自然なことでは決してない。危険を冒してセリュの命を救うのは、エナの仕事ではない。セリュがどの段階で誰に害されることになっても、エナが助けにきてくれるなどということは決まっていなかった。セリュは最初から斬られるかもしれないと、どこかで命を落とすかもしれないとわかっていて、シャ・ジュンのもとへ行ったのだ。

 それなのにエナは、セリュを励ますように微笑んで言う。

 「ご心配ですか。申し訳ありません。あの数をなき者にするには力不足でした。しかし薬はしばらく切れませんし、意識があってもまともには動けません」

 何を言っているのだろう。通じていないのだと思った。セリュも、エナの思っていることを感じることができていない。

 「もうすぐ、道が開けてきますのでまた走れます。すぐに着きますよ」

 エナのまなざしがやさしすぎて、わけがわからなくなる。何か言おうとしても、考えがまとまらなくて喉を空気がこするだけになってしまう。

 「だいじょうぶです。セリュさまは立派にやり遂げてくださいました。もうゆっくり休んでいいのですよ」

 エナは包み込んでくれるようにやわらかな声音でそう言って、また馬を引き始めた。馬がふすんと鼻を鳴らして歩き出す。

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